第六章 第七話(終)『別離』
埃と瓦礫が、濛々と立ち昇っていた。
万年雪のヴォロミティ山脈なだけに、あそこまでの衝撃があると、いくつかの山頂や斜面で、次々に雪崩が起こったようであった。寺院の砕けた今も、あちこちで大きな雪煙があがっていた。
かつてメギスティ黒灰院と呼ばれた岩壁の奇景は、見るも無惨に崩れ、わずかに残る寺院の跡が、痛々しく風にさらされていた。だが、それが崩れ去るのも時間の問題だろう。強い風がひとつ吹くたびに、一つ、また一つと寺院であった名残が、崖下へと落ちていく。
その、奈落の底には、夥しい黒母教信者の死体が山と重なり、見るに耐えぬ惨状を晒していた。そして、堆く積もった瓦礫が、山のような高台になった箇所に、一人と一匹が、折り重なるように倒れていた。
イーリオ。
ザイロウ。
二人に目立った外傷はなく、それというのも、爆発の中心にいたからに他ならなかった。
だが唯一、かつては優美な輝きを見せていたザイロウの白銀の授器は、その姿も僅かに、痛々しくも無数の亀裂が走っていた。さらに、鎧化解除をし損ねたのか、〝ウルフバード〟は曲刀のままで彼らの前に突き刺さっていた。
そこへ、黒騎士が姿を見せる。
既に鎧化はしていない。黒豹の鎧獣が寄り添っている。
次に、瓦礫の山を掻き分けるように、少女の姿が表れた。高貴で儀式めいた装飾の施されたその姿は、神女ヘスティアだった。
黒騎士が、意識を失って倒れたままのイーリオとザイロウに近寄り、腰に吊るした剣をスラリと抜く。一体いつ、どうやって身に着けたのかはわからない。まるで最初から準備していたかのように、黒騎士は剣を腰に帯びていた。
黒騎士が剣を構えようとした時だった。
瓦礫の山から覗き込むように、見知らぬ影が姿を見せる。
「おいおい、始末する気か?」
その影に目を向ける、黒騎士とヘスティア。
「何をしに来た」
黒騎士の冷淡な声に、影はおどけてみせる。
「何はないだろう。我ら〝エポス〟、千年の悲願が為されようというのだ。まさに歴史的瞬間というヤツではないか。立ち会おうというのは当然だろう」
「相変わらず、人間のような物言いだな。お前といい、ディユといい、少しはアンフェールを見習え」
「千年経っても、貴公の小言は耳に届かんよ。儂をこう作ったのは、母様なんだからな。それよりいいのか? 貴重な原初、その最後の〝再生体〟だ。〝罰虎〟も〝刑獅〟もない今、こいつは二つとない標本になるぞ」
影の言い様に、黒騎士は仮面で表情の分からぬものの、嘲るような調子で答えた。
「頭の中まで、錬獣術師などという下衆になりさがったか。標本など不要。〝滅びの竜〟さえあれば、全ては事足りる」
「だが、その〝竜〟の目覚めはまだだ」
影の反論に、今度はヘスティアが答えた。
「第四の鍵は開きました。あとは〝巫女〟と――」
ヘスティアの言葉に割って入るように、黒騎士が「しっ」と小さく呟く。
しばしの沈黙の後――
瓦礫の山から道を見出すように、少女が姿を見せた。
「ほう……」
黒騎士が声を漏らすのも当然かもしれない。
その姿は、彼の守護するヘスティアに酷似したもの。銀髪。銀の瞳。――いや、よく見れば、少し違うようにも見えた。衣服や装飾などではない。僅かに異なる顔かたち。ここまで近くに来なければ、気付かないほどの、微細だが、しかし、無視出来ぬ差異。
少女は、シャルロッタ――。
衣服は埃にまみれ、姿は痛々しくさえある。
だが不思議と、毅然とした物腰は、かつての彼女にあった無垢で無邪気なそれではなく、知性と神秘性を宿したようなしっかりとした足取りであった。
「お止しなさい」
シャルロッタのものとは思えぬ、抑揚の効いた声。
何より言葉遣い。
無垢な彼女を知らぬとも、この場の三者が瞠目した。
これに応えるは、やはり黒騎士。
「お前……記憶が」
影が、値踏みするような声を出す。
「ほうほう、成る程。〝罪狼〟の発動とウルフバードの損壊に伴い、封印していた記憶が呼び起こされたか。それともアレか? ヘスティアと会った事による影響か? 実に興味深い。いや、面白いな」
だが、シャルロッタは、そんな影の剽けた言葉など意にも介さず、再び黒騎士の剣に制止をかけた。
「貴方は、そこのイーリオと約しましたよね。彼のペンダントを返すと。それを反故となさるおつもりですか?」
彼女の話す内容に驚いたのか、しばしの沈黙が場を支配した。
その後で、徐々に――
地鳴りに少し似た――
低く唸るような音が鳴った。
黒騎士が笑っているのだ。彼の喉が鳴らす、不気味な低音。それが鳴っていた。苦笑なのか嘲笑なのか、仮面で表情がわからないが、笑った後で彼は言った。
「勿論、破る気はない。約定は守る。だが、その生死までは決めておらぬぞ。返す相手が生きていようが死んでいようが、それはどちらでも構わない。違うか?」
「いいえ、違います。本人が返してもらったと確認せねば、それは返した事にはなりません。一方的に返したと主張して、それが罷り通るのであれば、嘘を真実と吹聴するのと何ら変わりはありません。そんなものを騎士の礼節と言うおつもりですか? それが騎士なら、無法者のやりようです」
シャルロッタの毅然とした反論に、影が思わず、「ひょう」と戯けた風に、感心の溜め息を漏らした。
