第六章 第二話(終)『舞姫』
マーザドゥの嗅覚が、ヴィクトリア、マルガ、隊員の三名の動きを、克明に教えてくれた。虎殺犬の鼻は、匂いで相手の動きすら感知してしまえるのだ。
――どう動いても、アタシの〝イナンナ〟からは逃れられない。
まるで不釣り合いにも見える突戦鎚を構え、彼女は密かに、獣能を発動させた。
発動を感じると、次の瞬間、マーザドゥは横っ飛びに跳躍をかけた。
隊員の方向だ。
――!
不意を衝かれた隊員が、剣を防御に翳すも、空を斬る突戦鎚が、それを弾き飛ばしてしまう。旋回するように、同じ軌道で再度突戦鎚が襲ってき、隊員の体は横向けに引き千切られる、そう思った刹那。
火花が閃光のように弾けながら、あわやの寸前で、金属棍が、隊員の一命を救った。
ブラックジャガー〝ウェヌス〟だ。
だが、マーザドゥと駆り手のモニカは、その動きを〝嗅ぎ取って〟いた。
このブラックジャガーが、助けにくるのは分かっていた。問題はそこじゃない。
受け流されて体勢を崩したかに見せた狗頭人身の騎士だが、それは見せかけ。たたらを踏んだように見せて、一息でヴィクトリアの方へと跳躍をかける。
マルガが焦る。
――しまった! そっちが狙いか!
時間にして、数秒にも満たぬ攻防。
突戦鎚の爪先が、美しいヴィクトリアを、無惨な肉塊に変えてしまうかに思われた――
「白化」
ヴィクトリアの周囲。
何もないずの空間から、突如白煙が、間欠泉の勢いで吹き上がった。
白煙はマーザドゥの視界を覆い、人狗騎士の嗅覚ですら混乱させる。
勢い、突戦鎚の先端が振り下ろされるが、けたたましい金属音と火花が再度弾け、マーザドゥの攻撃は虚しく宙を泳ぐ。
白煙が吹き払われる。
そこには、女性そのものの優美で華麗な曲線を描いた、一体の鎧獣騎士。
中型猫科猛獣の顔つき。
それはどう見ても、狩猟豹のもの。
だが違う。一目で通常の狩猟豹ではない事に気付く。
黄色の体毛は、淡いクリーム色ほどの彩度に輝き、あるはずの黒い斑点模様は、真っ白になっている。
狩猟豹の色素変種。
幻霊狩猟豹の鎧獣騎士。
手には、大きな鉄扇。
それが〝彼女〟の武具。
華奢にも思える細身の肢体に、優雅な武器を翳した姿は、戦う踊り子のよう。
――主席官の〝キュクレイン〟!
声に出さず、マルガは心中で、鎧獣騎士の名を呼んだ。
モニカは、思いがけない鎧獣騎士の登場に、彼女らしからぬ動揺を見せた。突戦鎚〝イナンナ〟の攻撃が弾かれたのも驚きだが、それ以上に彼女を狼狽させたのは、何の〝兆し〟も感じさせず、いきなり鎧化した事だ。
マーザドゥの嗅覚が、鎧獣の存在に気付かないわけがない。ましてやこの近距離ならば、この場の全ては、掌の上のようなもの。全ての動きは、彼女が把握している。そのはずなのに――。
何の素振りも――姿さえ見せず、この幻霊狩猟豹は、鎧化をした。
「何……? 何なの、あんた?」
不愉快さを滲ませた声で、白亜に煌めく人獣騎士を睨みつける。
灰堂騎士団の中でも、彼女以上の実力者は少なくない。位階はそのまま強さの序列となっているので当然の事だが、第五以上の使徒ともなれば、その実力は騎士団長級どころではない。モニカなぞ敵うはずもないほどの騎士達だ。そんな実力者達でさえ、彼女の嗅覚が捉えきれないという事はなかった。彼らに勝てないのは、知覚出来てもそれを無効にされるほどの力を持っているからだ。彼らでさえ、マーザドゥの嗅覚は把握出来る。
だが、この不気味なチーターの人獣は何だ?
