第六章 第五話(3)『全速』
時間は、少し遡る。
マルガが潜入を果たしていた頃。
イーリオ達の前には、漆黒の人豹騎士が、その姿を見せていた。
〝三獣王・黒騎士レラジェ〟。
イーリオからすれば、思いは複雑だ。
彼に対して抱くのは、恩義でもあるし、憎悪でもある。ゴート帝国国境で、ハーラル皇子らに襲撃された折、この黒騎士が戦闘に介入しなければ、イーリオの命はなかっただろう。命の恩人なのは間違いない。が、彼が母の形見のペンダントを奪わなければ、今日に至る旅も、危険の数々にも遭わずに済んだのだ。何より、形見のペンダントは、彼の旅の目的であったもの。
ペンダントをホーラー・ブクに渡し、修理をしてもらう。
それはつまり、ザイロウの出自、それにシャルロッタの素性――は、もう知ったのだが――などの謎を解く手掛かりにも繋がる事で、つまるところ、更に今後の旅の目的を見つけ出す事にもなるはずだった。
しかし――。
今となってはペンダントの奪還、それのみがイーリオの目的になっている。
黒騎士は右手に黒刀をダラリと下げ、まるで無防備な構えをしていた。
獣騎術の体勢ではない。それでも、彼の全身が纏う存在感は、異質であり、圧倒的だった。
大丈夫――。
己に言い聞かせる。
百獣王カイゼルンから手ほどきを受けた日々は伊達じゃない。それに、クリスティオ王子もいる。彼と彼のヴァナルガンドは、イーリオよりも実力が上だ。ドグだっている。
シャルロッタは、ミケーラが後方へと下がらせている。問題はない。
まず攻撃したのは、血気に逸るクリスティオだった。
ヴォン、ヴォンと、大剣を回転させたかに思うと、小石の弾ける音だけ残し、その場からいきなり姿を消す。
――と同時に、けたたましい金属音が、黒騎士の直前ではじけた。
斬り結ぶ両者。
まるで見えなかった。
陸上動物で最速を誇るチーターと、同等とも言われる足の速さを持つ捕食動物、タテガミオオカミ。その鎧獣騎士であるヴァナルガンドの速度は、大陸最速と謳われる覇獣騎士団・イェルク主席官の鎧獣騎士にも比肩すると言われていた。
今の攻防ですら、大狼のザイロウでも、目で追うのがやっと。
と、思えば、今度は黒騎士の左上。次の瞬間には真後ろ。
三合、四合。続けざまに斬り結ぶ。
恐るべき速度だ。
しかし――。
そのどれもが、黒騎士の黒刀によってはじかれていた。
反応するのもそうだが、あの大剣の剣圧を受けて、微塵も体勢を崩さないのは、百獣王カイゼルンと同じであった。
六合目で、ヴァナルガンドは、一旦イーリオの側に戻った。
ただ剣を振るうだけでなく、要所要所で咬撃や爪撃も織り交ぜたが、擦りもしない。三獣王の名はさすがだと、クリスティオは武者震いをする。
「成る程な。俺の攻撃を、ああも見事に流したのはカイゼルン師以来だ」
「殿下」
「ふん、今更だ。クリスティオでいい。それよりも、だ。お前と俺、二人掛かりでなら、カイゼルン師に勝てると思うか?」
クリスティオ王子の言いたい事は分かる。その答えは決まっていた。
多分、無理だろう。
喉元までそう出かかったが、声に出さずに呑み込んだ。口にすれば、それは己の士気を下げる。口にしようがしまいが同じにも思えるが、言葉にすれば、それは重みを増して、二人の枷となりうるからだ。
イーリオが答えあぐねていると、黒騎士が言った。
「銀狼の孺子。お前は来ぬのか?」
鎧獣騎士である以上、汗を拭う、という仕草はない。けれども、挙動で相手の疲弊具合や調子は見て取れる。
クリスティオ=ヴァナルガンドのさっきの攻撃は、まだ本気のものではなかったろう。だがそれでも、決して軽い攻防ではないはずだ。その証拠に、ヴァナルガンドの息はそれとなく乱れていた。反対に、黒騎士は微塵の疲労も見せていない。それどころか、子供の遊び相手をしてやるように、いや、それ以上の軽々しさで、黒騎士はヴァナルガンドの連撃を払いのけたのだ。
