第六章 第四話(3)『黒色美洲豹』
マルガ=ウェヌスは、ホールのような広間を持った通路に出た。壁面は修繕の痕がいくつかあり、壁画を剥がしたような痕跡も見て取れる。
メギスティの地は、遥か古の時代においてこの土地に根付いた宗教の聖地であったと言われている。その名残であろう。ともすれば、ここに広がる無駄に空間のある通路は、かつてあった宗教儀礼的な場における、礼拝堂のような役割をもった場所だったのかもしれない。何が描かれていたのか、今となっては判然としないが、月や星のある夜空、山のようなもの、それに鎧獣に思える鎧を着た獣の姿の絵だけが、かろうじて認める事が出来た。
そこに気を取られたわけではないが、ほんの僅かの間だけ、壁画の痕跡を観察している間に、通路の反対側から人影が表れた事に、彼女は気付かなかった。
感知される事のないウェヌスの獣能があるにも関わらず、思わずその人影を警戒したのは、歪な二人組と、二体の鎧獣があったからである。
一人は人目を惹くほどの長身で、もう一人は子供同然の背の低さをしている。
ガエタノとモニカ。
ここに来る途中で両名と接敵したとはいえ、鎧化していない状態を知っている訳ではない。にも関わらず、マルガはこの奇妙な二人連れが、あの時の灰堂騎士団の使い手だろうと即座に看破した。
二人の引き連れる鎧獣からの類推ではあるが、先ほどまですれ違った人間たちとの違いが、それを裏付けたのもある。
ただの信徒ではなく、騎士だから。
成る程、それもあったろう。だが騎士なら、さっきまでも何度か見ている。先刻の戦いで会した〝十三使徒〟の二人は、一人が老人の声をしていた。そしてもう一人は少女の声。
――あの時のガエタノとモニカってヤツね。
警戒はすれども、二人は鎧化していない状態。ならば偽装隠身を発動しているマルガが気付かれるおそれはなかった。
偽装隠身は匂いすらも打ち消してしまうのだから、例えチベタン・マスティフの嗅覚であっても問題はなかった。
ないはずだった。
彼我の距離が三〇ヤード(二十七メートル)ほどになった時だ。
二人はそこで足を止め、何かに警戒する素振りを見せた。
モニカがチベタン・マスティフの顔を撫でる。
「ガエ爺、居る」
「フム。動く気配はあるのか?」
「大丈夫、だと思う」
何だ? 何が居るというのか? まさか、自分に気付いた? 馬鹿な。相手は騎士といってもただの人間。気配に気付くなんて、そんな都合のいい感覚があるわけない。
マルガは脳裏に浮かんだ疑念を頭の隅に追いやろうとするも、眼前の二人の挙動は、そんなマルガを待ってはいなかった。
「白化」
老人と少女。
両者が同時に鎧化をする。
ジャアイントイランドの鎧獣騎士〝ヘイズルン〟。
チベタン・マスティフの鎧獣騎士〝マーザドゥ〟。
ヘイズルンは片手に金属棍。マルガの武器授器も同じ金属棍だが、あちらは太く長い。
マーザドゥは、己の背丈も超える、不釣り合いに大きい突戦鎚。
黒灰色の授器が体の各所を覆い、人狗と人牛の騎士は、明らかな敵対行為を構えていた。
ここで判断したマルガは、さすが陸号獣隊の次席官といったところであろう。破られるはずのない自分の獣能。それに絶対の自信はある。だが、状況は明らかにおかしい。この現状を思い過ごしと言い切るほど、彼女は戦闘の初心ではなかった。
勘違いなら、自ら墓穴を掘る事になる。諜報部隊でこれほど間抜けな者もないであろう。だが、彼女の勘は、先ほどから警鐘音を鳴らして止まない。己の勘と経験が物語っていた――。
マルガ=ウェヌスは、腰に吊るした、折り畳んだ状態の連接棍を手に持った。音をたてずに直棍にすると、それを引き絞るように、一足でマーザドゥに突きを入れる。疾風よりも俊敏な一撃。音のない弾丸は、そのまま貫いてしまうかに思われたが――。
回廊を突き抜けて響き渡る金属音を響かせ、ブラックジャガーの金属棍は、人狗騎士の突戦鎚によって弾かれてしまった。
掌全体に痺れるような残り滓を覚えて、マルガ=ウェヌスは距離を取るように着地する。
「〝視えて〟る。無駄」
モニカ=マーザドゥが、磁器人形の無機質な声で、こちらを〝視〟た。
