第一章 第七話(2)『灰色熊』
イーリオは砦中央の屋敷へ潜り込む。
ザイロウは大きいので、どのみち姿は隠せない。ならば、ここは玉砕覚悟の猪突猛進しかないと腹をくくり、一気に最短の道を選んで駆け抜ける。
途中、幾人かの山賊に出会ったが、体長六フィートはある巨狼に襲いかかられれば、流石に胆の座った荒くれ者であってもひとたまりもない。悲鳴を上げて腰を抜かすか、一目散に逃げ出して行く。
やがてイーリオは、シャルロッタが捕われている部屋の、すぐ近くまで辿り着く事に成功していた。
そう、すぐ近くまで、であった。
部屋に入るただ一つの入口の前には、例のハイイログマの鎧獣が、地獄の番犬もかくやと言わんばかりに、通路を塞いでいたのだ。
相手が鎧獣騎士になってないのであれば、これは願ってもないチャンスである。けれど、鎧獣騎士になれないのは自分も同じ。
ハイイログマはこちらの動揺を見透かしてか、王者の余裕で、悠然と扉の前に陣取っていた。来るならいつでも来い、と言わんばかりに。
このまま無駄に時が経てば、言ってる間にハイイログマの騎士が来てしまう。だからといって、先ほどまでのように考えなしに突っ込めば、イーリオの頭など、西瓜を割るより容易く粉々に粉砕されてしまうだろう。何せ、野生のハイイログマは、牛馬の頭骨でさえ、その鉄槌のような前足の一撃で粉砕してしまうのだから。
――どうすればいいか。
こちらにはザイロウがいる。唯一つの手段は、ザイロウに注意をそらしてもらい、隙をついて、シャルロッタの部屋に入る事。
けど、出来るだろうか? 自分に。そしてこの即席の一人と一匹に。
だが、やるしかない。
意を決してザイロウを見ると、ザイロウは途端に、耳を必要以上に立ち上げ、警戒の唸り声をあげる。
――どうしたんだ?!
そう思うのも束の間、自分たちの背後から、野太い声が腹に響くような低音で響いてきた。
「孺子……! よくもやってくれたな?」
山賊の頭、ゲーザである。
最悪だった。
折角の騒ぎで注意を引いたのは良かったが、異変を感じたゲーザは、屋敷の中へと舞い戻って来たのだ。
そしたら案の定、そこには見た事のない銀狼の鎧獣と、少年がいるではないか! しかも、一〇〇〇オーレの小娘の部屋の前に!
それを見たゲーザは、額に青筋を浮かべんばかりの、怒りの形相をしていた。
これで、敵はあのハイイログマの鎧獣に命じれば、いつでも鎧獣騎士になれる。そして、こちらはなれない。
「表の騒ぎもてめぇだな? どうやったのか知らねえが、落とし前はきっちりつけさせてもらうぜ。――〝ボルソルン〟!」
ゲーザがハイイログマに声をかけると、ボルソルンと呼ばれた鎧獣は、大きな吠え声をあげ、イーリオたちを威嚇した。いや、これから始まる、殺戮への雄叫びなのかもしれない。
まさに絶体絶命。
万事休すと思った時――。
「立ち止まってんじゃねえぞ!!」
叫び声は、オレンジ色の突風をまとっていた。
衝撃が耳をつんざき、通路を疾風となって駆け抜け、ハイイログマに襲いかかる。さすがのハイイログマも、鎧獣とはいえ、思わず体を崩される。
イーリオは目を見張った。
そこにいたのは、先刻、シャルロッタを攫った、大山猫の鎧獣騎士だったからだ。
だが、大山猫の鎧獣騎士は、イーリオの驚きなど気にする様子もなく、振返りもせずに、彼に向かって再び叫ぶ。
「何やってんだ! 早く行け! 俺がこいつを引きつけとくってんだ! 行け! 早く行け!」
何が何だか訳がわからないイーリオ。頭は事態についていけないが、考えるよりも先に、体が動いた。
駆け出すイーリオ。それを見たゲーザも、必死で駆け出す。
「ボルソルン!」
己の鎧獣に命じる。だが、大山猫の鎧獣騎士だけではない。ザイロウもハイイログマへと躍りかかった。さすがにハイイログマとはいえ、鎧獣騎士になる前だ。多勢に無勢で手が出ない。
イーリオは駆ける。扉に手が届く。開ける。力をこめて。――彼は飛び込んだ。
「孺子っ!」
後ろからの声。だが、振り向きなどしない。扉を開けた先、そこには紐で縛られたシャルロッタの姿があった。
「シャルロッタ!!」
「イーリオ!!」
思わず叫ぶ二人。
だが、ゲーザとハイイログマの気配が、すぐ後ろまで迫って来ている。感傷に浸っている暇などない。
「シャルロッタ! 頼む!」
イーリオの言葉を理解したのか、彼女は頷くと、両目を閉じ、祈るような姿勢になった。
すると、町でのような、額から光線が放たれ、ザイロウの神之眼と一筋につながる。
イーリオはそれを見て、叫んだ。
「白化!」
噴き上がる白煙。
現れる、白銀の人狼騎士。
瞬時にイーリオは、ザイロウを鎧化した。
ドグ=カプルスは、ハイイログマから飛び退き、イーリオ=ザイロウと並び立った。
