第六章 第四話(1)『黒化』
黄金の人狼騎士〝ヴァナルガンド〟。
優美な長い足をした、狼と狐の中間のような見た目の犬科動物、タテガミオオカミの鎧獣。
アクティウム王国が誇る工聖、エンツォ・ニコラの制作で、騎士は同王国の第三王子クリスティオ・フェルディナンド・デ・カスティーリャ。
駆り手のクリスティオが六・五フィート(約二メートル)の非常な長身のため、鎧化後の大きさは、ザイロウなどと違い、劇的に大きくなるわけではない。ザイロウと同じ十一・五フィート(三・五メートル)ほどの上背だが、筋肉に覆われた通常の鎧獣騎士に比べれば、実にほっそりとした体つきに見える。
そのヴァナルガンドが、体を丸めるように沈ませると、直上を鎚矛の風切り音が過ぎていった。
空を斬る、尾黒牛羚羊の一撃。
石壁さえも砂糖菓子のように粉々にする勢いがあるのだから、細身のタテガミオオカミなど、中の駆り手ごと致命傷になりかねない。
だが、どれほどの威力があろうとも――擦りもしなかった。
「なんとノロマだ。欠伸がでるぞ」
気付けば、灰堂騎士団の人牛騎士の背後に周り、耳元で囁き声を残す。背後を振り返ると、もうそこにはいない。
イーリオは何度も目にしていた。
旅の途中の修練で、その速さを。
ヴァナルガンドの速度は、まだまだこんなものではない。今でさえ、ザイロウの動体視力でも、目で追うのがやっと。足の速さだけで言えば、本気のヴァナルガンドは、百獣王さえも凌駕する。
クリスティオ=ヴァナルガンドは、腰の大剣を手にした。今まで剣を構えてすらいなかったのだ。
鋳型で鋳造したような、様々な細工模様が施された、異形な見た目の大剣。刀身には穴があったり、丸型の凹凸物があったりして、およそ武具としては不格好である。だが、見た目の異様さは飾りではなかった。
クリスティオは、タテガミオオカミの足で軽く地面を叩くと、不敵に言い放った。
「まずは〝一速〟だ」
次の瞬間、その場から金毛のタテガミオオカミが姿を消した。
と同時に、目の前のオグロヌーの鎧獣騎士が、横向きに体を湾曲させながら吹き飛ばされた。片腕は千切れ飛んでいる。その吹き飛んだ腕が地面に着くより早く、もう一騎の人牛騎士が、体を地面に叩き付けられていた。
その速さは、まさに神々の領域。神速の金毛人狼。
たじろぐ敵に対し、クリスティオ=ヴァナルガンドは、笑うように口吻の片側を上げた。その仕草を嘲弄と受け取って激昂しかけるオグロヌー達であったが、ヴァナルガンドとの距離が、鎚矛の攻撃範囲ではわずかに届かない、間合いの外。その状況で、いきなり一体が腹部に衝撃を受けて吹き飛ばされる。勢い、吹き飛ばされた一騎の真後ろにいた人牛も、煽りを食らって下敷きになった。
残った一騎が見ると、ヴァナルガンドは走り出していない。走り出した素振りもない。だが、片手を突き出していた。瞠目する。イーリオや、ドグも驚いた。
ヴァナルガンドが手にしていたのは、槍。
先ほどまでの大剣ではなく、その二倍の長さはありそうな槍だった。
ヴァナルガンドは槍を持った片手を手首で捻ると、仕掛けめいた音をたてて、槍が〝変形〟する。
見れば、元の大剣に戻っていた。
「ほう、ジャンルイジの〝カラドヴルフ〟。――エンツォが完成させていたのか」
感心したように呟いたのは、黒騎士だった。
ヴァナルガンドの武器授器。
銘を〝カラドヴルフ〟と言った。
〝槍〟で吹き飛ばされた一騎は、鳩尾の下側に、風穴を空けて悶えている。いくばくかもしない内に、絶命する事は目に見えていた。それの下敷きになった一体が、仲間を助けるよりも、この状況に堪えきれない絶望を覚え、その場で悲鳴をあげた。
声はメギスティ中に響き渡り、聖域らしい寂寞とした空間に、目に見えぬ亀裂を走らせた。
だがこれで騒ぎが広がる。予定より早くなったが、ここまではイーリオ達の予定通り。
悲鳴をあげた一騎は戦意を喪失したのか、その場から腰を抜かしたまま後じさろうとするが、無傷のもう一騎は、勇を鼓舞して鎚矛を構え直した。その気迫は賞賛に値するものだろうが、如何せん相手が悪すぎる。オグロヌーが鎚矛を振り上げ、角突撃の体勢に入った直後。
彼の視界に入っていなかった白銀の閃光が、光の残像を残して横切っていく。
大狼の鎧獣騎士イーリオ=ザイロウが、残った一騎を一刀の下に沈めた。
その場に崩れ落ちる人牛騎士に対し、白銀の人狼は振り返りもしなかった。そのまま、イーリオにしては珍しく、まるで挑発するかのように曲刀〝ウルフバード〟の切っ先を、黒衣の騎士に突きつける。