それをヘスティアがジロリと睨むと、再度戯けるように、影が首をすくめる仕草をした。
「分かってないのは貴女です。この場を支配するのは我々。我々がこうと定めれば、約束などどうとでも変わる。童と交わした約束など、守るまでもない事」
ヘスティアの言に、今度はそちらに視線を向けて、力強く答える。
「黙りなさい〝ヘレ〟。仮にも貴女がたも〝騎士〟でしょう。例えいかなる世にあっても、いかなる時代、いかなる刻でも、〝騎士〟たる者が交わした約束は、黄金よりも価値を持つもの。それを自ら違えるのであれば、貴女がたに〝騎士〟を名乗る資格はありません」
「貴様……!」
思わず身を乗り出そうとするヘスティアに、黒騎士が片手の挙動で制した。
「止せ。こいつにも神之眼がある。それも、我らのとは異なるうえに、お前を前にして、意識まではっきりとしている」
黒騎士の言葉通り、メギスティの崩壊前とは違い、シャルロッタに苦しげな様子はなかった。自分と酷似したヘスティアを認めた際には、一層苦しんだというのに、今はその欠片すら見えない。
信徒が見れば、ヘスティアが制される姿は、信じられないものだったに違いない。だがここに黒母教の信徒はなく、黒騎士は何ら躊躇う事なく、そのままシャルロッタとの話を続けた。
「この孺子を、見逃せというのか?」
「〝自分に傷を負わす事が出来れば、ペンダントは返す〟そう、約定を言ったのは貴方です」
「ふむ。確かにな」
「それを自ら破らねばならぬほど、オプスは彼に脅威を抱いているのですか」
「口の減らない小娘だ。いいだろう。だが、ただで見逃す訳にはいかん。せめてこの鎧獣だけでも潰さねばな」
黒騎士の剣が、再び刃を翻そうとする。
「いいえ、それも許しません」
「許さない、だと? 何故お前がそれを命じる」
「貴方がたが、今、最も欲っしているのは私の〝力〟でしょう? ――でしたら、交換条件です。彼を見逃せば、私はあなた方に着いて行きます」
突然の申し出に、シャルロッタを囲む三者が声を一瞬、詰まらせた。
「……お前、それがどういう意味か、分かっているのか?」
コクリ、と頷くシャルロッタ。
「見逃さなかったらどうする? お前の身一つくらいなら、こいつを殺した後、縛ってでも、お前を無理矢理、連れていけばいいだけの事だ」
「そんな事をしても意味がない事くらい、分かっているでしょう。私の〝意思〟なくば、最後の鍵が開かぬ事くらい」
「小娘……」
黒騎士は、再び笑った。今度は先ほどの笑いと違い、どこか陰湿さの抜けた声だった。
黒騎士が忍び笑いを漏らせば、ヘスティアは無表情にシャルロッタを睨んでいる。何を思っているのかは分からないが、感情がこぼれ出るのを押しとどめようとしているようにも見えた。一方で、もう一つの影は、呆れたような感想をこぼしていた。
「全く……この状況で、我ら三名を手玉に取ろうというのだからな。……いや、この状況下だからこそ、なのか?」
「どちらでも良い。……いいだろう。お前の申し入れ、受けてやろう」
笑いを収めた後、黒騎士はシャルロッタの意見を受け容れた。いや、受け容れざるを得ないと言ったところであろう。
今の彼らならそれは必然だとも言えた。
「ただし――、一方的なのは、俺の好みではない。これぐらいは、して貰うぞ」
言った直後、彼は黒化を唱え、再び人豹騎士の姿に変じた。
続け様、人豹は、流れるような動きで、黒刀を一振りする。
響く、甲高い音。
宙空を何かが舞う。
「蒸解」
再び黒煙があがり、一人と一体に戻る黒騎士。
同時に金属音が瓦礫に響いた。
それは、鎧化解除をし損ねた――白銀の曲刀〝ウルフバード〟。その刀身。
真ん中で二つに折れ、神秘的な姿を無惨なものに変えていた。
無表情で見つめるヘスティアと影。
シャルロッタは瞳をうるませ、痛々しげにそれを見つめていた。何も出来ない。止める事も出来ないし、元に戻す事など、尚の事。
ウルフバードは――。
本来あるべきウルフバードは――
――永遠に毀れてしまった。
「約束のペンダントだ」
慰めの言葉にもならない台詞を吐き、黒騎士はイーリオのペンダントを、彼の目の前に投げ捨てた。投げ落ちた拍子に、ペンダントの蓋が開くと、当たりどころの影響か、二重底になったもう一つの蓋が開く。
そこに見える、角を持った狼と山羊の紋章。帝冠を戴いたその紋は、通常のものとは違う、ある血筋のみが許されたもの。
それに気付く事なく、イーリオと彼の愛獣は、意識を失ったまま、深い眠りの淵に落ちていた。悲しげな眼差しを向けながら、シャルロッタはイーリオに近付くと、そっと頬に口づけをした。
「ご免なさい、イーリオ」
黒騎士が「行くぞ」と告げ、四人と一匹は、その場をあとにする。
イーリオの運命を動かした少女が、出会って初めて、彼の元を立ち去った。その事を、彼はまだ知らない。知らずに眠っている。
だが――彼は気付くだろう。
彼女の残した最後の口づけの意味を。
そして目覚めた時、彼が何を思うのか。その先にどんな試練が待ち受けるのか。神々すらも分かろうはずがなかった。
本話が、六章の最終話です。
この後、少し長めのエピローグがあり、第一部が完結します。




