第六章 第四話(2)『偽装隠身』
黒灰院に通じる石畳の回廊、そのはじまりである向かい側の丘の地点で、派手な色の髪を高く結い上げた女性が、黒灰院入口付近で起きた騒ぎを観察していた。ちょっとした人の動きなど見えるはずもないし、人の判別も覚束ないほどの距離ではある。だが、鎧獣騎士の動きは派手だ。背丈も人間を遥かに超えるし、何より破壊力は攻城兵器をも凌ぐほどなのだから、谺する音も大きければ、もたらす被害も人の領分を軽く凌駕している。
覇獣騎士団 陸号獣隊のマルガとの距離がこれほどあろうと、何か異変が生じたぐらいは彼女でなくとも容易に視認出来る。
傍らで体を休める黒色美洲豹の鎧獣に頷いて、立つように促した。
「行くよ〝ウェヌス〟」
通常の覇獣騎士団のものよりもくすんだ、白亜の色をした授器を揺らし、ブラックジャガーのウェヌスが「ヴォウ」と喉を鳴らした。
中型猫科でも、豹以上のものしか出せない、独特な低音の吠え声は、これが人間などものともしない、猛獣の眷属なのだと改めて実感させられる。豹よりも小型になれば、咽頭の仕組みが変わり、このような低音の咆哮は出せないのだ。
「白化」
マルガの声に応じ、ウェヌスが前足を跳ね上げ、彼女の全身に覆い被さる。同時に、白煙を勢い良く噴き上げ、たちまちの内にジャガーの頭をした、人獣の女騎士が姿を見せた。
手には金属製の細長い棒。金属棍。
女性鎧獣騎士特有の、細い腰にわずかにふくらんだ胸をしているが、六つに割れた腹部や、しなやかではあるが筋肉質で逞しい四肢は、特殊な筋繊維で鎧われている事を、はっきりと物語っている。
上官であるヴィクトリアはいない。彼女とは別行動になっており、マルガは己のみで、今から潜入工作を開始するのだ。
ジャガーの瞳で目的の寺院を見定め、どの経路が最良かを判定する。しばらくして、道が定まった。
マルガ=ウェヌスは、金属棍を折り畳み、それを腰の防具に吊るした。ウェヌスの武器授器である棍は、最大四つにまで折り畳める節棍式なのだ。
「〝偽装隠身〟」
準備が出来ると同時に、彼女の声で、人化美洲豹の姿が徐々に消えていく。まるで幽霊か物の怪のような溶け込み方。輪郭も細部もなく、絵具で混ぜ合わせるような自然さで、やがてその姿は完全に見えなくなった。
ウェヌスの獣能。
〝偽装隠身〟。
体毛や体表組織による色素変化の獣能で、簡単に言えばカメレオンのように周囲に擬態して姿を消す、後の世に言う光学迷彩。
その際、身に着けた授器も動きに合わせて色変化するのだが、これは陸号獣隊、それも席官以上に支給された特別製の授器のみが持てる機能であった。
擬態の精度は、ゆっくりとした動作であれば、まず気付かれる事はない。速い動作になれば違和感に気付く事もあるだろうが、静止していれば、視覚で感知するのはほぼ無理だと言っていいだろう。
姿が完全に見えなくなり、気配や匂いすらも掻き消える。
隠密・索敵に特化した鎧獣騎士。彼女に忍び込めぬ場所はなく、乗り越えられない壁はない。
見えぬ姿で石回廊を跳び降り、岩肌を壁伝いに駆けてゆく。壁走りの要領。それはイワヤギでも不可能な常識はずれの動きである。鎧獣騎士としても、超常に等しい疾走は、人智を遥かに超えていた。
ウェヌスが駆ける度に岩壁が崩れ、連続で規則的に石塊が打ち込まれるように、穴が空いてゆく。それは疾駆というよりも、ほとんど跳躍に等しかった。一足の幅は十一ヤード(約十メートル)をゆうに超える。瞬く間に黒灰院下層部の岩壁に取り付き、そこで一度急停止をした。
