第六章 第六話(1)『三人狼』
メギスティ寺院の最深部。
薄い紗幕を幾重にも重ね、視界に薄靄がかかったような錯覚を覚えさせる、独特の空間。
神女ヘスティアの祭壇。
そこに、足音が響いた。
「〝ヘレ〟」
男の声。
挙動なしに紗幕を避け――まるで自動で天幕が上がるように――初老の男がヘスティアの側に近付いた。
クセの強い巻き毛の黒髪に、濃い髭を生やしているが、薄汚さはない。身なりもすっきりとし、書架に籠る賢人といった風情だ。
部屋には彼とヘスティアの二人だけ。お付きの巫女達はいなかった。
「ここには来るなと言ったでしょう」
ヘスティアが男――イーヴォ・フォッケシュタイナーを咎めると、彼はそれを鼻で笑った。もし誰かに見られでもしたら、不敬で騒がれかねない素振りだ。しかし、イーヴォの言動はまるでそんな事など気にする様子もなかった。
「定例報告だ」
「分かったのか」
いつものヘスティアらしからぬ、男のような言葉遣い。
「あの孺子が引き金になるのは前にも言ったが、第四層を解放するには、残されたプルートイオンを消費してしまう必要がある。おそらくあと一度〝門〟が開けば、〝一つ目〟は起動する」
「やはりな……。お前はどうする?」
「まだこのままが有り難い。なので、一足先にヒランダルに行っておくよ。巻き添えを食ってはかなわんからな」
「見届けんのか?」
「いいよ。〝ヘル〟がいれば何も問題あるまい。今の私に出来る事などしれている。代わりに頼むぞ、〝ヘスティア様〟」
最後の言葉に皮肉めいた響きを含ませ、それだけ言ってイーヴォは消えた。
ヘスティアは、無表情のまま、消えた空間を凝と見つめる。
やがて祭壇から立ち上がると、鈴の鳴るような声で、部屋の外を誰何した。
「十一使徒のフランコをここに」
※※※
黒豹レラジェを纏う鎧獣騎士、黒騎士。
当代最強と言われる三獣王の一人。
対するは、ゴート帝国で眠っていた伝説の大狼〝ザイロウ〟を纏う人狼騎士イーリオ。
アクティウム王国王子にして天才騎士。タテガミオオカミの〝ヴァナルガンド〟を纏うクリスティオ。
そして、クリスティオの付き人にして、無類の強さを誇る女人狼騎士。ネブラスカオオカミの〝ウォルカヌス〟を纏うミケーラ。
三騎の人狼騎士と、大山猫の〝カプルス〟を纏うドグ。
ドグは三人と距離を置いていた。
灰堂騎士団の鎧獣騎士達が動く素振りはないが、いざという時、シャルロッタの身を守れる人間が一人はいなくてはという考えからだったが、正直、三名の人狼に気後れしている自分もいた。
イーリオやクリスティオはともかく、最後に表れたウォルカヌスという人狼騎士。
黄色に彩られた鮮やかな授器が目を惹くが、それ以上に、二名に勝るとも劣らない――いや、それ以上かも知れない実力を見せた今は、自分の出番などないようにさえ思えた。
だが、自分には自分にしか出来ない事をやるだけだ。
イーリオ達、血気に逸る二人を宥める役目も、ミケーラがしてくれている。今はただ、この戦いにおける最善の結果を、祈るだけだった。
「若様」
ミケーラの合図と共に、クリスティオ=ヴァナルガンドが鋭い跳躍をかける。
そのまま頭上から、先ほどの獣能が放たれた。斬撃が空を裂いて何度も地面を切り裂く。しかし、黒騎士は、これを僅かな挙動のみで躱した――が、続けざまに、立体的に体を捻りながら、金毛のタテガミオオカミは、有り得ない方向から、〝槍〟を繰り出した。黒騎士がこれを弾くと、槍は跳ね上がりながら大剣に姿を変え、今度は下段から地を掬うように斬り上げた。
もう、戦いというよりも、激しい舞踏を見ているようにさえ思えてしまう。何より、これら全てを、黒騎士が苦もなく躱しているのだから、呼吸のあった舞曲を、早回しで見せられているようにしか思えなかった。
ヴン。
蜂の羽音のような響きが、耳朶を打つ。
