第六章 終幕〈エピローグ〉
かつて一人の王がいた。
王は白銀に輝く巨大な狼を従え、その力を我が物とした。
獣の力をその身に纏う、最初の一人となった。
王は、自らの友であり友人の三人に、獣の力を与え、幾人もの王達を征服した。
やがて王は、唯一無二の皇帝となり、世界を支配した。
だが世界皇帝となった王には、足りないものがあった。
約束された、つがいの者。
愛おしき巫女。
巫女は覚める事のない眠りについて、彼が死ぬまで、ついに目覚める事はなかった。
彼は言った。
私は現世で、巫女と出会えなかった。だが幾万、幾星霜の時を経ようとも、何度生まれ変わっても、必ず巫女と巡り会う。それまで狼よ、巫女をどうか守ってくれ。そして友よ、狼と共に、妃の目覚めと我の復活なるまで、我が係累を支えてくれ。
狼は主の命に従った。
幾万の夜が過ぎ、幾星霜の刻を数えても、主と巫女の巡り会う刻を待った。
あまりに永い刻を待つ内に、狼はもう、巫女は目覚めないのでは、と思った。
主も表れないのでは、と諦めかけた。
主の友など、とうの昔にこの世を去り、その獣達も、姿を失いつつあった。
〝狼〟は想う――。
夢を見ていたのだ――。
永い、永い、永遠ともいえるような、永い夢を――。
自分が、何代目かの〝狼〟であるかすらも覚えていない。
いずれ己も灼き切れるだろう。
かつての〝己だった〟モノたちのように――。
もう諦めろ。〝彼〟はいない。いないのだ。
約束は叶えられず。願いは届けられず。
このまま朽ち果てていくのを、ゆるりと待つだけ――。
――。
声がした。
誰だ?
何だ?
懐かしい声。
聞き覚えのある声。
声は言う――。
僕が守る
君の事は、僕が守る
主の声だ。
戻るはずのなかった声。
帰るあてのなかった声。
しかし、忘れもしない――声。
それが聞こえた。
失われつつあった己の力を振り絞り、狼は己の残った力を奮い立たせた。
〝彼〟の姿をそこに見て。
我々の、〝世界の開拓者〟――。
※※※
寝床を見つめる少女は、かつての豊かな黒髪を白銀に色褪せさせたのみで、皺一つなく、老いる事などなかった。彼女が若さを保っているのは、ひとえに神々の恩寵ゆえであるが、それでも老いた自分を顧みると、置いて行かれたような寂しい気持ちになってしまう。
「まぁ、陛下……そんな寂しい眼をなさらないで」
妃が手を取り、自分を慰めてくれる。
「……知っているのだ」
かすれた声。声を出せば、肺がふいごのように喘いでしまう。
「何を、ですか?」
「妃よ……そちが彼の者らと同じである事だ」
少女の眼が大きく見開かれた。白磁のような肌から、一瞬で血の気がひく。
「いつから……ですか?」
「最初からだ。余と〝巫女〟以外で、齢三〇〇を超える人間などおるわけがない。そのような者は、この世に居てはいけないのだ。彼の者らを除けばな」
「しかしそれは――」
「よい。もう、よいのだ」
「陛下……」
「分かっていて、それでも尚、余はお主を妃とした。それが〝巫女〟への裏切りだとしても、余の空虚さを埋める相手を、誰か……誰か一人、欲しかったのだ。許せ。余は、お前を〝巫女〟の代わりとしてしまった……。許せ、妃よ……。許されぬ裏切りだという事はわかっている。それでも余は……」
驚きの後、妃の瞳は悲しげに、優しげに揺らめいた。皇帝の手を優しくしっかりと包むと、自らの頬に重ねる。
「もう、何も仰いますな。陛下のそのお気持ちだけで、私は充分でございます。いいえ、許しを請うのは、むしろ私の方。今まで陛下と臣民を謀り、この国のあるべき姿を捩じ曲げたのは、私です。――ああ、何とお優しい陛下。私は今まで、陛下に守られていたのですね」
「そう言ってくれるか……妃よ」
「決めました、陛下。私、これからの生を、陛下の作りしこの国を守り、巫女と皇帝家との巡り合わせに捧げます。これより私は、〝エポス〟ではありません」
「その言葉……わかっておるのか」
「ええ。勿論ですとも。私はこれからの生涯を、陛下の銀狼と、巫女、それに帝家のために全て注ぎます。例えこの身に、裏切りの刻印を捺されようとも、構いませぬ。私はもう……一生分以上の幸福を、陛下に与えて頂きました」
二人は、互いに慈しみの涙を流しながら、微笑んだ。
やがて妃は、ゆっくりと老帝に顔を寄せ、その頬に最も慈愛のこもった口づけを送った。
イーリオの意識は、ここで途切れる――。
今の場面が何を指すのか、まるで理解も出来ぬままに。
やがて意識は、遥か未来、雪と氷の宮殿に向かう――。
また、病床に伏せる老人がいた。寝台の豪華さと、老人の身なりからして、先ほど見た老皇帝と似た身分であろう。いや、この老人も皇帝なのだろうか。
だが老帝の傍らに居るのは、彼を慰める心優しき妻の姿ではなかった。
白灰色の髪の少年。
イーリオは宙に漂うようであったため、少年の顔は見えない。こちらに背を向けた格好になっている。だが、どこか見覚えのある背格好だった。何だろう。ひどく胸がざわつくような――。
だが、それ以上に目を惹いたのが、老帝の髪。病床故に整えられてはいないが、その色は緑。イーリオと同じ、緑金の髪をしていた。
先ほどとは異なり、二人の声は聞こえない。だが雰囲気から察するに、先ほどの幻視と違い、二人の空気は緊張感を孕んだものであるらしかった。
不意に、少年が笑う仕草をする。老帝は、それに怒りを滲ませるも、体が言う事を効かないようだ。
――た。
声が、聞こえた気がした。
イーリオは耳をそばだてた。老帝が何かを呻く。
――おのれ、ハーラル! この偽物が!
