第六章 第二話(5)『大鹿羚羊』
ジャイアントイランドの〝ヘイズルン〟を纏ったガエタノは、ゆうに十六フィート(約五メートル)を超える巨躯になる。羚羊類特有の俊敏さがなければ、目立つ事この上ない大きさだ。だが、森の樹々を悪魔のように駆け抜ける様に気付く者はおらず、僅かに鳥や虫達、小動物が恐れるように騒ぎ立てるくらいであった。
その内、彼は、素早い跳躍を繰り返し、数える間もなく、イーリオ達を乗せた馬車に追いついた。まだ距離はあったが、視認するには充分なほどだ。
――ふむ。これくらいの距離なら充分じゃろう。
あまり近付きすぎれば、馬車の連中に勘付かれてしまう。人間の目なら、豆粒にも満たない程の彼我の距離を保ったまま、ガエタノは人獣の中で、意識を高める。血流が両の目に集まってくるようだ。
――〝見破〟。
ヘイズルンの獣能が発動された。
一気にガエタノの網膜に、辺り一帯のありとあらゆるものが透過されていく。
両目の獣能、〝見破〟。
これの前では、いかなる擬態や潜伏・隠伏行為も通用しない。ありとあらゆるものを見破る、超視覚の獣能。危険感知に優れた草食動物ならではの獣能と言えたが、ガエタノの使い方は、彼ならではのものだった。
周囲およそ三マイル(約五キロ)四方にまで、感知の〝目〟を広げ、そこからどんどん、感知網を収縮していく。感知の〝網〟は最大そこまで広げられるが、広がれば広がる程、精度は落ちる。その逆で、感知を辺り一帯に絞れば、その〝目〟は温度・空気・光の屈折、果ては赤外線や紫外線まで見分ける事が出来るのだ。最高精度にした場合の範囲は、およそ五〇ヤード(約四十六メートル)四方。イーリオ達の馬車までは開きがあるが、この程度なら充分な感知精度で見る事が出来た。
草木の影に隠れる鹿や、それを狙う熊に至るまで、あらゆるものを捉えるが、彼の〝見破〟に、異常は検知されなかった。
しばらく、獣能を発動したまま、距離を保ちつつ追跡していたが、何も引っかかるものはない。
どうやらこちらは何もない、か。……それとも既に……。いずれモニカと合流すればわかる事だと思い、ガエタノは鎧化したままの姿で、山野を一気に駆け去っていった。
※※※
イーリオ達の向かう黒母教総本山、メギスティ黒灰院は、大陸一のヴォロミティ山脈にあった。その中でも最も標高のある〝魔の山〟ウンタースベルク山の山腹に寺院は建っており、険しさゆえに、そこへ向かう道は限られていた。イーリオ達が馬車で通っている街道が、最も確実で安全な道筋で、あとはヴォロミティの山肌を抜けるという、人の足ではおよそ険しい道なき道を行くしかなかった。
その急峻な山道を、ものともしない確かな早さで、幾人かの人影が駆け抜けていく。
皆、カーキ色の外套で全身を覆っていたが、隙間から見える衣服は、白地に鈍い金色の縁どりがされた、覇獣騎士団のもの。
それぞれ、およそ人間離れした早さで駆け抜けているが、全員が鎧化などしていない、普通の人間だった。
覇獣騎士団の中にあって、諜報・索敵などを主任務とする唯一の部隊。
陸号獣隊の隊員達だ。
彼らはいわば隠密・忍者部隊。
ゴート帝国の不死騎隊のようなもので、隊員達のほとんどが、特殊な訓練を受け、常人離れした身体能力を有している。これが鎧獣騎士になった際の戦闘能力は極めて高く、諸国から覇獣騎士団が恐れられる最大の理由が、この陸号獣隊にあるとまで言われるほどである。
各隊員達に並走する形で、豹やピューマといった鎧獣がいる。
先頭を走るのが、主席官たるヴィクトリア。
次に次席官のマルガ。
個々の距離は、三十二フィート(約十メートル)以上離れている。これは、何かあった際に、固まりすぎてはいけないという考えからだ。
マルガに並走する彼女の鎧獣は、梅花紋と呼ばれる斑紋がうっすらと見える、黒毛の大型猫科猛獣。豹に酷似するが、その足は豹よりも逞しく、一回り程大きい。
ブラックジャガーの鎧獣〝ウェヌス〟。
オフホワイトがかった白の授器が、梅花紋の浮かぶ黒毛に映えるような優美さを与えている。
一方、ヴィクトリアの傍らには、鎧獣がいなかった。
連れていないのではない。彼女の鎧獣は、常の状態で既に、隠密行動をとっているからだ。
イーリオ達とはかなり距離を空けている。
ガエタノの調べに気付いた訳ではなく、単純な警戒ゆえの事。
人間離れした速度で山道を抜ける最中、先頭を行くヴィクトリアが、突如後方を振り返った。
来た。何かが。
