第六章 第四話(終)『妖風刃』
再び、モニカ=マーザドゥが跳躍する。
だが、マルガは動かない。
突戦鎚が空気の層を突き抜ける轟音と共に繰り出された直前――ぶつかっていくように、ブラックジャガーの人獣は、チベタン・マスティフの人獣をすり抜けた。突戦鎚が空を斬って反転すると、反対側に対峙するマルガ=ウェヌスが構えている。
モニカが再度仕掛けようと足に力を入れた瞬間。
音をたてて、マーザドゥの右肩から背中に至るまで、深い裂傷が走った。羽ばたく鳥の翼のように、ネクタル混じりの血が噴き上がり、モニカは信じられない顔つきになる。
「何、これ――」
ガエタノは目を見開いてこれが何か思い出す。
――レーヴェン流の獣騎術……今のはおそらく、幻爪という技じゃな。まさか、モニカの攻撃に合わせたとでもいうのか?
マルガ=ウェヌスは、手招きをして再度挑発した。
「どうしたぁ? モニカちゃん。アタシをやっつけんじゃないの?」
「調子に乗らないで……!」
鋭さの増した跳躍。怒りで勢いが増しているが、その分、攻撃が雑になっている。それを見逃すマルガではなかった。
さっきまでの攻防の倍をいく早さでけしかけるマーザドゥに、一見すると、防戦一方のウェヌス。正直、一流の騎士であっても、多少攻撃が直情的になろうが、この苛烈さを前にすれば、手の出しようなどないはずだった。しかし――。
攻防の最中、互いの距離が開いた一瞬に、ウェヌスの手にあった連接棍が、姿を消していた。
――?!
不審に思ったモニカだが、気付いた時には肩に激痛が走っていた。
いつ、どうやったのか。
まるで意識の外から殴りつけるように、連接棍が気付けば叩き込まれていた。
屈辱的な格好で、地に伏せる虎殺犬の人獣騎士。
ジャイアント・イランドの中で、ガエタノはこれにも目を剝く。
――今のは隠武……! レーヴェン流の高等技術を、こうも見事に操ってみせるとは……。
「これが授器の正しい使い方。あんたのは、ただ力任せにぶん回してるだけ。いくら鎧獣騎士が人を超えた力や速度を持っていたって、そのコツみたいなのを理解してなきゃ、ただのすごいってだけの〝力〟よ」
「うるさい……」
思いがけぬ衝撃に、中のモニカにまで痛手が響いている。それでも彼女は立ち上がろうとしていた。
「さっきさ、あっちのおじいちゃんが才能がどうたらって言ってたけどさ、すんごい才能なんてアタシだって知ってるっつうの。そんな人間、覇獣騎士団にはゴロゴロいんだから。でもね、どんな才能があったって、それだけじゃやっぱり届かない領域ってあるのよ。どんな世界だってそうじゃない? その道には、その道ならではの一流がいる。鎧獣騎士だっておんなじだよ。あんたにいくら才能があっても、それだけじゃ届かないものがこの世にはいっぱいあんの」
「黙れ」
「それにさ。アタシだってそーとー若いんだよ。色っぽいからわかんなかったかもしんないけど、これでもまだ二十代前半なんだから。自分で言うのもナンだけどさ、この若さで、陸号獣隊の次席官になったんだよ? それって充分――〝天才〟じゃない?」
それに気付かぬガエタノではなかったが、あのモニカがこうも翻弄されるのは少々意外だった。手こずる事は予期していたし、レーヴェン流の恐ろしさも知ってはいたが――いや、あれはレーヴェン流がどうというのではない。あのマルガという娘が、桁外れに優れた獣騎術の使い手というだけだ。
立ち上がったマーザドゥは、それでも突戦鎚を構える。
「もうあんたの攻撃は見切った……」
いつもの無機質さのない、怒気を孕んだモニカの声。
「あんたは反撃に狙いを合わせた攻撃。こっちの攻撃に合わせてるだけ……。だからもう、怖くない」
マルガ=ウェヌスも構えを取る。だが、少し違った。
連接棍が外れている。
四つの節に分解され、先端を手に、二節目から後端まで、両脇に挟んでいた。
「反撃狙いね……。いい〝目〟をしてるけど、そんな浅いもんじゃないよ、獣騎術は。子供相手にアレだけど……今度は本気でいくから」
今までのが本気ではないと――?
