第六章 第三話(3)『黒灰院』
目の前に聳える異質な寺院は、まるでこの景色にそぐわない。五つの漆黒の建造物が、岩だらけの山肌から、自生した植物の様に建っている。
メギスティ黒灰院。
南側は完全な崖で、底には小川があるというが、上からは視認すら出来ない。
寺院に至る道は一つ。北西の山肌沿いに石造りで設けられた道があるのみ。例え山に通じた山羊やピューマの鎧獣騎士であっても、他の経路を使っての侵入は不可能であろう。まさに要害中の要害。
入口へと至る道を辿って、ようようと到着したイーリオ達。
だが、寺院の異様さに目を見張る間もなく、もう一つの〝存在〟を目にした瞬間、言葉を失った。
門も兼ねた黒塔。寺門にあたる場所の中央に、その漆黒は待ち構えていた。
黒い寺院を目前にし、地獄の門卒のように佇立する、闇をその身に纏った騎士と、暗黒の獣。
見忘れるわけがない、その姿。
イーリオの顔が、サっと青醒める。
ドグも同様。シャルロッタでさえ、同じように息を呑んだ。
――黒騎士!
その黒衣の故か、駆り手の衣服や鎧獣の授器の様式は、灰堂騎士団と異なるが、まるでこの場にいる事が当然であるかのような自然さである。
灰堂騎士団の使徒、ファウストの鎧獣も黒い獣だが、ところどころに装飾もあり、黒いのは黒いが、黒騎士ほどではない。ナーデ教団の外套よろしく、黒と灰色といったところが正しいだろう。
だが、彼は違った。
一分も異なる色のない、完全なる〝黒〟。
黒豹の瞳の色のみが炯々と光っていたが、それを除けば本当に色彩を夜の闇に置き忘れてきたかのようだ。イーリオは一度見ているから覚えているが、黒騎士はその剣も漆黒の刃なのだ。
名も知らぬ。
出自も分からぬ謎の騎士。
――何で、黒騎士が……。
同時に、イーリオは思い出す。
己の目的を。
何故、〝百獣王〟に弟子入りしたのか。
何故、メルヴィグへ向かったのか。
亡き母の形見。
壊れた、壊されたペンダント。奪われたペンダント。奪ったのはそう、黒騎士。
ゴートとメルヴィグの国境。風雪が舞う荒れ地での出来事。
それらが瞬時に脳裏を駆け巡り、稲妻に打たれたように、イーリオは体を身震いさせた。
意識せず、全く自分の意思とは無関係に、勝手に足が出ていた。
まるで忘我といった両の目には、狂疾めいた輝きが灯っていた。
己の主の急変が感染ったかのように、白銀の大狼までもが憑かれたような足取りで、同時に前に進み出す。
腕が力強く掴まれた。
有無を言わさぬ力。我に返ったイーリオが振り返ると、ターバンのような布を巻いた頭が、首を左右に振っている。
「ドグ……」
「落ち着け。おめえの考えならわかる。けど、まずは落ち着け」
ザイロウもイーリオと共に歩みを止めた。そして前方に立つ、暗黒の住人に敵意ある眼差しを向ける。
そう。本来ならば、まず考えもなしに突っ走るのは、ドグの方だ。いつもの――以前の自分ならばそうだった。
だが、今度ばかりは違う。
目の前には、イーリオの最大の敵。最大の標的。最大の目標。
その当人が姿を見せたのだから当然の事だろう。
それにしても、あの穏やかなイーリオが、黒騎士を前にするとここまで変わるのかと、内心、ドグは驚いていた。旅の途中で言っていた、リッキーの言葉を思い出す――。
※※※
「イーリオはな、確かに違う。あいつは一見すると、一生懸命で馬鹿正直で、絵に書いたようなマジメ君だ。けどその反面、こっちがヒいちまうくぐれー、凶暴でヤベーところがある。あれだぜ、イザとなったら一番ヤベーのは、間違いなくあいつだろーな。オメーはよ、不真面目で何もかんも斜めから見てますってツラをしてるよーで、ギリギリんとこで律儀で青臭ェんだよ。ある意味、イーリオとは真逆だな」
※※※
今は――今だけは、真逆の己が、手綱を握らなきゃならない。ドグが歯を食いしばるような思いでいると、横合いから間の抜けた声があがった。
クリスティオ王子だ。
「あれは黒騎士卿か? 三獣王の一人がいるのか? 驚いたな」
その声に、意識を取り戻すイーリオ。己の動悸が早くなっている事に、今気付いた。
「おい、イーリオ。お前、あの黒騎士卿と因縁があったんだろう? 奇遇だが、またとない機会だな。お前も何で止める? 一石二鳥じゃないか。ここでイーリオがやりあえば。だろう?」
思わぬクリスティオの一言に、イーリオの髪の毛が逆立つようだった。乱暴にドグの手を引き剥がすと、両の目から火が出んばかりの感情が迸る。
ドグは慌てた。
「おっ……! てめっ……、何言うんだ?! 焚き付けんじゃねえよ、バカか?!」
「何だと? 俺に向かって馬鹿とはなんだ。貴様こそ怖じ気づいたんじゃないか? 相手があの三獣王だから、途端に臆病風に吹かれたか? 愚かだなぁ。全く愚かだ。イーリオ一人ならその心配も分かるが、ここにいるの誰だ? ん? そう、このクリスティオ様だ。この俺がいるのだから、相手があの三獣王の一角でも、怖れるには足りん」
「てめえは、その三獣王の一人の弟子じゃねえか! 何が恐れはせんだ。てめえもイーリオも、まずは冷静になれ。何でここに黒騎士がいる? 考えもなしに突っ込むのは不味ぃに決まってるだろ」
「俺が弟子入りしたのは〝百獣王〟に、だ。彼奴にではない。それに三獣王と並び称されているとはいえ、あのカイゼルン公と同等の実力者など、そういるわけがない。まぁ、かなりの手練であろう事は間違いないだろうが、果たして真実、どこまでの実力者だろうな――? イーリオとこの俺、二人がかりでどこまで楽しませてくれるか」
「おめぇ、何言ってんだ?」
「それはこっちの台詞だ。イーリオはともかく、俺は別に、勝つなどと言っておらん。忘れたのか? 我々の目的を」
ドグは二の句を告げなくなった。
目的は、あくまで陽動。どうやるのかは見当もつかないが、陸号獣隊の二人が、レレケを助け出すまでの間、彼らが騒ぎを起こして耳目を集める事。確かにここで黒騎士と騒ぎを起こせば、その通りにはなるだろうが……。
しかし、あまりにも唐突すぎる。
何故、あの黒騎士がここにいる?