ヴァナルガンドの剣風を割くように、続けざま、鮮黄色の防具に身を包んだ人狼が、光弾の疾さと激しさをもって、黒騎士に連撃を仕掛けた。独楽のように回転しながら低い跳躍をしているようで、それはさながら、蜂が針を刺すのに似て、一撃受ければ決着しそうな鋭利さがあった。ウォルカヌスの圧倒的な剣風と同時に、反対方向からヴァナルガンドも跳躍攻撃を仕掛ける。
さすがに主従だけあり、息の合う様は絶妙。ヴァナルガンドの動きも、先ほどミケーラに「本気を出せ」と叱咤されたせいか、今まで見た事のない人智を超えた動きをしていた。
だが、真に恐るべきは、やはり黒騎士。近付く事さえままならない二騎の攻撃にさらされながら尚、体毛一つ落ちはしない。
ここで、ミケーラ=ウォルカヌスが、逆手に持った両手剣を、ジャグリングのように回転・交差させつつ。予測不可能な軌跡で、黒騎士に激しく斬り合いをしかける。
「〝黄色の一番〟ではないと言ったが……、なかなかどうして。やるではないか、女」
ウォルカヌスの強烈な連撃を前に、それでも黒騎士は余裕すぎるほどの余裕を見せていた。
ヴァナルガンドやウォルカヌスとて、凡俗の鎧獣騎士を遥かに凌ぐ、一騎当千の実力を持っている。はっきり言えば、騎士団長級以上だ。覇獣騎士団の主席官や、灰堂騎士団の十三使徒、ゴート帝国の不死騎隊に対しても、勝るとも劣らぬ、いや、場合によればそれらをも凌駕しているかもしれない。
それでも――。
それでも、黒騎士との差は縮まる気配さえ見せなかった。
絶望的な実力差。
だが、クリスティオやイーリオはともかく、この事実を前にして、ミケーラのみ、落ち着いているように見えた。実際、彼女の想定では、これでもまだ駄目だろうと分かっていたからであった。
問題はここからだ。
「イーリオ様!」
ミケーラが叫ぶ。
即座にイーリオが、獣能を発動した。蒼白い霧がザイロウの周囲を満たし、幽鬼のごとき人狼が幾人も姿を見せる。
イーリオはここで、〝騎士団〟を更に融合させた。いつもは一〇体程度の狼を融合させるが、今はその数倍。
出来あがるザイロウの分身〝千疋狼〟の数は数十騎にも満たないが、その分一体ごとの能力は格段に高くなる。
狭い回廊なら、百体も出したところで、味方や自分を動き辛くさせるだけだし、二〇騎もあれば、撹乱には充分事足りる。
表れた人狼の千疋狼が、剣陣に巻き込まれるも躊躇わず、次々に黒騎士に襲いかかった。これに、ヴァナルガンドとウォルカヌスの同時攻撃。さすがに手一杯のように思えるが、むしろこれほどの実力者を相手に、たった一人で相手取る黒騎士の実力にこそ、慄然とすべきであったろう。
「俺の本気だ。食らえ!」
クリスティオが、らしくない熱気で吠える。
跳躍からの獣能。
鋭利な刃物が、無数に飛来するも、全て弾かれた。が、それらは先ほどのように地面に落ちる前に消えてしまわず、地面に突き刺さり、そのまま弾けて、無数の棘をばらまいた。あちこちで棘が地面を満たし、余波を食らったザイロウの分身体まで、巻き添えを食らう形で消滅する。
回廊の地面が棘だらけになり、黒騎士の身動きも取り辛いかと思ったが――黒騎士は片腕で大きく払う仕草をすると、巨大な板のような何かが出現し、地面の棘を一掃してしまった。
――今のは?!
イーリオ達の疑問に答えたのは、ミケーラだった。
「おそらく黒騎士の獣能です。私からは、爪を巨大化させて、盾にしたように見えましたが――」
棘を全て無効にされたが、クリスティオの攻撃は、まだ続いていた。
体を空中で捻り、地面に着くと同時に、有り得ぬ角度、有り得ぬ格好で回転しながら、黒騎士に突っ込む。剣と槍が交互に繰り出された。
「俺に〝改変〟を出させたのはなかなかだったが、その程度のヴァン流では、俺には擦りさえせんぞ。開祖ベアトリスには、ほど遠いヴァン流だな」
「――!!」
攻防の最中の発言に、クリスティオは一瞬、耳を疑った。
ベアトリス? 何だって? 冗談か? ヴァン流開祖は他の流派より新しいと言っても、百年以上前だぞ。こいつはその開祖ベアトリスを知っていると言うのか? 大言と言うにしては、笑えない冗談だ。一体この男は――!