ただのハッタリか、それとも本当か。ガエタノはいけない、と思った。だが彼の判断が遅かったというより、マルガの速度が遥かに上だったというだけ――。
「いっくよぉ、必殺ぅ〜、マルガ・スペシャル!」
ウェヌスが連接棍を繰り出す。蛇のようにうねり、マルガの攻撃に合わせた突戦鎚を、這い上がるように絡み付く。そのまま持ち手を痛打。だが、ダメージなど意に介さない勢いで突戦鎚が反撃に出るが――そこにブラックジャガーの姿はいなかった。
姿がない。
武器を手放しての反撃狙い?
連接棍がジャラリと動く。
――違う! これは!
蛇が這う動きで、スルリとウェヌスの棍が抜けていった。
――ウェヌスの獣能!
一瞬の隙を衝き、姿を消したウェヌス。無論、マーザドゥの〝標付け〟は生きている。だが、訓練をしていないモニカは、人獣の感覚よりも、咄嗟に己の〝目〟で判断してしまった。
次の瞬間、後ろ立ちで、ブラックジャガーの人獣騎士が、モニカの後方に立っていた。
もう、攻撃は済んだ。
マーザドゥが振り返るのと同時に、人狗騎士の体中から、一斉に血が吹き出る。無数の裂傷が、全身を苛んでいた。体のいたるところから、ネクタルの光粉が煌めき、夥しい血潮が長毛を濡らしていく。
マーザドゥが、音をたてて、その場に崩れ落ちた。
「今の技、知っておるぞ」
ガエタノ=ヘイズルンを見るマルガ。
「レーヴェン流の奥義、確か……〝妖風刃〟という技じゃな」
「ちがうもん。あれはマルガちゃん特製必殺技、マルガ・スペシャルだっての」
猛獣の顔で言う台詞ではない。そのズレがむしろ恐ろしい。稚気めいた発言で、為す事は恐ろしいまでの殺人術。モニカの残虐さなど、この娘の〝ズレ〟に比べれば、可愛いものかもしれない。
「全く……やはり覇獣騎士団などというものは、尋常の集まりではないな。その若さで人間を捨てとるとはの……」
「は? 何言ってんの?」
「鎧獣騎士というのは、獣と人の境に立つ者。人獣の性を身に着け、人獣の残虐さに物怖じせぬ者にならねばならん。それは既に人ではない。ケダモノよりも獰猛で悪質な、悪鬼の如き存在よ。それを推奨する国も、王も、教えも、全て人でなしの集まりじゃ。そんなものが蔓延る今の世界に、真実の仁愛など生まれようはずもない。人を率いるべきものが、人獣の心根を持ったこの世界など、やはりあってはならんものなのじゃ」
「ちょ、ちょっと……いきなり何、演説ぶっちゃってんの……?」
「儂はヘスティア様に心酔した。この世の荒ぶるケダモノを、浄化せねばならんというお言葉に。黒母教こそ、人が人として正しく生きる〝法〟なのだ。そしてイーヴォ殿は、そんな儂の願いを叶えて下さった。人のまま――獣騎術などという卑しい術を身につけずとも、鎧獣の力を行使出来る力を!」
最後の叫び声と同時に、ジャイアント・イランドが口を大きく開け、叫ぶような格好をした。マルガに向かって吠えるようだ。
咄嗟に、マルガは判断した。
横方向に、鋭い跳躍をかける。敵の獣能か、何かの攻撃かもしれない。これ以上の被撃は避けた方が賢明だ。
速度感はそれほどないが、何かが彼女の横を通り過ぎた。
――目に見えない攻撃? アタシのマルガ・スペシャルは、見えない訳じゃない。それとは違う攻撃ってワケ?
瞬間――マルガの体を、重い激痛が貫く。
横殴りの衝撃。思わず息が詰まる。鎧化していなければ、体の骨が砕けてしまう。そんな一撃。
――馬鹿な?! 避けたはず?