「たいした獣能じゃ。そこまで体毛を高速で変化させるなど、並みの鎧獣ではないのう。特級以上なのは間違いあるまい。じゃが、相手が悪かったな。儂ら二人に、お主の獣能は通じんよ」
ガエタノ=ヘイズルンも、同じ方向に視線を向ける。
間違いない。何故か奴らは、私の姿を感知している。どうやって? 視力なのか嗅覚なのか聴覚なのか。理由は判然としないものの、自分の異能がいきなり破られるとは……。
マルガはゆっくりと立ち上がり、偽装隠身を解除していく。
景色の一部が塗り替えられるように、白亜の授器を纏ったブラックジャガーの人獣騎士が、浮かび上がった。
「何よもう。どーゆー事? アタシの獣能を破るなんて」
マルガは人豹の肩に連接棍を乗せ、呆れ気味の口調で言った。獣能が通用しなかったにしては、意外にも深刻そうではない。
ガエタノは、それを小さな笑い声を一つ残して観察し、モニカは鎧獣騎士の体で見る事は出来ないが、マーザドゥの中で、忌々しげに顔を顰めていた。
「あんたはね、もうあたしから逃れられない……」
「?」
マーザドゥの茶褐色と黒色の体毛が不気味に揺れる。さっきの弾かれた一撃――。マルガは思い出す。〝視えて〟いただけではない。このモニカって娘、アタシの一撃に反応したトコからして、相当な〝使い手〟かもしれない……。
「タネ明かしをしてやろう」
ガエタノが、羚羊の顔で言った。長く伸びた顎髭は、如何にも長老然としたガエタノそのものといった風情だ。
「儂ら二人の獣能で、お主の居場所なんぞ、昼間に太陽を見つけるより容易い事だったのよ。しかもモニカの〝マーザドゥ〟の獣能、〝猟狗追路〟はな、一度かかってしまえば二度と逃げ切る事は出来ん。お主はな、これから永遠に、モニカの〝鼻〟から逃れられんのよ」
――獣能? じゃあ、嗅覚の獣能なの?
マルガの推理は間違っていた。
マーザドゥの〝猟狗追路〟とは、〝標付け〟の獣能なのだ。
多くの動物が行う、己の縄張りを確保する行為、マーキング。体をこすりつけたり、排泄物のような分泌液、または排泄物そのものを木などにつける事で、自分のテリトリーを他の個体に知らしめる事である。
〝猟狗追路〟は、マーキングに行う臭腺を、体の任意の場所に作り出す事が出来、それを、相手に付着させる事で、敵の行動を完全把握するというものだ。
マーザドゥは、山間で行ったマルガらとの一度目の攻防で、密かに〝標付け〟を行い、彼女らの行動を補足していたのであった。
「まぁそうは言うても、お主がここから生きて出られる事もないのじゃがな」
ガエタノの勝利宣言に、マルガはやれやれといった態度で返す。
「アタシの獣能を破ったぐらいで、もう勝ったつもりなの?」
「ほう」
「アタシも舐められたもんね……。そもそもアタシの獣能は戦闘向きじゃないの。侵入や索敵には向いてるけど。それが破られたってのは、侵入には支障を来すけど――でも、それだけの話」
「……」
「侵入に長けているから陸号獣隊の次席官になれたわけじゃないの。勿論、それも重要な能力だけどね。分かる? その意味が? たかだか姿を消せる程度で務まるほど、覇獣騎士団の次席官は簡単じゃないの。それがどういう事なのか――今から知るといい。アタシが次席官になれた理由をね」
言った後で、ブラックジャガーの人獣騎士は、連接棍を脇に構え、片手で挑発するように手招いた。
「かかってきなよ」
「ヒョっ、威勢のいい小娘じゃな。良かろう、モニカ」
「うん」
モニカ=マーザドゥも、ハンマーの片方の先端がクチバシのように尖った突戦鎚を構える。そのまま下半身を沈め、礫の勢いで一直線に突進をかけた。
勢いは凄まじいが、マルガの纏うウェヌスの目で捉えきれぬ速度ではない。ぎりぎりに引きつけて、体を左右に揺らしながらこれを躱し、身を捻って反撃の構えに出る。
同時に、突戦鎚が床を破壊する破砕音を響かせて埃と割れた床石をまき散らすが、その空振りの一撃で強引に方向転換をしたマーザドゥは、突戦鎚を支点に回転し、遠心力の勢いで再度武器を振るって襲いかかってきた。
マルガは続く連撃を巧みに回避し、反撃の端緒を伺うが、大振りなわりに、マーザドゥには隙がなかった。それに、一度でも突戦鎚に当たってしまえば、タダでは済まない事は容易に予想出来た。
だが――。
――何、コイツ?