いや、考え過ぎとしても、あの黒騎士相手に、二人がそうそう保たせられる保証はあるのか?
いやいや、問題はそこじゃない。けど何だ。何か胸騒ぎがおさまらない。はっきりと言葉に出来ないが、嫌な予感だけが、グルグルと頭の中を右往左往している。
駄目だ。普段、小難しい事なんて考えないから、何をどう言えばいいかわからねえ、とドグは己に苛々した。
そうこうしている間にも、両者の緊張感は高まっている。
と、ドグの肩に置いた手。
振り返ると、ミケーラがいた。
「貴方の判断は正しいですよ」
「……」
「若様、イーリオ君。少し落ち着きましょう。まずは状況を確認しなければ。黒騎士がいるとは、我々も予想していなかった。違いますか?」
クリスティオが付き人の助言に顔を顰めつつも、頷いた。
「まぁ……お前がそう言うんなら。だそうだ、イーリオ。ちょっと待て」
しかしイーリオの表情は凍り付いたままだ。
いや、微かに変化する。その視線の先――黒騎士がこちらに一歩近付いた。
「久しいな。銀狼の孺子」
イーリオ達が黒灰院の入口手前で足を止めている最中、門前にいた黒騎士の方が、こちらに声を放った。若い男性の声。
いや、中年の声のようでもあり、年経た老年者のようでもある。
アムブローシュ絹を黒く染め上げた、黒衣に身を包み、黒革のブーツに黒革の手袋。黒髪の下は、黒い仮面。腰に吊るした護身用の剣も、黒鞘に黒い柄だ。
傍らに佇むのも、コールタールのような漆黒の獣――黒豹。
見た事のない様式の授器を鎧うその名を〝レラジェ〟と言った。
本名も住まいも、年齢も――何もかもが不明の傭兵騎士。
彼が〝三獣王〟の名を冠したのは、遥か昔。当代のカイゼルンが生まれるよりもずっと過去の事。それ故に、黒騎士も代を重ねていると専らの噂だが、そうではないと言う者もいる。実際、世代交代も名を継ぐ事もしていないのであれば、彼の年齢は数百歳になるだろうし、そんな事はありえないので、彼は何代目かの黒騎士だろうと言われているが、それを知る者もいない。
彼の鎧獣、レラジェも、誰の作で、どの流派に属するのかも不明。
一つだけ確かなのは、彼とその鎧獣の実力は、確かに〝三獣王〟に相応しいものであるという事。百獣王とは違った意味で、大陸中の騎士達が畏れ、敬う存在。
それが黒騎士卿――。
「何故……貴方がここに」
絞り出すような声で、イーリオは黒衣に問いかけた。
「貴様らこそ何だ? ここは黒母教の寺院だぞ。何用あってここに来た?」
「僕達は招かれたんです。ここにいる僕らの友人に。寺院の方に聞けば分かります。それで……貴方がここにいるのは、何故ですか?」
「俺は傭兵。雇われただけだ」
「雇われた? 黒母教にですか?」
「そうだ」
「何の為に?」
「それを何故、貴様に言わねばならん?」
イーリオが続く言葉を見失っていると、黒騎士は続けて言った。
「成る程。お主らは客人か。では、案内してやろうと言いたい所だがな……。中に入るのなら、その鎧獣はこちらに預けてもらう」
きた。
ドグのみならず、誰もがそう思った。
本来ならば、預けようとする拍子に、騒ぎを起こし、それを段々と大きくしていく予定だったのだが――。黒騎士相手にそう上手くはいかないだろう。
「どうした? 客人ならば武装を預けるのは礼儀だぞ」
もうここで騒ぎを――鎧獣騎士戦を始めてしまうか? しかし黒騎士が相手だ。もしこの事態を見越して雇ったのだとしたら……。
「貴方には借りがあります」
突然、イーリオが言った。決然とした瞳。覚悟した表情。
待て。何を言い出そうとしてる? 突っ走るんじゃない。それ以上言えば、後はもう――。
だがドグの心の叫びは、喉から出てこなかった。
「母の形見のペンダント――返して下さい」
言った。言ってしまった。