無造作に。極めて容易に。
余力を残すとか、本気でないなどというものではなかった。黒騎士にとっては、自分達の存在など、赤子の手をひねるようなものでしかないのかもしれない……。
「確か……百獣王に弟子入りした――と聞いているぞ。その成果とやらを見せてみろ。勝算があるから、獣を纏ったのであろう?」
獣を纏う、とは、剣を抜く、と同義で使われる戦闘開始の表現だ。
「……」
「どうした? 臆したか? 二人掛かりだろうが三人掛かりだろうが構わん」
身を乗り出そうとするイーリオに、ドグが片手で抑えた。
「落ち着け。相手の〝底〟さえ見えてねえのに、おめえ一人で熱フイてんじゃねえぞ。リッキーの兄貴が言ってたぜ。〝心は熱く、頭は冷たく〟ってな」
確かにそうだ。まるで敵わない相手に、半ば自棄になりかけていたのかもしれない。
だがここで、折角のドグの忠告を台無しにしてしまうような発言が、黒騎士の側から飛び出した。
「まぁ、仕方のない事か――。カイゼルンごときの教えでは、俺を楽しませるまでにはいかんという事だろう」
「……」
あの師匠を指して、〝ごとき〟とまで言ってしまうか。
自分の事ではないにしても、それはイーリオとクリスティオ、両者の自尊心を、刺激するには充分な発言だった。
「そうだな。ここは一つ、取り決めを変えようか。お前が私に勝てたら、ペンダントを返してやろう、と言ったが、お前達にとって、それはあまりに無謀に過ぎたようだ。――では、だ。――私にかすり傷の一つでも負わせる事が出来れば、ペンダントは返してやろう、とするのはどうだ? これならお前達にも、万に一つの勝機も生まれるだろう?」
「――!」
「ああ、無論、そこの助っ人二人も加えての話だ」
声は淡々としており、嘲りや馬鹿にしたというものではない。ただ、決まりきった事実を述べるような当然さで、黒騎士は、信じられない事を口走った。
「この俺を前に、かすり傷を付けれたら――だと?」
イーリオが激昂するより先に、クリスティオの感情が逆撫でされた。
アクティウム王国最強を自負する彼にとっては、信じられない侮りであったろう。確かに黒騎士は強い――が、それはいくらなんでも、驕りが過ぎるのではないのか?
クリスティオはまさにそんな言葉が迸り出そうな怒りによって、全身を一瞬で染め上げた。
「イーリオ」
「はい」
クリスティオはイーリオを振り向かず、真っ直ぐ黒騎士だけを睨みつけたままで続けた。
「今から本気で行く。お前は俺に合わせろ。隙があれば、お前のあれを叩き込め。師匠から習ったあれだ」
クリスティオの言わんとする意味を、即座に理解したイーリオ。成る程。あれならば、黒騎士だって躱しようがないはず。
そこへ、何やら慌ただしい喧噪が、メギスティの寺院側から物々しく響いてきた。
「ドグ、お前はあいつらから、ミケーラとシャルロッタを守れ」
クリスティオの指した方向から来たのは、十騎以上のオグロヌーの鎧獣騎士達。灰堂騎士団の戦闘員だろう。ここまでの騒ぎになれば、加勢が来るのは当然の事だ。
クリスティオの判断や指示は正しかったが、いきなり名指しで命令され、ドグはいささかなりともムッとする。
だが、ドグが抗議の声をあげる間もなく、事態はタテガミオオカミの足の速ささながらに、目まぐるしく駆けていく。
「〝全速〟だ」
台詞を言うが早いか、クリスティオ=ヴァナルガンドの姿は、その場から一瞬でかき消えた。
同時に、いくつかの金属音。数名のオグロヌーが、切り裂かれ、絶命している。さらに、これまた同じ拍子で、黒騎士にも連続した金属音があがる。既にヴァナルガンドの大剣と、二撃も交わしていた。
――ヴァナルガンドの最速!