次々と床石を砕いていくが、ただ徒に、破壊行為を繰り返しているに過ぎない。まるで無茶苦茶な戦い方だ。
――この戦い方。まるで素人同然じゃないの。授器ったって、護殺防撃どころか骨形すら出来ていない。鎧獣騎士の能力に任せて、力を振るってるだけ……。
ブラックジャガーは突戦鎚の連撃をすり抜け、連接棍を間隙を縫うように叩き込む。だがモニカ=マーザドゥは、突戦鎚の柄の部分で、器用にそれら全てを弾き返した。
――こいつ……!
鎧獣騎士の武術、獣騎術の動きではない、何の訓練も受けていない、力任せ、勘任せの攻撃方法。型も何もあったものではない強引極まりない戦い方。それなのに、マルガの攻撃は当たらない。人間を遥かに凌駕した鎧獣騎士において、それすらも凌ぐほどの、常軌を逸した動き。おそらくこのモニカという少女は、勘と直感のみで戦っているに違いない――と、マルガは判断した。
――じゃがのう、それだけではないぞ。
戦闘に加わらず、両者の攻防を傍観しているだけのガエタノは、マルガの考えを読み透かすように内心でほくそ笑んだ。
――モニカはのう、〝天才〟なんじゃ。天性の武の才に、生い立ちと境遇が加わり、己の資質のみで十三使徒に登り詰めたほどの、な。正統な武術を教えようにも、並の才が教えたところで、あの娘の妨げにしかならんほどの、類い稀な才能を持っておるんじゃよ。
ガエタノの心中の独語を裏付けるように、連撃の手を休める事なく、モニカは更に次の手を打って出た。
繰り返し放つ攻撃の中で、両手で振るう突戦鎚を、片手のみに持ち替える。
マルガはすかさずその隙を衝こうとするも、それは明らかな誘いの一手だった。空いた手は必要以上に筋量が膨らみ、赤黒く濁った鋭い突起物を、マルガ=ウェヌスの顔面に叩き込もうとする。
凄まじいとしか言い様のない反応速度で、ブラックジャガーは爪撃の一撃を躱すも、右の二の腕、授器の隙間に、薄皮一枚ほどの裂傷が走った。そんなものは無きに等しい傷だが、躱し切った直後に、回転した突戦鎚の柄の先端が、風車の要領で迫って来ている。マルガは即座に連接棍を四つに折り畳み、壁を作ってこれを受け流した。
まるでボールを打撃したような軽やかさで、回廊の壁際まで吹き飛ばされるマルガ=ウェヌス。だが、ダメージを感じさせない動きで、ブラックジャガーは身を捻って着地した。
距離を置いた事で、一旦、空白のような時間が生まれる。
「たいしたもんじゃん――と言いたい所だけど、どっちかっていうと、残念、って感じかな」
防戦で手が一杯のクセに――と、負け惜しみのようでもあるが、実際のところ、マルガの息は上がっていない。
出入りの激しい動きを主とするレーヴェン流では、この程度の動きで、騎士も鎧獣も、体力が尽きる事などありえない。ましてや陸号獣隊ならば尚の事。それどころか、この騒ぎに気付いた信徒達が、上へ下への大騒ぎになっている事にさえ、マルガは己の注意を向けていた。勿論、イーリオ達の陽動による騒ぎもあるだろうが、寺院内の喧噪は、明らかにそれだけではなかった。
「気付いたか? 陸号獣隊の。お前の侵入は、もうメギスティの至る所に知れ渡っておる。例え万が一、儂ら二人を退けたとしても、お主の任務が成功する可能性は皆無じゃろうて。余裕をこいとる暇など、お主にあるのかのう?」
笑い声が、こびりつくように耳に残る。意識的に嫌な笑声を出しているのだろう。明らかな挑発だ。
「ありがとね、カモシカのおじいちゃん。敵の心配までしてくれてさ。でもね、アンタ達こそ、余裕こいてる暇なんてあんのかな? そっちのワンちゃん騎士はなかなかだったけど。でもその程度なんだったら、アタシの敵じゃない」
「その程度……?」
モニカがピクリと反応する。
「惜しいわよね。ちゃあんとした獣騎術を学んでいれば、アタシだって危なかったかもしんない。でも残念ながら、そうじゃない。きっと、今までは相手が良かったんだね。本当の戦場は、才能だけじゃ――生きて行けないよ」
「ヒョッヒョッ、お主こそ、こちらに助言をするなど、敵の心配をしとるつもりか? やはり状況が分かっとらんのは、お主の方じゃな」
ガエタノの言葉の意味を理解するのに、時間などいらなかった。
違和感。
右腕に、痺れるような感覚。
視線を走らせると、二の腕のあたり――先ほど爪撃で擦った箇所を中心に、体毛が枯れ草のように萎びて抜け落ち、中の皮膚の上に、黒と茶の斑紋が出来ている。範囲は成人男性の拳ほどだが、それが徐々に広がっていくものだという事に、即座に気付いた。
――!!