左腕側からの〝何か〟を受けつつ、マルガは状況が呑み込めずにいた。
そのまま受け身を取って着地した後、己の状態を瞬間的に考査した。右腕の傷は深い。自分で行ったとはいえ、ネクタル消費は激しい。しかも、今の一撃で左腕が折れた。回復にかかるネクタルも尋常ではない。危険だ。まさかこんな形になるとは……!
ガエタノ=ヘイズルンを睨みつけ、第二撃を警戒した矢先だった。
マルガは声を失った。
己の視界の先。目の前を、宙に浮く形で、チベタン・マスティフの人獣騎士が、〝何か〟に運ばれていくではないか!
いや、よく見ればおかしい。マーザドゥの宙に浮いた部分が、微妙に歪んで見える。
――居る?
モニカ=マーザドゥは、ジャイアントイランドの側に降りたち、その場に蹲った。
「消失と進撃の羚羊」
ガエタノが高らかに言った。
――何? 獣能なの?
「今のはこのヘイズルンの、獣使術じゃ。今から用いるのもな」
――獣使術? レナーテさんや灰巫衆の使う……?
マルガの疑問の答えを待たずして、さらに目を見張る光景が、彼女の目に映った。
ヘイズルンは、己の腕をここだとマーザドゥに指し示すと、マーザドゥは頷き、いきなりそこに噛み付いた。
まるでお伽噺に聞く吸血の妖怪のように、噛み付いたままのマーザドゥは、嚥下する音をたて、傷口から溢れる血を飲んでいった。人獣の片方が、己の身を差し出そうとでもいうのか。それはまさに、おぞましい異教の密儀を見せつけられているような――そんな不気味にも神々しくも見える光景。
しばらくすると、マーザドゥは傷口から血を飲み尽くしたのか、おもむろに立ち上がり、マルガの方に向き直る。驚愕したのは、血に濡れた口の故ではない。先ほど負ったばかりの無数の傷が、僅かの間に塞がっているからだ。
あれらの傷は鎧獣騎士の回復力でさえ、そう容易く治る程度のものじゃなかったはず。実際、彼女の手応えは確かにあった。にも関わらず、まるで何事もなかったように、マーザドゥは突戦鎚を構えていた。
「これは〝摂癒の血〟という。モニカは、人獣の軛を設けずして、強力な鎧獣騎士となった者。そして儂は、卑しきケダモノの性を持たず、人獣の力、鎧獣の力を行使する者――!」
状況は一変した。どういう原理かはともかく、敵のみがもう一度降り出しに戻れ、こちらは手詰まりで置いてけぼり。考えうる最も良くない展開だった。
マルガは思った。このままじゃ不味いと――。
「鎧獣術士! その始祖こそが儂なのじゃ!」
鎧獣術士だって……?
聞き慣れない言葉だ。敵の手の内は、おそらく出揃ったのだろうが、こちらは手番待ちが長すぎる。さぁ、どうする? マルガ? 自問自答は、最悪の結果しか導き出せない。任務にとって、ではない。彼女にとっての最悪だ。
「今度は確実に、仕留める」
傷の癒えたマーザドゥが構えた。突戦鎚の狙いは、勿論ブラックジャガー。
ウェヌスの傷は浅くない。先ほどの動きが可能か否かは言わなくても明白だ。
――ヤバいなぁ。マジヤバ。マジ、パないじゃないの。
思考が段々と単純になってくる。だが、審判の時は中断を許さない。
復活したチベタン・マスティフが、最前の勢いで突進をかけた――と同時に、あらぬ方向に吹き飛ばされる。
床石が散乱し、瓦礫の粒が濛々と煙をあげる。
――ヤバ。
マルガはウェヌスの中で、顔面を蒼白にさせた。
「何じゃ?」
煙と埃で、視界が防がれたガエタノは、咄嗟に獣能を発動させた。
視界の獣能〝見破〟。
一瞬で回廊全てが、己の視覚下に置かれる。
人影――否、それよりも大きい。
「お前は……!」
吹き飛ばされたモニカが、瓦礫の中から立ち上がった。
「何?!」
