第六章 第三話(2)『入山』
ヴォロミティ山脈は、ニフィルヘム大陸をつらぬく大連峰である。その総面積は、大陸の十数パーセントを占め、五〇〇〇ヤード(約四五〇〇メートル)を超える山がほとんどである。真夏になっても山頂付近は雪と氷で閉ざされ、鎧獣騎士でもってしても、ヴォロミティ越えは困難だと言われるほどだ。
その中にあって最も恐れられるのが、〝魔の山〟と呼ばれるウンタースベルク山である。
黒母教のメギスティ寺院は、その中腹の巨大な岩地に建造されており、それゆえに他の宗教の人からは近付く事さえ憚られる、異教の本山として忌まれていた。
山の途中で一度、ドグはカプルスを鎧化し、周囲の気配を探った。嫌な感じはなかったが、死んだように獣が少ないのに違和感を覚えると、それはこの山の立地のせいだとイーリオが説明した。
「ここからは授器の原料になる稀少金属、デュランダニウムが採れるんだ。デュランダニウムの埋まってある場所は、大抵、動物が棲みつかなくてね。多分、そのせいじゃないかな」
そういう事を言っていると、一方でシャルロッタの面倒を見ていたミケーラに、クリスティオが何かを耳打ちしていた。ミケーラは「申し訳ございません」と、口調とは真逆の悪びれない態度で謝りはしたが、珍しくクリスティオはそれをさらに咎めた。
結局、クリスティオが折れる形で治まったようだが、短いやり取りだったので、それにイーリオは気付かなかったが、ドグの耳には入っていた。
再び歩き出す途中で、さりげなさを装い、ミケーラにそっと近寄って尋ねる。
「あんた、騎士なんだな」
「聞こえてましたか」
「俺の耳は特別製だからな。どうして隠してたんだ? ――いや、詳しい事は聞かねえよ。人にはそれぞれ事情があるからな。でも、あんたが〝言ってた事〟をするってのは、ただの心配性か? それとも、何か確証でもあんのか?」
ミケーラの視線がドグに注がれる。値踏みをするように見つめた後、
「貴方は大したものですね」
それが何に対して言った台詞かは分からなかった。ただ続けて、
「若様は愚かと嘯きましたが、それとは真逆のようです」
と、ドグを評した。
自分が賢いなどと言われるのに慣れていないのもあり、思わずドグは、彼女に尋ねそびれてしまう。だが、その言葉で再び思い出した。兄のように慕う、リッキーの言葉を。
※※※
リッキーの視線に耐えかねたドグが、皮肉めいた口振りで、言い訳じみた言説を続けた。
「俺がいくらこうやって兄貴から獣騎術を教わろうと、イーリオ達と旅をしようと、俺の根っこは意地汚ぇ盗賊。それは一生、何をしようと、どこへ行こうと、ずっとついてまわるんだ。だからよ、これは言い訳なんじゃなくって事実なんだ。俺はどこまでいっても盗賊のガキ。何をしてもそれは変わんねえよ」
「アレだな。オメーは大盛りのバカなんじゃねェな。特盛り、いや、極盛りのバカだな」
「なんだそりゃ」
武術の指導は手足もあれば身振りもするので分かるが、リッキーの言葉は、相変わらず理解し難い。
「あんな、ドグ。オメー、そーやってイーリオやレレケと自分を比べたって意味ねーぞ」
「は? 俺が? イーリオと比べてる? は? 何言うかと思えば」
我知らず、顔が引き攣る。
「イーリオはな、あいつは確かにちょっとスゲーもんを持ってるよ。それに輪をかけて、あいつもバカだ。真っ直ぐすぎてバカだ。けどな、あいつのは馬鹿なんじゃねェ。馬鹿正直ってんだ。オメーはそれとは違う。オメーのは正真正銘の馬鹿ってんだ」
「いくらなんでもそりゃひでえ」