少年がこちらを向いた。
その瞬間、イーリオの意識は再び途切れた。
※※※
クリスティオが意識を取り戻したのは、ミケーラの声がしたからだった。目覚めた時には、既に鎧化を強制解除されており、おそらく巨大人狼が破壊された衝撃波は、それほどの威力だったという事なのだろう。
実際、彼の鎧獣、タテガミオオカミの〝ヴァナルガンド〟は憔悴し、あちこちを傷めていた。ミケーラと彼女の鎧獣〝ウォルカヌス〟は比較的傷が浅く、それというのも、この鎧獣の能力によるところが大きかったからである。
あとで聞いた話だが、ミケーラはメギスティの寺院に向かう前に、アクティウム本国に、〝ウォルカヌス〟の封印を解くよう伝えていたらしい、寺院に来る途上でドグが耳にしたのはその事であり、主の意見を無視してでも押し通した彼女の機転がなければ、今の彼らの命はなかったかもしれない。
だが、その命――。
ドグの命はもう――。
そして、彼、ドグの死体も、何処にも見当たらなかった。
先に崖下に転落したからだろうか。この堆く積もった瓦礫の何処かに埋まっているに違いなく、それを考えると無惨さと無念さに、クリスティオですら、心が締め付けられる気がした。
また、爆風の中で見失ったシャルロッタの姿も見当たらず、この後、何時間も探す事となったが、結局ここから、彼女を見つけ出す事はなかった。
これも後日になるが、シャルロッタらしい銀髪の少女が、黒豹を連れた黒衣の男と消えて行くのを見た人間があり、彼女の生存が判明する事となる。
それが黒母教のヘスティアでないという事も分かり、尚の事、その報せを耳にした時は、喜ぶとともに姿を消したシャルロッタに何があったのか、複雑な気持ちになった。
覇獣騎士団・陸号獣隊のヴィクトリアとマルガも、何とか一命はとりとめていた。しかし、鎧獣の負傷していたマルガは、そのせいであったか、大きな怪我を受けており、急ぎ近場の医療を受ける事となった。当分、任務に就く事も叶わないほどの負傷であったという。
なので、彼女ら両名は、イーリオの無事を確かめると、ミケーラに後事を託し、その場を離れる事となった。そもそも彼女らの目的は、レレケこと、レナーテの救出にあるのだから、ここから離脱するのに、何らおかしい事はないと言えたのだが。
そして、イーリオ。
彼と銀毛の大狼〝ザイロウ〟は、瓦礫の上、意識を失った姿で発見された。
クリスティオらがイーリオとザイロウを運ぼうとした矢先、そこにカイゼルンとリッキーが表れたのは、たまたまでしかなかった。あと少し、カイゼルンらの到着が遅れれば、彼らはすれ違う事になっていたろう。
惨状を目の当たりにしたリッキーは、一体何が起こったのか理解出来ないでいたが、クリスティオの説明を聞いて、言葉を失うしかなかった。イーリオのこの様子。そして、兄と慕ってくれた、ドグの死。
一方でカイゼルンはというと、僅かに眉をひそめたが、まるで予想していたかのように、気乗りのしない声で頷くだけだった。
「カイゼルン公、何かご存知なのですか?」
ミケーラの問いに、カイゼルンは締まりのない笑顔を向けた。
「ミケーラちゃんの質問とはいえ、オレ様もよくはワカらんよ。ただ、まぁ……」
「ただ?」
「三賢紋の伝承って知ってるか?」
首を傾げる一同に、思いもかけぬ方向から、声が響いた。
「創世神話を元にした、錬獣術の三賢人の持つ、聖なる紋章の事よ」
声をした方に目を向けると、そこには老人と女性が立っている。
「ホーラー卿!」
声に出したのはクリスティオ。
「レレケじゃねーか!」
リッキーも驚いた。
錬獣術師の師弟がそろい踏みになっているのだから、それもそうだろう。
「おめ……何でここに? 陸号獣隊の連中と逃げたんじゃあ……?」
「それについては儂が話そう」
「そうだ、何故ホーラー卿がここに?」
「この、エロ百獣王と同じよ。この国の王に頼まれたのよ。万が一の際は、儂の力を貸してくれ、とな」
「レオポルト王が……?」