埃が晴れ、モニカにも見渡せるようになる。
白亜の授器。
クリーム色に近い、薄黄色の体毛。あるはずの模様はなく、黒の部分が全て白くなっている姿は、儚げであり、美しさすら感じさせる。
右手には鉄扇。武器にしては短く、華麗に過ぎ、虚飾にしては武骨すぎる。
豊かな胸と、柳のように優美な腰回りは、明らかに女性の姿態。
蜉蝣のように朧げなその姿をして、人はこの種を、幻霊と呼んだ。
猫科中型猛獣の、超稀少な色素変種。
幻霊狩猟豹の鎧獣騎士。
陸号獣隊・主席官、ヴィクトリアの駆る〝キュクレイン〟の姿が、両者の間にあった。
「そんな……!」
モニカの呟きに、ガエタノが反応した。
「モニカ、〝猟狗追路〟に反応は?!」
わななきながら、首を左右に振る、マーザドゥ。
有り得ない。マーザドゥの標付けは、例え全身を洗おうが、薬品を使おうが、絶対にとれるものではない。付けられたら最後、永遠に逃れる事は出来ないもの。そこに例外はなく、個の強さなどは関係ない。それなのに、マーザドゥの〝嗅覚〟に、反応はなかった。
山間部の折りに、確かに標付けは施した。こいつの動きはずっと把握出来ていた――はずだった。
キュクレインは、ウェヌスの側に跳躍し、様子を見つめた。
「マルガリータ・アイゼナハ」
「は、はい」
ビクリ、と背筋を正すマルガ=ウェヌス。
ヤバい。主席官が人をフルネームで呼ぶ時は、機嫌が良くない証拠だ。
「情けないですね。陸号獣隊の次席官ともあろう者が、その体たらく。まさか、限界ではないでしょうね?」
「い、いえ! まだ動けます。ただ……戦闘したり、獣能使ったりする余裕は……その……」
語尾の消え入るマルガに、幻霊狩猟豹の人獣は、首を振って小さく嘆息した。
「エ、主席官はうまくいきました?」
何とか話を逸らそうとするマルガ。彼女が怖れていたのは、敵ではない。既に来ているであろう、自分の上官にであった。
「当然ですよ。レナーテ様は、もう助け出しました」
マルガはやっぱり、と顔を引き攣らせ、モニカとガエタノは驚きに目を丸くした。
「モニカ!」
言うが早いか、ガエタノも、己の〝見破〟を、寺院全体に拡大する。
イーヴォ・フォッケンシュタイナーの娘、こ奴らの目的であるはずのレナーテ・フォッケンシュタイナー。彼女の動きも当然把握していたし、モニカに至っては、完全に捕捉していた。そもそも、マルガが彼女の救出をしようとしてたんじゃないのか? そういう思いが頭をよぎるが、突きつけられた現実は、それがでまかせでない事を表していた。
「いない……」
「儂も、確認出来ん。どういう事じゃ? モニカの捕捉をかいくぐれるなど、万が一にも有り得ぬ事じゃ――!」
ヴィクトリアは、己に向けられた二つの殺意を、そよ風のような平気さで受け流した。
「貴方がたお二人の能力は、たいしたものです。特に、犬科の貴女。己の肉体を特異化させる力のはずなのに、相手に働きかけ、あまつさえ、それを持続させるなんて。本当に恐ろしい能力です。私などは、とてもそこまでは不可能です」
「――?」
今の発言に違和感を覚えるガエタノ。私などは? とてもそこまで? それはつまり――
「お主、儂らに何かをしたのか……?」
「さて、どうでしょう?」
人を食ったようなヴィクトリアの答え。マルガは答えを知っているが、知っていたところで、状況は変わらなかったろう。とっくの昔に――戦闘は終わっているのだから。
前のめり。
糸が切れたように昏倒するモニカ=マーザドゥ。
そのまま強制鎧化解除の白煙があがった。
「な……!」
うめき声しか出ないガエタノ。
まるで舞姫のような優雅さで、幻霊狩猟豹の鎧獣騎士は、静かに佇んでいた。