「お前……、どういうつもりだ?!」
ハイイログマと主のゲーザに視線を向け、剣を構えたまま、イーリオは大山猫に問い質す。
「どうもこうもねぇよ。助けてやろうってんだ。細けぇ事はいいじゃねえか。……まぁ、昼間のは悪かったよ。なんつーかさ、俺もハメられた……みたいな? だからよ、おめえに力を貸してやろうって事だよ」
訳が分からない。とても信じられないような、支離滅裂な言い訳。だが、状況が状況なだけに、イーリオも細かく聞き返せない。
見れば、山賊の頭領は、自身の鎧獣の側まで来ており、いつでも鎧化できる状態になっている。
「ドグ……! てめえ、どういう了簡だ?!」
「はっ! 何が了簡だ! てめえこそ、散々俺を利用しやがって。挙げ句の果てに、金に目が眩んで人攫いの真似かよ。元・騎士団長も堕ちるとこまで堕ちたモンだぜ」
ドグの威勢のいい啖呵は、この場合、事態を更に加速させるだけであった。
「よくも言ったな……?! ボルソルン! 白化ォゥ!!」
ハイイログマが、まるで背後から人を襲うように、二本の後ろ足で起き上がる。そのままゲーザを包み込むように覆い被さると共に、ザイロウやカプルスの比ではないほどの白煙が吹き上がった。
ザイロウ達同様、白煙はすぐさま掻き消え、中から茶灰色の巨人がその姿を現す。
元々、鎧獣時でさえ八フィートはある巨体が、変形し、人型になった事でさらに巨大なものへと変じた。瘤のように隆々たる筋肉。両腕の直径は、まるで杉の木のようであり、両足はさながら、神話に出てくる巨人のようであった。厳めしい口吻は、獰猛な野獣の象徴。本来、この種族にとって優しさと同義で例えられる両の目は、今や破壊と殺戮の殺気に満ち溢れていた。
絶後の破壊者。
その姿を見た者は知るだろう。ああ、こいつにはまるで何も通じないのだと。倫理も、道義も、理屈も通じない、力という名の説得力。この破壊者の前では、全てがまるで塵芥。それほどまでに破壊的な、雄弁すぎるほどの暴力性。
さらに手にした授器は、この巨体に相応しい巨大な赤褐色の鉄槌。さながら全てを粉微塵にしてしまう、悪魔の術理を体現したかのよう。体の一部を鎧う防具も、鉄槌同様、暗い赤褐色をしている。
熊頭人身。
一四フィート、いや、一五フィート近く(約四・五メートル)はある巨躯。
ゲーザ=ボルソルン。
灰色熊の鎧獣騎士。
「ヴォォォォォッッッッッ!!」
砦が圧壊してしまうかと思われるほどの雄叫びをあげ、ゲーザ=ボルソルンは、手にした鉄槌を真横に旋回させた。
ブ厚い丸太を重ねた建物の壁が、チーズを裂くように引き千切られ、吹き飛ばされる。
イーリオはシャルロッタを庇いながらこれを躱し、ドグも身体を捻って、巻き込まれないように跳び上がる。あっという間に、周囲は天井のない空間へと変じてしまった。
砦の中でこれを見ていた山賊達は、皆一様に、悲鳴を上げて距離をおく。または、逃げ出す者さえいた。鎧獣騎士となった灰色熊が、どのように恐ろしいか、身を以て知っているのだろう。巻き込まれて命を落としなどしたら、目も当てられない。
「これで、てめえらを始末しやすくなった」
広々とした空間になった周囲を見て、嗄れたような幕のかかった声で、ゲーザ=ボルソルンは一人ごちた。ドグは、カプルスをまとっているというのに、背中を嫌な汗が流れるのを感じずにはいられなかった。
――最悪の魔王が出やがった。だが……
何も戦う必要はないのだ。
シャルロッタを助けさえすれば、ドグにとっては万々歳。後はどうなろうが知った事ではない。しかし、肝心の彼女はイーリオの側に居る。
まずはアイツから、彼女を奪い取らねえと……。
ドグは人知れず、カプルスの獣能を発動した。
カプルスの獣能は、目に見えて分かるものではない。あえて言うなら、全身の毛が少し逆立ち、触覚が鋭く立つくらいである。
カプルスの獣能、それは、〝感覚鋭敏〟。
五感を拡大、拡張し、相手の筋肉の僅かな挙動や、体毛の流れ、視覚の動向をいち早く察知し、次に相手がどう動くかを、予測、判断出来る。これは陽動を含めても、それが陽動であると分かる程に、優れた精度を持っていた。獲物を狩る補食動物ならではの獣能。これに熟練したドグは、その力を一種の未来予知とさえ言えるレベルにまで高めており、ザイロウの速度を上回ったのも、この力があったからと言えた。
――カプルスの力で、奴ら全員出し抜いてやる。
だがゲーザは、カプルスとドグをよく知っていた。
ドグとは決して短い付き合いではない。ドグ=カプルスの速度は、知覚の外にあると言える事も、よくわかっている。
――だがな、それならそれで、対処の仕方はある。
ゲーザの狙いは、最初から決まっていた。