「才能だけで戦場は生き抜けない――じゃと? 戦場の何たるかも知らん小娘が、よく言う。儂はの、お主がおしめをしておった頃には、とうに戦場に居たのじゃ。その儂からすれば、お主の戦場訓など、青二才の戯言でしかないわ。よいか、鍛錬や修練などでは追いつけぬほどの理不尽な才というのはな、残念ながらおる。十年の研鑽を、一日の閃きで無にし、人生を賭けた偉業を、一瞬で体得する非常識な存在がのう」
斑紋はどんどん広がり、同時に、右腕に神経的な痺れが拡散していく。
「成る程、確かにお主は相当な修練を積んだのじゃろうて。動きを見れば分かる。レーヴェン流を修めた腕前なのじゃろうな。じゃがな、このモニカは、そんなお主の苦労を、一瞬で無益にさせてしまう才を持っておる」
もし人間の体で、この傷を受けていたらと考えると、ぞっとする。鎧獣騎士なので痛みはないが、違和感の大きさから考えて、針の一穴で致死量になるほどの〝猛毒〟らしき何か――。
「その証が、〝それ〟じゃ。マーザドゥの第二獣能〝腐病供物〟じゃよ」
「第二獣能……?!」
マルガが驚くのも無理はない。
第二獣能。獣能の先にある、第二の異能。
第二獣能は、滅多に出現するものではない。覇獣騎士団でさえ、発動できるのは主席官のみ。いや、むしろ主席官の条件にさえなっているほど。ある種、天才とも呼べる程の鎧獣騎士との適合率と感覚を掴める才智がなければ発揮出来ない。
他国を見ても、騎士団の団長クラスでさえ、持っている者は多くない。それを、まだ年端もいかぬようなこの少女が、使えているなど、信じ難い話であった。
「信じられんか? じゃが事実じゃ。さて、どうする? もう右腕は使えんよなぁ」
ガエタノの嘲弄どおり、このままでは毒が広がるばかりだ。決断するしかない。すぐに全身に意識を張り巡らせ、問題ない事を確認する。
――よし。
マルガの行動に躊躇いはなかった。
連接棍を脇に手挟み、左腕の爪で、自身の腕に爪撃を放つ。
「!」
ガエタノもモニカも、今度は自分達が驚く番だった。
ものの見事に抉り取られた肉塊を捨て、マルガは己の腕の感覚を確かめる。開く。握る。開く。出血量とネクタル消費から考えて、あまり無理は出来なくなったが、動かぬわけではない。指先に痺れはあるが、戦う事は出来そうだった。
「ほほう。思い切りの良さは、さすが陸号獣隊じゃのう。まさか腕の傷口を、肉ごと抉り取るとは……。じゃが、いい判断とは言い難い。そんな傷で、モニカと戦うというのか? 片腕だけで?」
マルガは己の鎧獣、ウェヌスの活動限界を計算する。まだ〝作戦〟時間はぎりぎりいけるはずだ。だが、これ以上の大きな傷は、〝作戦〟に支障を来しかねない。この両名を倒す事に障りはないが、それだけでは駄目だ。油断した訳ではなかったが、このモニカという鎧獣騎士、想像の遥か上の実力者だった。
――〝腐病供物〟って言ったっけ。
チベタン・マスティフの第二獣能。
傷口から広がっていった事から、敵の爪が毒爪のようになるのかもしれない。それだけではないのかもしれないが、少なくとも、爪撃は確実に回避すべきだろう。まだこれ以上、仕掛けがあるのだとしたら厄介だが――例えば毒物を飛ばせるとか、全身が毒になるとか――そういった事はなさそうだった。
――だったら、それほど面倒じゃないわね。
マルガは息を小さく、長く漏らし、気息を整える。
支払った代償は小さくなかったが、もう理解した。この後どれだけ水増しされようとも、だ。
「言ったでしょ。アタシが次席官になれた理由を教えてあげる、って。こっからは、アタシの番だからね」
連接棍を直棍にし、両肩を下げるような構えを取る。すると、自然と肩甲骨が上にせり上がった。まるで猫科猛獣が歩く様のような構えだ。
それを不愉快げに見つめるモニカ=マーザドゥ。
「あんたの番なんて、一生ない。もう消えて」
人狗の少女騎士は、無機質な響きで、死の宣告を放った。虎を殺すのが虎殺犬ならば、虎に次ぐジャガーを屠ろうとするのは、当然の事かもしれない。