「ただよ、あいつは変わった。変わらねェところもあるし、それは多分、一生そのままなんだろう。けどそれ以外は変わったよ」
「はぁ」
「つまりだ、オメーの言う通り、人は変わらねえ。それは合ってる。半分はな。けど、もう半分は違う。変わらねえとこもあれば変わるとこもある。オメーのそれは、盗賊のオメーじゃねえ。盗賊だの何だのってオメーは、変われる部分のオメーだ」
言ってる意味がよくわからない。
「盗賊だの何だの言ってるオメーは、オメーの根っこじゃねェってんだ。オメーの本質は何度も言うように、タダのバカだ」
「だからバカバカ言うなっつうの」
「真っ直ぐで一途で怖れを知らずに向かってくる……それはオメーじゃねえ。オメーのは、助ける、っつったら何も考えねーで助ける。信じるっつったらとにかく信じる。そーゆーバカなのがオメーだ。モンセブールの街でイーリオに言ってたろ? 何があろうとレレケは仲間だ、信じる、ってよ」
「聞いてたのかよ」
モンセブールの街。伍号獣隊の騎士達と、怪物なる異形の生物と戦う前の、一夜の事だ。宿でイーリオと話していた内容を思い出し、小っ恥ずかしくなるドグ。
「それがオメーだ。そしてそんなオメーだから、イーリオもシャルロッタもレレケも、みんな頼りにしてんじゃねーか」
※※※
リッキーの言う通り、自分が頼りにされる存在かどうかなど分からない。わずか数ヶ月だけなのに、イーリオの騎士としての腕前は、相当上がっていると思う。クリスティオ王子も、口の悪さとは別に、実力は自分など足下にも及ばないどころか、イーリオやリッキーでさえも上回ってるように思える。それに、このミケーラという女性。
そんな連中にあって、自分の存在価値などいかほどのものかと感じるが、同時に、今の彼はかつての自分と違っていた。少なくとも、今の自分には、己自身を無用に卑下する事はなかった。
――頼られたいんじゃねえ。頼られるように、なろうとする事
それを彼は分かっていた。
その役目が必要になるであろう事も、どこかで気付いていたのかもしれない。
時間は前後して――イーリオ達がメギスティに到着するより数日前の事。
メルヴィグ王国王都レーヴェンラントは、都市中が騒然となっていた。驚いている――というのが正しいのだが、喜ぶべきなのか慌てるべきなのか、皆が皆、戸惑いながらも、等しく息を呑みつつざわめいた。
叙任を受けてはや二年。一度たりとも出仕をせずにいた漆号獣隊の主席官カイ・アレクサンドル王子が、初めて王都に赴いたのだから、街中が騒ぎになるのも当然の事。覇獣騎士団をはじめとした、メルヴィグの騎士団のみが許された、鎧獣通行用の獣路を堂々と渡り、カイ王子の一行は、漆号獣隊の宿舎である騎士団堂で騎獣を預けると、慌ただしく王宮へと出向く準備をした。
騎士団堂に駐屯していた漆号獣隊の騎士達は、事前に報せを受けてはいたものの、それでも初の主席官の出仕に、言葉もない程の感動をしていた。中には、涙ぐむ者さえいて、同行したカイゼルンは呆れるやら白けるやらといった風で、先んじて王宮へと向かった。
カイゼルンは、相変わらず幻獣猟団主宰ディルク・カーンの格好をしている。六代目カイゼルンは、神出鬼没だと言われる原因の一つがこれなのだが、それゆえに連絡が取れる人にしか取れず、周りはいささか迷惑気味なのだが、本人はこの扮装を楽しんでいるようであった。
弐号獣隊のリッキー・トゥンダーを伴い、獅子王宮に行くと、玉座の間にはレオポルト王とコンラート宰相、それに弐号獣隊の主席官ジルヴェスターの三名が待ち構えていた。
「うえ……」
と顔を引き攣らせるカイゼルン。