荒くなった息を、浅く短い呼吸で整え、全身の緊張をゆっくりと解いていった。敵地の侵入に焦りは最もいけない。焦れば焦るほど、周囲が見えなくなってしまうからだ。気息を安定させたマルガ=ウェヌスは、壁面の上部を見上げた後、両足に力を込めて、両手も巧みに使いつつ、垂直に跳び上がっていく。何度かの跳躍で、寺院の一棟の屋根にまで一気に駆け上がって行った。
さぁ、ここまでは予定通り。問題はここからであった。
何処にレレケこと、レナーテ・フォッケンシュタイナーがいるのか。
手紙には、レナーテが知る限りの建物の見取り図や、おおよその場所、それに救出の際の助けになりそうな情報がしたためられていたが、現在進行形でどの場所にいるかまでは分かるはずもない。目星を頼りに、ひとつひとつ確認をしていくしかなかった。
最初の建物に身を踊らせ、体重を感じさせぬ動きで、するりと侵入を果たしていく。
もし姿が見えなくなっていなければ、突然の人獣の出現に大騒ぎになっていたに違いない。だが、巨大な人獣の姿をしていても、〝偽装隠身〟があれば誰にも気付かれる事はなかった。
メギスティの寺院の中。
一面が黒の世界。
黒漆喰で塗布された石壁は、長年の風雪に耐えるだけの耐久性を持ち、内も外も問わず、あらゆるところが黒と灰色系統の塗装で統一されている。それゆえか、断熱性はあっても全体的に暗い印象なので、過剰なまでに燭台が置かれていた。
――これだけ黒いと、偽装隠身もし易いわね。
もともとがブラックジャガーなだけに、色彩の乏しいメギスティの中は、隠れるのに好都合だと言えた。
中央の礼拝堂は無視していいだろう。
まずは図書館のある左端の建物。情報によれば、レナーテの父、イーヴォ・フォッケンシュタイナーの研究室は、同じ建物にあるという事だった。可能性が高いのはここ。もしくは反対側の鎧獣厩舎のある建物か。
息をひそめつつ、素早い動きで建物内を探っていった。
目の前、鼻先の距離を黒母教の僧侶が歩いていく。だが、気付かれはしない。
気付かれなければ存在は無きに等しい。
そのまま、一部屋一部屋、隈なく調べていく。
ところどころに、四枚の翼を持った大小様々な女神像が設置されていた。女神オプスの像だ。翼のないものもあったり、古い神像だと羽の形状が蝶であったりするらしいが、ここにあるのは四枚ある鳥の羽をしていた。
太い柱のある通路を抜け、背の低いアーチ状の天井のある部屋を通り過ぎる。その先で、幾人もの僧侶が、神妙な面持ちで出入りしている部屋を見つけた。
三階が吹き抜けになった巨大な空間。
黒母教の知の宝物庫。メギスティの大図書館だ。
足音を忍ばせつつ、全体が見渡せる位置に、透明の黒豹騎士は立った。
視野は獲物を捉える広さで。触覚は警戒を。嗅覚と聴覚はそれ以外の情報を漏れなく感知するように。そうやって、マルガ=ウェヌスは目標を見定めようとする。が――
いない。
しばらく様子を伺った後、立ち位置も移動して確認するが、それらしい人影は見当たらなかった。
――ここじゃないとなれば……。
次は鎧獣厩舎。行くまでには巨大な回廊があるが、気付かれる心配はないので行き易い。しかし、問題は果たしてそこにいるかどうかという事。もしいない場合はどうするか……。
※※※
モニカが反応したので、ガエタノは閉じていた瞼を開いた。正確にはモニカではなく、彼女の鎧獣チベタン・マスティフの〝マーザドゥ〟が反応したのであったが。
「来たのか?」
モニカは磁器人形の無表情で、おそろしく長身な老人の問いに頷いた。