「儂が獣使術を編み出したのだからな。黒母教の連中に対抗出来ると考えたのであろう」
ホーラーが告げた後で、レレケは数ヶ月振りに、旅の仲間へと近寄った。だが、彼は昏々と眠りについたままで、瓦礫となった山沿いに似て、痛々しい姿をしていた。
「イーリオ君……」
「まぁ、儂の愚かな息子と、この馬鹿弟子が原因の一つなのは間違いないからな。儂にもそれなりに、責任があるというものだ。……で、さっきの話だが、ガリアン帝国創設に寄与したとされる、古の三賢人、アダム・ノヴァ、マルキアヌス・ゾシアス、ラシス・ハイヤーンの三名は、それぞれに紋章を持っておった。〝月の狼〟、〝天の山〟、〝星の城〟がそれよ。この意匠は、ゴートをはじめ、今でも各国で使われておるから、似たようなのを見知っとる者は多いだろう。だが、本物の紋は――」
「これだ」
言葉を継いだのは、カイゼルンだった。
彼が手にしているのは、大振りのペンダント。
空に浮かぶ山――〝天の山〟が象られている。
「え……?」
「こやつが三賢紋を持っておるのは、それこそが、真なる三獣王の証だからだ。かつて三獣王とは、三賢人よりこの紋を引き継いだ騎士のみが許された呼び名であった。今ではただの名前だけになっとるがな。だが、〝カイゼルン〟のみは、初代より今に至るも、かつての三獣王より、代々〝天の山〟を継承しておるのよ」
「それが一体……?」
「姿を消した嬢ちゃん――シャルロッタはな、かつてレオポルト王の前で、イーリオがこの三つの紋と出会う、と言ったのよ。確かそこのトサカ頭、お前もその場に居たと聞くぞ」
いきなり指をさされて戸惑うリッキーだが、しばらくして、それがイーリオ達が国王に謁見した時の事だと思い出す。
「三賢紋を従えし、獣王の王。その復活――」
「ホーラー卿、それはまさか」
答えたのは、クリスティオだった。
「ふむ。放蕩王子とはいえ、その話は知っておったか。そうよ、このニフィルヘム大陸の王家という王家に伝わる、〝ガリアンの血盟〟よ」
「まさか……それが、このイーリオだと?」
「さてな。儂に確たる物言いは出来ん。だがな、獣王の王は、銀の巫女を連れ、銀の狼を引き連れるというそうだ」
「我が国では、光り輝く人狼の騎士だと言っている」
「だな。アクティウムではそうであったと儂も知っておる。各国で差異はあれ、イーリオが今の所、それに当てはまっているのは間違いなかろう?」
「いや、それはおかしい」
「何がだ?」
クリスティオが青ざめた顔で言った。
「〝ガリアン血盟〟にあるのは、皇族だと聞いている。それなら、このイーリオは、ただの平民だぞ?」
クリスティオの否定に対し、それを聞き終えた後で、ホーラーはイーリオの横たわっていた側にあったペンダントを手にした。
飾りの蓋を開き、ある操作をすると、二重底の蓋が開く。
「アクティウムの王子よ。この紋章の意味、まさか知らぬとは言うまい?」
ホーラがペンダントに隠された、金細工の紋章を見せる。
大角羊を従えた、角ある狼。王冠が飾り付けられている。
「それは……ゴートの……!」
ホーラーは無言で頷くと、ペンダントの蓋を閉じた。それの意味する所を察し、クリスティオの胸中に複雑な思いが宿る。
「だからさっき、このエロ百獣王は言ったのだ。三賢紋だとな」
「どういう意味だ?」
「ザイロウの用いた力、それは三賢紋の表す、〝月の狼〟、〝星の城〟ではなかろうか、そういう意味よ。ここでの経緯は、途中で会うたヴィクトリアとかいう別嬪より聞いとる。巨大化した人狼に、天を裂く光の柱。何よりも、銀髪の乙女――」
だが、その姿は今はいない。
それを聞き、疑問を挟んだのは、再びクリスティオだった。
「待て。奴ら――黒母教のヘスティアとかいう娘は、巨大化したザイロウを見て〝滅びの獣〟と言ったのだぞ。ザイロウが〝滅びの獣〟なら〝月の狼〟というのはおかしいじゃないか」
「そんな事は儂も分からん。伝説についての齟齬や解釈は、儂の守備範囲外だ。しかしな、メルヴィグの王は、この少年を認めた。そして黒母教の神女とやらも、この少年を脅威とみなした。それは事実だな」