その戸惑いが隙になったのだろう。
無慈悲に回し蹴りが放たれ、クリスティオ=ヴァナルガンドは、大きく吹き飛ばされる。
それでも、イーリオ達の攻撃は止まらない。
千疋狼が飛びかかり、その間隙を縫って、羽音に似た音を唸らせたミケーラ=ウォルカヌスが、巧みな剣術と獣騎術で、黒騎士を休ませなかった。
そして、まさにこの時――。
ここだった。
千疋狼が作り出した分身体。その一つに紛れ、イーリオ=ザイロウが黒騎士の間合いに飛び込んだ。
それに気付かぬ黒騎士ではなかったが、次の瞬間、不意を衝くものと思われた白銀の人狼騎士が、後方に退がった事は、予想だにしていなかった。
「?」
そして今度は、一直線に黒騎士に突っ込んで行く。
正面から来るとは――正直すぎるな。
などと、黒騎士が失望を滲ませた時――勿論、この間も、ウォルカヌスや千疋狼の攻撃は続いている――鋭く放ったザイロウの爪撃を避けると、黒騎士の目の前に刃。背面を回り込むように、ザイロウの曲刀〝ウルフバード〟が迫る。
だが当然、黒騎士はこれも捌き、曲刀を高く跳ね上げる――その瞬間、無数の刃が一斉に目の前に閃いた。
恐るべき剣速で、それらすらも弾いた刹那――
ザクリ。
黒騎士の二の腕を刃が掠める。
いつあったのか。
ザイロウの手に再びウルフバード。いや、さっきの剣は千疋狼のものを見せかけただけ――。
ウルフバードをそのまま振り切ろうとするが、薄皮一枚で黒騎士がそれを弾き返した。
「クソッ」
深傷を狙ったはずがそれを防がれ、思わず悪態を吐く。
しかし――しかし、である。
初めて黒騎士に擦り傷を負わせた。初めて――。
思わず全員が距離を取る。
目的の一太刀を浴びせた事で、一旦イーリオ達は体勢を整えようとした。
一太刀しか――。そのような思いもなくはないし、実際そのように口を突いて出たが、三人の声が上擦っていたのは当然だろう。
「これだけの手数で……擦り傷一つか」
「しかし若様。狙い通りです。イーリオ様がやりましたよ。カイゼルン様より学びしあの技で」
イーリオも荒い息で動悸を必死に鎮める。
――やった……! やったぞ……! 黒騎士に……あの黒騎士に一太刀……!
一方、黒騎士は、利き腕と逆側の二の腕に目をやり、そこから流れる己の血の糸を見つめていた。見つめながら、何やら小さく呟いている。
「……最初に退がったのは、剣をすり替えるためか……。擬態の剣で隠武をかけたと思わせての……〝蜃気楼斬〟……」
「黒騎士……! 黒騎士卿!」
イーリオが叫び声で呼ぶも、こちらを見ようともしない。
「やったぞ! お前が言った通り、お前に傷を負わせたぞ。どうだ!」
黒騎士が黒豹の顔で、ゆっくりとイーリオに視線を移した。
「約束だ! 僕のペンダントを! 母の形見を返せ!」
それはイーリオにとって、生まれて初めて味わう勝利宣言だった。世界最高峰に勝負して勝った。
この世でこれほど、胸震わす思いがあろうか?
「ああ……約束……。約束だったな」
まるでそんな事など記憶になかったかのような意外さで、黒騎士は己の胸元に手を当てる。ペンダントは鎧化の中で首にかかっている。
「いいだろう。返してやろう」
遠巻きで見ていたドグも、これには思わず打ち震えた。
まさかイーリオが――! あの三獣王を相手に、ただの一太刀とはいえ、勝負をして勝つだなんて。
――この時、カプルスは既に〝感覚鋭敏〟を発動していた。発動していたにも関わらず、違和感に気付けなかったのは、仕方のない事だったのかもしれない……――
「……だが、な……」
黒騎士の肩が少し揺れていた。
震えている? いや、あれは――
「ククク……ハハハッ。アァッハッハッハッ!」
「?」
「まさかな……、まさかここまで成長するとは……。いや、本当に驚いたぞ、銀狼の孺子。カイゼルンの手ほどきに、これほどの効果があるとはな。――長らくいなかった。本当に長らくいなかったぞ」
「……?」
「いや、正直に言おう。どうせ結果は同じなのだから、期待などするだけ無駄。戯れとはいえ、この俺を心震わせる事など出来はしない――。本気でそう思っていたぞ。それがまさか……まさかな。この俺に傷を負わせる、だと? この俺に? 全く――予想以上だ。予想を遥かに超えてくれたぞ、お前は!」
いきなり興奮も露に語り出した黒騎士に、正直イーリオは、ひるむように後じさった。
「そ、そうか。予想を超えて悪かったな。だけど約束は約束だ。早く僕のペンダントを返して」
「――ん? ああ、返す。勿論だとも。だが、それはこれからの、後だ! ここで渡して終わり――だなんて、まさか言うまいな?」
「終わり……だろ」
「冗談を言うな。俺をここまで楽しませておいて、ここで終わりだなどと! そんな勿体ない真似など出来るか。さぁ、お前達! ここからが本番だ。もう遊戯は終わり。今度は本当の――戦いをしようじゃないか」
「――な! 約束が違う!」
「約束は違えぬ。必ずお前にペンダントは渡す。だが、いつ、どうやって渡すだなどと言ってないぞ。お前に渡すのは、この戦いを楽しんだ後だ。――正直な、このままでは収まりがつかんのだよ。俺の昂った気持ちがな……!」
イーリオ達全員が絶句した。
言葉が出ない。黒騎士に傷を入れた――。それで終わりのはず。なのに――。
既に、今ので全員が全力を出した。これ以上など、何も出ない。出る訳がない。だがそれを言って、黒騎士に通じるか?
満身創痍の三人狼――。
クリスティオは痛む体を堪えつつ起き上がり、ウォルカヌスを纏うミケーラも、再度両手剣を構え直す。