目の前に姿を見せた今でも〝匂い〟が感じとれない。いるのかいないのか。目を離せば、一瞬でいなくなりそうな。そんな朧げな気配しかしない。
「獣能……なの……?」
我知らず漏れた一言に、ヴィクトリアは微笑みでもって返した。
チーターの上からだから、笑顔は見えない。だが、声が軽やかなのでそうと分かる。
「どうでしょうね」
まるでモニカの心中を全て読んでいるかのような受け答え。
今までになかった敵と、その不敵な態度に、モニカの苛立ちは益々大きくなっていく。
だが、背後に気配。
マルガ=ウェヌスがマーザドゥの真後ろをとった。斜め後方には、ピューマの陸号獣隊がいる。
後ろの二人はともかく、そいつらを片付けようとすれば、目の前の幻霊狩猟豹が、何を仕掛けてくるか分からない。かといって先に幻霊狩猟豹を相手すれば、こちらに隙が生まれるかもしれない。
モニカが躊躇っていると、幻霊狩猟豹〝キュクレイン〟のヴィクトリアが、鉄扇を棒状に折り畳み、飛びかかる寸前の緊張を孕んで、その姿で凝固した。
――まるで読めない。
マーザドゥの〝匂い〟は何も教えてくれない。
その時だった。
ピクリ、とチーターの触覚を振るわせたかと思うと、ヴィクトリア=キュクレインは、「飛んで」と叫んで、大きく跳躍する。同時に、マルガと隊員も跳び上がり、直後、目に見えない〝何か〟が、キュクレインのいた場所で、大きく弾けた。
速度も威力もさほどであったが、破壊の後で、獣のいななきのような声がしたのが、不気味であり、気付けばマーザドゥの姿は、先ほどまでにいた場所から、大きく離れていた。
ヴィクトリア達との距離は、五〇ヤード(約四十六メートル)以上になっている。
そこに、十六フィート以上の巨躯を持った、羚羊の人獣騎士が立っていた。
「気になって来てみれば、まさかこちらが当たりとは。ヒョッヒョッヒョッ。モニカ、お前さんはクジ運が強いのう」
ガエタノの纏う、鎧獣騎士〝ヘイズルン〟だ。
「ありがとう、ガエ爺」
ファウスト以外でモニカが気を許すのは、このガエタノくらいのものだ。礼を交わすと同時に、聞こえないほどの小声で、ガエタノはモニカに尋ねた。
――して、首尾は?
――仕込んだ。奴らはもう、あたしの獣能から逃れられない。
――それは重畳。
「では、ここは一旦退散するとしようか」
彼我の距離を推し量りながら、ガエタノは退くよう、モニカに告げた。普通なら、そんな命令、モニカが聞き入れるはずはないのだが、ガエタノが言うのなら、彼女に疑問はなかった。
「うん」
モニカが頷くのを見て、ガエタノは前方の覇獣騎士団達に叫んだ。
「うちの者が世話になったのう。お主はあれじゃな、陸号獣隊の主席官ヴィクトリア殿じゃな。儂の名は、灰堂騎士団十三使徒の一人、第七使徒ガエタノじゃ。こっちは同じく第十使徒モニカと申す。今日の所はここまでじゃが、すぐまた相見えるじゃろう」
言うが早いか、羚羊と巨犬の二騎の人獣騎士は、後ろ飛びに跳躍をかけ、そのまま疾風のような速度で駆け去っていった。
彼らの去る姿を、ただじっと凝視するだけのヴィクトリアに、マルガが急いで問いつめた。
「主席、追わないんですか? 主席のキュクレインなら、あんな奴らに追いつくぐらい、簡単じゃないですか?!」
ヴィクトリアは少し視線を下げた後、やがておもむろに「蒸解」と発した。
白煙が起こり、優雅な美女と、優美な白亜の狩猟豹が、姿を表す。キュクレインはともかく、ヴィクトリアは、汗一つかいていなかったのは、流石と言う他ない。
「追いつくのは容易いでしょうね。でも、今は泳がせておくべきですよ」
マルガも「蒸解」を唱え、鎧化を解除する。彼女の額には、いくつもの汗の玉が浮かんでいた。
「どうしてです?」
「十三使徒の内、二人も帰ってこないとあっては、敵の警戒は大きくなります。こちらの思惑がまだ知られてない以上、あくまでイーリオ君達とは別個に動いていたと知らしめる必要があります」
「どうやってですか? いくらあの子達と別に動いていたってこんな所で斬り合いしちゃあ、警戒されちゃうじゃないですか?」
ヴィクトリアは、いつもの貴婦人の笑顔で、マルガに微笑んだ。その笑みで、マルガも察しがつく。
「……もしかして、あの時……。あの一瞬でカマしたんですか?」
「マルガ、言葉遣いが下品ですよ」
「はあい」と謝りながらも、マルガは思わず舌を巻いた。
やはりこの主席官は、とんでもない……。絶対に敵に回したくない人だ……と。
いつの間にいなくなっていたのか。
幻霊狩猟豹のキュクレインの姿は、もう既に消えていた。
ブラックジャガーのウェヌスのみ、ゴロゴロと喉を鳴らして、礼を言っているようだった。