ホーラーの説明を聞いていた一同が、了とも否とも答えられなかった。ただ、クリスティオのみ、視線をカイゼルンに移して、一言尋ねた。
「師匠は、どこまでご存知だったのですか?」
「ん? ああ、まぁ、そうだなぁ……ホーラーのジイさんが言った事は、大体だな」
鼻白む一同。そこまでわかってて――。いや、この六代目〝カイゼルン〟に道理を問うのは無益な事だろう。
今はリッキーの乗ってきた、ガルー・キャリッジ(鎧獣運搬用馬車)の荷台に体を横たえるイーリオを見つめながら、レレケが尋ねた。
「これから……どうするのですか?」
まず答えたのは、意外にもカイゼルンだった。
「イーリオは、オレ様が預かる」
全員が思わず目を向ける。
「心配すんな。こいつはただ気を失ってるだけだよ。目を覚ませば、――聞きたくもない現実を知る事になるだろうがな」
「だったら――」
「だからだよ。オレ様が預かるのさ。こいつを先代の元へ連れて行く」
「五代目の所へ、ッスか? それってまさか」
リッキーが絶句するのも無理はない。
「ああ。正式にこいつを、オレ様の弟子にする。そんでもって、徹底的に鍛え直してやるよ」
むしろ今まで、正式な弟子ではなかったのか、とクリスティオが驚きと怒りの混じった抗議の声を上げると、
「あったりめえじゃねえか。お前はヴァン流の継承者の一人だ。オレ様に弟子っつっても、仮の弟子だよ。イーリオもそうだ。ま、こいつの場合は、今までオレ様が認めてなかっただけだがよ」
人を食った物言いに、呆れるしかないクリスティオ。
次にホーラーが、二つに折れた曲刀を手にして呟く。
「これは儂が預かろう」
「修復できるのですか、お師匠?」
「さてな……。だが、今試しておる授器もある。孺子の事は知らんが、この立派な大狼を、このままにしておくのは、錬獣術師として見過ごせん。ではないか、レレケよ」
ホーラーの言葉で、レレケの顔に笑顔が広がった。
こうして、甚大な破壊の爪痕を背に、全員がそれぞれの帰途へと着く事となった。
クリスティオ王子は、放蕩の旅を止め、一度帰国する事となった。ミケーラも当然、それに随伴する。
リッキーは、王都へ帰還し、再び騎士団の任へと戻った。その際、ホーラーとレレケも、同行する事となったのは、意外なようでもっともな話であった。レレケはメギスティの寺院で知った情報を伝える、という事もあるが、ホーラーもまた、それに同行しようと申し出たのだ。
その真意が分かるより先に、やがてこの後、ホーラー・ブクは、正式にメルヴィグ王国の国家最高錬獣術師の叙任を受ける事となる。
それと同時に、レレケもまた、偽名を用いた己の旅に、終止符を打つ事となった。
イーリオは、カイゼルンと共に――。
その名が再び史書に表れるのは、もう少し後の事。
彼の旅の始まり――
その目的であった母の形見のペンダントを取り戻したものの、彼は我知らぬまま、離れてしまった魂に想いを馳せる事もなく、未だ眠り続けていた。
当初の目的は達成した。
ペンダントは修復され、最強の鎧獣騎士より奪取出来たのだ。
だがその代償がどれほどの重さを持つか、彼はまだ気付いていない。
時に、メルヴィグ連合王国歴四三八年。
ゴート帝国歴五三六年。
大陸歴一〇九三年。
物語はここで、一幕目を閉じる事となる――。
次幕はこれより、三年の歳月の後――。
遂に第一部が終わりました。
面白いと言ってくださる声もいただいており、本当に感謝です。
「これからどうなるの?! 続きが気になる」
そんな風に思っていただけたら、下にある☆☆☆☆☆から、作品への応援お願い致します!
面白かったら☆五つ、つまらなかったら☆一つ、正直に感じた感想で大丈夫です。
ブックマークもいただけると本当に嬉しいです!
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