それを呆れ気味に嘆息した後、逃がさないようにレオポルトが立ち上がって近付いた。
「こんなに短期間でカイゼルン師にお会い出来るなんて、意外でしたよ」
「ぬかせ。お前ぇが差し向けたせいだろうが。ていうか、オレ様は必要だったのか? カイの引きこもりヘタレ野郎を引きずり出すのに、イーリオの坊主だけで充分だったんじゃねえかよ」
いくら〝百獣王〟の名を冠する当代最高の騎士だとはいえ、一国の君主に対する口振りではない態度に、ジルヴェスターは顔を痙攣させていた。
しかし〝カイゼルン〟は、先代、当代ともに、レオポルトの武術の師であり、同時にかつては覇獣騎士団全体の武術師範も努めた事もあったので、王といえども師弟の礼に従う事を認めていた。
「まぁまぁ。ボクも確信があったわけではなかったんですよ。でも、あの少年と少女なら。そう思ったので」
レオポルトの発言に、カイゼルンは「フン」と鼻を鳴らしたのみだった。リッキーとジルヴェスターはその意味を理解していない。だが、コンラートには形容しきれない思いが脳裏をかすめた。彼は王より聞かされていたからだ。
シャルロッタという少女の言った〝三つの紋〟という言葉を――。
「じきにカイがここへ来るだろうから安心しな。オレ様はしばらく逗留させてもらうが……、まぁ、好きにさせろよな。今、猟団に戻るのも色々面倒だし、かといって傭兵稼業も面倒臭ぇ。のんびりさせてもらうさ」
「ファウストに会ったんですね?」
「ん? ああ……。先代のジジイから聞いてたんだが、本当に生き延びてるとはな。オレ様も眉唾モンだったからよ」
「眉唾……?」
「あのガキは〝特別〟だってな。ジジイは、〝そいつ〟を封じる為に、レーヴェン流を教えたっつってたぜ。まぁ、あのジジイの言う事だ。どこまで真剣に言ってるか、分かったもんじゃねえがよ」
巫山戯た言動が、そのまま服を着て歩いているような自分は棚に上げておいて、のうのうと己の師をくさすカイゼルン。
だがレオポルトですら、今の発言に含まれる不穏当さを理解出来てはいなかった。
「貴方が居て、助かりました。それで、助かりついでになんですが……」
「あん……? 何だ?」
「のんびりなどせず、少しご助力を願いたいのですけど」
途端にカイゼルンが回れ右をしようと体を引く。
身長でいえば、カイゼルンはジルヴェスターと同じぐらいの長身だ。レオポルトも長身の部類なのだが、それでもカイゼルンを見上げる格好になってしまう。
「こちらのリッキー次席官を伴って、黒母教の総本山、メギスティ黒灰院に向かって欲しいんです」
「はぁ? イーリオのとこへか? 何でオレ様が?」
「無論、礼は致します。この私直接の依頼ですから。そこはご安心を」
「おい、聞いてなかったのかよ。オレ様はしばらく働きたくねえって言ったんだ。どんな依頼だろうと、お断りだぜ。ましててめェの弟子を助けに行くなんざ、オレ様の柄じゃねえ。あいつがヤバいってんなら、それをどうにかするのも、あいつの裁量だ。でなけりゃ、オレ様の〝弟子〟を名乗る資格はねえ」
「そう言うと思いました。私も先ほどまで、カイゼルン師にお願いをしようとは思ってなかったのですよ」
「――どういう意味だ?」
「陸号獣隊より報せがあったのです。メギスティ黒灰院に、〝あの男〟が入った、と」
カイゼルンの表情は変わらない。ヘラヘラとした〝ディルク・カーン〟のままだ。だが、その目の彩は、急激に深みを増したようだった。
「貴方と同じ、です」
ジルヴェスターは分かっていない。リッキーも。だが、カイゼルンはその一言だけで理解した。
「〝黒騎士〟が、メギスティに入ったんです」