「うん。中にいる。一人みたいだけど」
モニカ・ナビィの心は、この建物のように暗黒で虚ろだ。
幼い頃に人買いに売られ、幼女趣味の変態貴族どもを相手にする売春窟に居た所を、今、目の前にいるガエタノ老人に拾われた。ガエタノにその趣味はなく、件の売春窟が、エール教の司教によって運営されていたため、これを摘発する為に行ったに過ぎない。そこでたまたま拾った少女が、何の興趣か、犬の鎧獣を使う騎士として仕込まれており、それに興味を持ったガエタノが、灰堂騎士団に誘ったのだ。
以来、誰にも心を開かぬモニカが、ガエタノには心を閉ざす事なく接していた。自分を、魔窟から救い出してくれた恩人だからであり、同時に、彼女に眠る騎士の才能を見出してくれた恩師でもあるからだった。
ファウストにも心を閉ざしてはいないが、彼への場合は、思慕や憧憬に近く、分かり易く言えば恋をしているだけだ。灰堂騎士団総長のゴーダンに対しては、純粋な畏れから敬服しており、また、〝神女〟ヘスティアに対しての思いとも異なっていた。
ともあれ、モニカが心を開くのは、灰堂騎士団の長老であり、知恵袋でもあるガエタノ老人ただ一人だけなのは間違いなく、最も優れた〝目〟と、悪魔の気配も察知する恐るべき〝嗅覚〟が合わされば、この二人から逃れられる者など地上にはいなかった。
それが例え、神をも欺く人獣であったとしても――。
「一人とな? どっちだ? あの生白いチーターの女か? それとも黒い方か?」
「黒い方。もうすぐ東の回廊に着くよ」
「ふむ……。二人一組で来ると思ってたのじゃがな。マーザドゥの〝標〟が間違うはずないしのう。何かの策か?」
二人がいるのは鎧獣厩舎。周りには、己の騎獣以外にも、オグロヌーが何十体とひしめきあっている。
「もう行く? 待つ?」
「こちらの手の内がわかるはずもないしのう。よしんば、こちらの〝術〟が彼奴らに知られておったとしても、一人だけとは随分とした自信じゃな。こうなると、お互い、伏せた手札に何が有るかは分からぬままの読み合いとなるか。なれば、これが敵の策であれば、あえてそれに乗っかるのも一興かもな。面白い。儂らの〝目〟と〝鼻〟、それに儂と知恵比べしようとはの。ヒョッ、身の程知らずな小娘どもよのう。年季の違いを見せてやらねばいかんな」
「独り言、長い。行くんなら、あたし先に行くよ」
「年をとれば独り言が長くなるもんじゃ。お主もいずれそうなるよ」
「あたしはならない」
「女子は皆、年を経る事を拒むもんじゃが、残念ながら人は皆等しく年を取る。お前さんとてシワシワの婆になるのじゃぞ。ヒョヒョヒョ」
「ガエ爺みたいなしわくちゃになるんなら、その前に死ぬ」
「如何にも若人らしい言い様じゃな。刹那的じゃわい。まぁそれも、若さ故の特権かのう」
「やだガエ爺。爺さん臭い」
「何を言うとる。儂はとっくにジジイじゃて。ほれ、モニカ。マーザドゥを連れて行くぞ。〝ヘイズルン〟も来い」
ガエタノがそう言うと、厩舎の奥から、巨大な獣の影が姿を見せる。肩までの高さだけで約六フィート(一八〇センチ)はある、ウシ科ブッシュバック属の大型羚羊。外向けに螺旋を描いて捩じれた二本の角と、下顎の根元から胸元まで伸びた、顎髭のような長毛が特徴的な、同目の最大種。
ジャイアントイランドの鎧獣。
〝ヘイズルン〟。
灰堂騎士団、それも指揮隊長相当の騎士である〝十三使徒〟の証、黒灰色の授器を、チベタン・マスティフの〝マーザドゥ〟同様その身に帯び、老人と少女、大型羚羊と虎殺犬は厩舎を後に〝獲物〟を狩りに出ていった。