黒衣に身を包んだ仮面の騎士は、笑ったのだろう。肩を細かく揺すると、腰に吊るした剣を外した。
ガシャン。
剣が鞘ごと地に落ちて、石の回廊に大きな音を立てた。その音が、やけに残響をたてて耳を打った。
「なるほどな。腕をあげたという事か。それに、助っ人もいる、と。確かにあの時、助けを借りてはいかんとは言ってなかったな」
ゆったりと、だが隙のない猛獣の動作で、黒豹が主の背に回り込んだ。
「しかし忘れてないか? 出来れば取り返そうなどとは思わん事だ、と言ったのを? それは忘れたか?」
「覚えてる。けど、約束はしていない」
「そうか」
黒曜石よりも漆黒に輝く黒豹が、全身をバネにした。
「黒化」
墨のような黒煙がわきあがる。
この世で唯一人。
白色の煙ではなく、涅色の煙を噴き上げる鎧化。
神秘の黒が、暗黒色の獣王を呼び覚ます。
※※※
薬湯による湯浴みを済ませた体を、二人の女官が、丁寧に恭しく拭き取る。
僻地、それも高山の寺院の中で、自由に湯船を使用出来るなど、王侯貴族並みの贅沢ぶりであった。それが許されるのは、ヘスティアが黒母教の大巫女だからだ。
例え、仮にどのような末端の――ごく普通の――信徒がこれを知ったところで、彼らは何も不服には思わないだろう。何故ならヘスティアは、生ける象徴。大司教よりも遥か高位の存在。黒母教の唯一絶対神、母なるオプスの地上における代行者なのだから、彼女以外のあらゆる人間は、彼女に尽くすのが当然だと考えるからだ。
人々が彼女を敬う実証の一つが、その齢にあった。二百歳をとうに過ぎ、三百歳に手が届こうかという年齢にも関わらず、未だに少女のような顔姿形をしている。
外部の人間からすれば、何を馬鹿な、人間が二百歳も生きるなど有り得ない、そんなものは偽り、まやかしの類いでしかないと考えるだろう。しかし、黒母教信者は、口を揃えてヘスティア様は二百歳を超えた〝神女〟なのだ。間違いない、と言う。狂信的と言えばそうなのだが、実際、幾人かの証言者――ヘスティアに謁見した事のある黒母教に帰依した王侯貴族ら――によれば、自分が入信した若い頃から、ヘスティア様の見た目は一切変わっていない。同じ顔、同じ声、同じ姿のままだ、と言う声が多数ある。そして記録の上でも、そのような記載が少なからず残っていた。
神か悪魔か、はたまた魔法の類いでもなければ、そのような事は有り得ないのだが、女神オプスの加護によるという以外、真実を知る者はいなかった。
ヘスティアの体を拭く女官達は、鼻孔をくすぐる甘やかな香りに、頬が上気した。薬湯に含まれる成分なのか、それとも神の巫女なればこそなのか、ヘスティアの体からは、得も言われぬ芳香が漂っているからだ。それはどこか、わずかながらにネクタルの香りにも似ていた。
体の線が透けて見える薄絹を羽織り、その上から巫女の衣服を纏う。
ヘスティアが、いつもの正午の湯浴みを終えた直後の事だった。
何やら神殿の外側が騒がしい事に、女官達は気付いた。
いつもは静寂に包まれているメギスティにおいて、大きな音声が出るのは、祈りの時と、いくつかの祭礼や儀式を除けば、ここの別棟に住まう錬獣術師イーヴォが何やらしでかした時ぐらいで、普段は神女のいる奥殿まで騒ぎが聞こえる事など有り得ない。
女官の一人が不審がり、何事か確かめるために腰を上げようとした。だが、鈴を鳴らしたような軽やかな響きで、女官の動きをヘスティアが押しとどめた。聖歌を唄う少女のようでもあり、予言者の宣託のような厳かにも感じとれるその声色に、女官達は一様に畏まる。
装身具を嵌め、身支度をし終えたヘスティアは、唐突に告げた。
「〝遷宮〟をはじめます」
女官達は目を丸くする。神女の言葉に疑義を挟む事などありえないが、さすがに耳を疑いそうになる発言だったからだ。
「は……、しかし、まだ細かなものがお済みになっておりませぬし、信徒の皆もそれに向けての準備に働いておりますれば、数日の後には御意も叶いましょう。それまでは、今しばしお待ちあそばされるのがよろしいかと具申いたしますが……」
「本日、こちらを出ます」
「はっ」
神女の言葉は絶対。
これ以上の疑いは、信仰への裏切りでもある。
「後ほど、皆には私が詔を発しましょう。その後で、やるべき事があります」
ヘスティアは、祈るように目を閉じた。
それが女神に対する祈りなのか、何かに想いを巡らしての事なのかは誰にも分からない。そしてこの後に続く出来事を見越せる者も、誰一人としていなかった。彼女と、もう一人を除いて、誰一人――。




