第六章 第七話(2)『祖帝』
イーリオの意識は、遠く彼方にいた。
今ある現実ではない。
ドグの死。
それを目にした瞬間から、彼の意識は途切れた。混濁し、暗闇に堕ちていくように沈み、やがて銀狼の神之眼に刻まれた、遠き古の記憶をなぞっていた――。
イーリオの見ているのは、緋毛氈の布かれた、広間。
自分が見下ろす格好で、両横に人が並んでいる。
臣下となった面々だ。
ここは玉座の間。
そして自分は、皇帝だった。
仰々しい装飾を施した玉座に並んで、もう一つの御座には、妃となるであろう女性。そして反対側には、白銀に輝く鎧を身に着けた、白銀の大狼。壇上の一つ降りた位置に、三人の男性がいた。
その三人の一人に、イーリオが話しかけた。
喉からすべりでる声は、自分のものではない。聞いた事のない声だった。だがそれを、今は不思議だとも思わず、どこか俯瞰の位置で眺めているような、そんな心持ちであった。
「アダムよ、巫女はまだ、目覚めぬのか」
三〇代ぐらいであろう、アダムと呼ばれた男は、一礼して返答をする。
「残念ながら……」
「それでは罪狼たちも、いずれ……」
「陛下……」
「よい。これもまた神の御心の為すところ。人なる我らに、これ以上の事は出来ぬ」
アダムではない、もう一人の人物が前に出る。彼、いや彼女かどうか分からぬその人物は、ほっそりとした姿態を、他の二人同様、ローブで包み、顔は奇妙な形状の仮面で覆われていた。
「おそれながら陛下、巫女がなくともヘルシリア様がおられます。それに〝神の獣〟三騎とも全て、陛下のものなれば、何をご案じめさる事がございましょうや。石より産まれし獣らも、我ら三名が作り出せておりますれば」
仮面の人物は、声までもが男か女か不明であった。高いような低いような、どちらともつかない艶美な声。
「石獣の製造は、いずれアシュラフらも知る事となろう。遠くない内に、世にも広まり、当たり前のものとなる」
「陛下」
「また、ならねばならぬ。その為に、貴公ら三名が切磋しておるのではないか。だがな、〝罪狼〟、〝罰虎〟、〝刑獅〟、この三騎は、それら複製とは違う、神より賜りし神獣たちぞ。これを失う事あらば、いずれこの世は、再び〝崩落の時代〟へと戻ってしまう。何としても、巫女に目覚めてもらい、〝星の城〟へと赴かねば」
仮面の人物は、頭を垂れて許しを請うた。
「申し訳ございません。陛下のご心痛を思うがあまり、愚かな発言をしてしまいました」
「よい、ラシス。貴公のそれが、余を思うての事なのはわかっている」
――ラシス? 仮面を被ったラシスと言えば、まるで、ラシス・ハイヤーンじゃないか。それにアダム……? アダムだって? それじゃあやっぱり、あの仮面の人は、本物の……? 古の三賢人……なのか? もしそうなら、もう一人はマルキアヌス、なのか……?
沈む意識下で、この見知らぬ宮廷を、俯瞰で眺めていたイーリオが驚いた。三賢人と言えば、錬獣術の世界では伝説上の人物とまで言われている遥か古の大賢者たち。彼らと彼らの師が、錬獣術を形作り、鎧獣を産み出したのだ。
そして三人が仕えていた人物と言えば――
そこへ、慌ただしい靴音が響く。
重い空気を切り裂くように、伝令兵が駆け込んで来た。
「陛下! ロムルス陛下!」
――そうだ。三賢人が仕えていたのは、古代の大帝国、ガリアン帝国初代皇帝ロムルスだ。
「何事か」
息も絶え絶えにかしづく伝令に、アダムが言った。
伝令兵は呼吸を荒げながらも、必死に答える。
「アシュラフの軍勢が、南に終結してきております。尚、敵軍の中には我ら同様、石獣の姿も」
臣下の全員が、ざわざわと騒いだ。
三賢人でさえ、唸り声をあげる。
――アシュラフ? アシュラフって確か、ロムルス帝と敵対したっていう……。じゃあここにいるのは……いや、僕が……ロムルス帝だっていうのか……?
「彼奴とも雌雄を決せねばならぬ時がきたか」
「いよいよですな、陛下」
その時、言い難そうな表情で、おずおずと伝令兵が申し出た。
「あの、それと……」
「何だ、申せ」
三賢人のもう一人――おそらくマルキアヌス――が、急かすように言った。
「アシュラフ軍に、〝エポス〟の参入を確認したとの報せが」
今までの空気が嘘のように、王の間が凍り付いた。
「何だと……それは誠か!」
「は、間違い有りません。ディユ、それにアンフェールの両〝エポス〟を確認しました」
――何だ? 〝エポス〟? 聞いた事のない名前だ。人か? 鎧獣か? 伝説にも、そんな名前など出てこないぞ……。
だが、三賢人の狼狽えようは、只事ではないという事実を見せつけていた。
「そうか。アウグストゥス師の仰っていた通りになったな。これで全てのエポスが出て来たわけか」
「は。そうならぬ事を願っておりましたが」
――アウグストゥス? 錬獣術の始祖、大賢者アウグストゥス・トリスメギストス?