主席官の警戒にいち早く気付いたのがマルガ。隊員達もそれぞれ、一斉に身構える。
「皆、鎧化を!」
ヴィクトリアの、大きくはないが、確実に聞こえる特殊な話法の声が届く。
マルガを含む全員が、一斉に白化を唱える。
陸号獣隊が、ヴィクトリアとマルガを除いて三騎。
マルガもまた、ブラックジャガーの人獣へとその姿を変えた。
同時に――
岩肌が爆ぜるように、次々と弾け飛ぶ。瞬く間に衝撃はこちらへ近付き、身構えた豹の一体を弾け飛ばした。
全員が足を止め、散開した。
飛ばされた人豹騎士は、空中で体勢を立て直し、一回転して着地する。不意を衝かれても、そこは陸号獣隊。こんな程度で後れをとるものではないと襲った相手を見定めようとした直後――
「危ない!」
マルガの叫びも虚しく、直上から巨大な爪が寸暇の間もなく襲い、隊員の体を紙細工のように押し潰した。
山肌に、発破のような破砕音が谺する。
押し潰したものの正体が、ゆっくりと姿を見せた。
虎殺犬の鎧獣騎士。
モニカ=マーザドゥだ。
モニカは続けざま、人豹騎士となったマルガに向かって跳躍し、両手に翳した突戦鎚を視認出来ぬほどの速度で振るった。
しかしそこは、部隊の次席官。
流れるような体捌きを用い、紙一重で破壊爪の一撃を躱す。しかしそれは、モニカの意図通り。空振りかと思われた突戦鎚の一撃は、岩肌を猛烈に叩き付け、無数の石礫を周囲に飛散させた。人間ならば、大怪我を負う無数の石の弾丸。いくら陸号獣隊でも、その全てを躱しきる事は出来ず、体のあちこちに衝撃を受ける。だが、第二撃が即座に来る事は分かっていたため、マルガは金属棍の武器授器を構え、追撃に身構えた。
グシャリ。
音がした。
マルガへの攻撃。それは来なかった。
敵はマルガへ連撃をかけるに見せ、別の隊員の不意をついたのだ。
立て続けに殺された隊員達を見て、マルガの怒りが一瞬で沸点を超える。
全身の筋肉を怒張させ、牙を剥いて飛びかからんとしたその矢先――
「落ち着きなさい、マルガ」
穏やかな、だが鋭く手厳しいヴィクトリアの声が、マルガの挙動を制止させた。
ビクリ、と全身を打たせるように動きを止めるマルガ=ウェヌス。
確かにそうだ。
ここで激情に駆られては敵の思う壷。陸号獣隊はいかなる時でも、冷淡に任務に当たらねばならぬもの――。
隊長の声で、頭を瞬時に冷やすマルガ。頭に血が上ったのは、まだまだといったところだが、それをいち早く切り替えられるのは、彼女の特性でもあった。
二騎の陸号獣隊を瞬く間に亡きものにした虎殺犬の人獣騎士は、攻撃をかけなかったブラックジャガーを見て、いささか残念そうな口振りで呟く。
「なんだ。来ないの……?」
その声に、マルガは驚く。
――子供?
鎧獣騎士の場合、全身が纏われた状態のため、相手の年齢や容姿は分からない。だが、女性か男性かは分かる場合がある。
マルガなどはそうだ。
人獣でありながら、ふくよかな胸と、優美な腰回りが、明らかに女性である事を示しており、これは鎧獣そのものが、〝雌型〟であるからだった。
不思議な事に、男性は雄型。女性は雌型の方が相性が良く、人獣となった際も、男性はともかく、女性の場合は女性的なシルエットの人獣になる場合がほとんどだった。
だがマーザドゥの場合、全身が長い体毛に覆われているのと、騎士であるモニカが幼い容姿のため、また、非常に小柄な体格でもあるので、女性か男性かが、鎧獣騎士状態では判別出来ない。ましてや年齢などわかるはずもなく、声を耳にしたマルガは、予想のつかない襲撃者の正体に、慄然とならざるを得なかった。
「マルガ」
もう一度、主席官の声がする。
そうだ。闇の世界では、思いがけない敵と遭遇する事など珍しくない。ましてや相手は、あの灰堂騎士団。こちらの予想のつかない事など分かっているはずだ。
落ち着きを取り戻したようなブラックジャガーの姿を見て、モニカは肩透かしを食らった気になった。いつもなら、ここで相手は逆上し、一斉に襲ってくるはずなのに。
それをまとめて粉砕するのが、彼女の常道だった。
それもこれも、あの焦げ茶の髪をした女のせいか――。
こちらの思惑を見透かすように、あの女が一声かけて、動きを止めてしまったせいだ。
――あのオバさん、厄介。
忌々しい思いが胸に広がり、モニカは、まずは人間のままの、あの女を叩き潰す事を決意する。鎧化もせず、人間のまま、というのも、彼女の神経を逆撫でするようだ。