イーリオも初めて見る、最高速度を出したヴァナルガンド。
瞬きをする間に、何撃出したのだろう。
アクティウム騎士、とりわけヴァン流を修める者は、足の速さを活かした騎士が多い。ヴァン流宗家の達人たちもそうだし、国家騎士団の有名騎士には、〝閃光〟と異名をとる者もいると聞く。
それでも、ヴァナルガンドの足の速さは、噂に聞く足自慢の騎士達すらも凌駕しているに違いなかった。短距離型ゆえ、持久力はないが、最高速度は時速一九〇マイル(約三〇〇キロ)を超えていた。
これに合わせろというのは、どだい無茶なようにも思えるが、イーリオはそれでも、真剣にその〝機〟を待った。
これほどの速さだ。反応出来る騎士などいるのかとも思えるほどだが、それでもやはり――悉くを黒騎士はいなしていた。おそろしいまでの反射と反応。だが不思議な事に、黒騎士の振るう剣、その防御にそれほどの速度感はなかった。むしろ、――ヴァナルガンドに比べれば――ゆったりとも見えるような挙動で剣を翳し、体を捌いて、対処する。それはまるで、クリスティオの攻撃が、あらかじめそこにくるとわかっているかのような自然さであった。
――あの時と同じ……!
イーリオは、前回の黒騎士との邂逅を思い出す。
寒風と秋雪が舞う、ゴート帝国国境。
力尽きたイーリオとザイロウ、そしてドグらの前に、帝国のグリーフ騎士団と団長のギオルが立ちはだかった。万事休すとなった時に表れたのが、黒騎士だった。
あの時、黒騎士は、襲いかかるグリーフ騎士団の鎧獣騎士を相手取って、まるで敵の動きを完全に読み切っているかのように戦ってみせた。黒騎士が剣を振るった先に、相手が勝手に飛び込んでいくかのような――。
今、クリスティオの高速連撃を前に、あの時同様、未来でも視えているかのように、大剣を易々と捌く黒騎士。それゆえに、隙という隙が見当たらず、イーリオはただ凝っと待つしかなかった――。
「どうした、孺子? さあ、来い」
この連撃の最中、黒騎士はイーリオにも聞こえる声量で、挑発する余裕さえある。
ここでクリスティオ=ヴァナルガンドが、動きを変えた。
前後左右に激しい出入りを繰り返していた中、縦方向に大きく跳躍をかける。その直後――。
突風が、黒騎士の直上から吹き降ろされた。
同時に、周囲で全身を切り裂かれたオグロヌーの鎧獣騎士達が、石畳に昏倒する。
――今のは、獣騎術……? いや?
イーリオがヴァナルガンドの方を見ると、黄金の人狼の両足に、異質な形状変化が見てとれた。
両足のふくらはぎ後ろ。その体毛が鋭く逆立ち、鋸刃さながらに鋭利に突き出ている。
「ほう。それがお前の獣能か」
黒騎士が呟いた。
何が起こったのか、イーリオにはまるで分からない。ただ一つだけはっきりしているのは、それでも黒騎士には、傷一つついていないという事実だけだった。
「……チッ」
ヴァナルガンドの中で、小さな舌打ちが聞こえる。
珍しい――というより、初めて見る。ここまで動揺しているクリスティオ王子は。
イーリオは、手にした曲刀〝ウルフバード〟を構え直した。
敵う、敵わないなどと考えてる時ではない。そして、機を待つ状況でもなかった。隙がないなら無理矢理にでも隙を作る。
今のクリスティオ=ヴァナルガンドの戦い。それがイーリオの闘争本能に火を灯した。