「いよいよ最後の戦いだ。皆の者! ニフィルヘムの諸王、諸公よ。これより我らは最後の決戦に向かう。これに勝てば、大陸は我らのもの。皆の命、このロムルスと、我が騎獣〝罪狼〟に託して欲しい!」
自分のものとは思えない――いや、実際、自分のものではない声で、イーリオは幕下の全員に号令を発した。
大気を震わすような「応」の声が、これに答える。
イーリオは、傍らに視線を送った。玉座の隣。
妃の御座に。
妃は、こちらを見て、微笑んでいた。
それはいつもの笑顔。優しいのに、どこか虚無的な笑顔――。
シャルロッタではない。全くの別人。
けれども。
黒髪のその笑顔は、どことなくシャルロッタの面差しに似ていた。
※※※
崩れた寺院の大屋根が、岩塊と一緒になって崖下へと落ちていく。回廊のほとんどが火柱で黒く煤け、立ちこめる煙が、白銀の巨躯を舐めるように這っていた。
遠吠えをあげる巨大人狼は、何に対して哭いているのだろうか?
その感情は何であろうか? 怒りか? 悲しみか? それとも憎しみか? だがそんな事など、どうでもよくなるほどの、破壊の爪痕。これでは本当に――
「破滅の獣みたいじゃないか」
苦虫を噛み潰したような心持ちで、クリスティオは我知らず独語した。
傍らにいるミケーラや覇獣騎士団の二人、それにシャルロッタが無事なのは幸いだった。
一方で、灰堂騎士団の連中は、幾人も巨大人狼の破壊行為の犠牲となり、夥しい数の屍をさらしていた。だがその中にあって、ただ一人、巨大な怪物の目の前に立ちはだかっていたのは、漆黒の人豹騎士。
まるで、瓦礫の山にすっくと屹立する勇者のように雄々しく、背後には騎士に守られた姫君よろしく、銀髪の少女――神女ヘスティアが怯える素振りもなく立っていた。
その両者を睨み、凶暴な獣の唸り声をあげる巨大人狼。
「まるで理性の欠片もないな」
誰に聞かせるともなく、黒騎士レラジェが呟いた。
「黒騎士卿、もうそろそろです」
後ろに守られるヘスティアが、何かを数えるように告げた。
「そうだな。では、俺の獣能を使おう」
言った後、黒騎士は、手にした黒刀の武器授器を翳した。刀身が蒼に光っている。
「左の第一獣能〝黒化装剣〟」
今度はその剣を一振りすると、右腕が徐々に形を変え、やがて剣と腕が一体となってしまう。同時に、黒騎士の足元で、驚くほど真っ直ぐな断裂が、地面に走った。
「右の第一獣能〝万物両断〟」
声を聞いていたクリスティオ達は、その異様と威容に、目を奪われる。
左の第一? 右の第一? 左と右とは何だ? どういう意味だ? 第二獣能ではないのか? いや、そもそも、武器授器に獣能を施すなんて、そんな事がありえるのか? それにあの異形の姿。あれが獣能だって――?
異形そのものとなった右腕を見て、巨大人狼は尚一層、怒気を露に歯を剥き出す。
警戒するような素振りを見せたかと思うと、地面が弾けるように破裂した。
巨体が跳躍したのだ。
それも恐るべき速度で。
地面の破裂は、その余波によるものだった。
躍り上がった巨体。そこに、天空が裂けるように光を発したと思うと、虚空の彼方から、一条の光が人狼の巨体に降り注いだ。
まるで、光の柱が天空の神々より降ろされたかのような荘厳さだ。目にした人々は、神秘に打たれたように、ただ呆然と見上げてしまう。
そのまま宙空に留まっていた巨大人狼だったが、やがて光の柱が収束されて糸となり、空へと消え去っていく――。
同時に――轟音をあげ、巨大人狼が大地に飛来した。
それはさながら、宇宙から落ちる隕石のように、垂直に黒騎士へと落下していく。
避ける以外にない。いや、避けても、この巨体とあの破壊力だ。避けた所で、辺り一面、粉微塵になるに違いなく、まさに万事休すとなる一撃だった。同時に、クリスティオ達も巻き込まれるのは確実で、跳躍を目にした瞬間、血の気の引く思いで、「逃げろ」と全員が叫んだ。
だが、黒騎士は動かない。
微動だにしない。
飛来する影が、全身を包み隠さんとしたその矢先――
黒刀一閃。
蒼昏い剣閃が、天を裂くように駆け上がった。
落下して来た巨大人狼に、袈裟懸けの線が描かれる。
巨大人狼の中――
高密度のプルートイオンの粒子に包まれ、ザイロウの本体があった。
その身に纏った白銀の鎧に、亀裂が入る。
亀裂は音を立て――幾何学的な線を広げ――
大きく砕け飛ぶ――
外では――
巨大人狼の巨躯が線に沿ってずるりとズレたかと思うと、大地に着く直前――辺り一帯に猛烈な衝撃波を起こして弾け飛んだ。
目に見えぬ破壊の波。
熱風と蒸気が混じり合い、逃げようとしていたクリスティオ達も吹き飛ばされる。
ミケーラも、抱えていたシャルロッタを落としてしまうほどの凄まじい衝撃。
マルガは傷もあったせいか、そのまま波に呑み込まれ、ヴィクトリアは、その部下を助けようとするも、自身を保つのに精一杯になってしまう。
だが、その破壊の渦の中。
ヴィクトリアは見た。
衝撃波の中心、ただ中にいるにも関わらず、まるでそこだけが安全圏かのように、悠然と立つ漆黒の人獣と、銀髪の少女を――。
そして、二人の周りにうっすらと輝く、竜の姿を。
まるでそれは、銀髪の少女が呼び寄せているかのようであり、彼女は祈るように、両手を天に翳していた。
だが、ヴィクトリアが見たのはそこまでだった。
彼女も巨大人狼の砕けた衝撃波に呑み込まれていく。
様々な人々の悲鳴と叫喚が渦となり、やがてその後、破壊の力は、天空に昇華されるようにのぼっていった。




