第六章 第二話(4)『虎殺犬』
夏の陽気も、森深い沼地の周囲では、汗ばんだ湿気にしかならない。そのせいか、血の匂いを嗅ぎ付けたハエの群れが、死体に群がり出すのもあっという間だった。
濛と鼻をつく死臭混じりの草いきれと、じめじめとした水草の繁茂する沼の縁。そこに顔を突っ込む形で、女性の死体がうつ伏せに転がっている。死体の足元近くには、それを見つめる人々と鎧を着た獣達がいた。
上から見下ろす形で、人一倍背の高い白髭の老人が言う。
「それで、肝心の書簡とやらは?」
老人――ガエタノ・ガエッティと、横に立つ少女――モニカ・ナヴィの前で膝をつく銀製の目隠しの女が、懐をまさぐって一通の書状を出した。
ガエタノがそれに目を通す間、モニカは冷ややかに無言であった。
「なるほど。〝ゾイ・ネクタル〟の成分を、肆号獣隊が割り出し、その解毒薬を作ったと……。確かに重要な情報じゃな。無視は出来ぬ。じゃが、重要ではあるが……意味のない情報でもある」
銀製の板のようなもので目を覆われた女性、〝灰巫衆〟の女が、思わず顔をあげた。
「スヴェイン司祭が、あの女にバラしたのじゃから、ゾイ・ネクタルの全貌が明らかになるのは時間の問題じゃった。これが早かろうが遅かろうが、その事にさしたる意味はない」
「し……しかし、奴らの警護は並々ならぬものでした。こちらも相当の痛手を負いましたが、彼奴らの追撃もかなりのもの。こちらの仲間が、我々に救援を呼ばねば、今頃この書簡を奪う事は叶わなかったのも確か」
「灰巫衆の仲間が、〝大狼の孺子〟の見張りに付いているお前らに助けを呼んだ。そうしてまで奪った書面か」
「使徒様。まさかその書面は偽物という事ですか……?」
「いや。本物じゃろう。このサインはクンケルのもの。間違いない。して、その救援を請うた仲間は如何した?」
ガエタノ老人の問いに、灰巫衆の女は、挙動で指し示した。
沼に顔をつけたままの死体。彼女がそれであると。
「この者以外は、この森のどこかで」
「陸号獣隊の手にかかったか。成る程。では、〝大狼の孺子〟の今はどうなっておる?」
「別の者達が配置についております。依然、変わりはありませぬ」
「何もか?」
「はい。何も変化はございません」
「しかし、目を離したのは確かじゃな?」
「は……。その通りですが……、一晩限りの事。翌朝にはもう配置を終えております」
「じゃが、目を離した」
「は……」
繰り返し問う老人に、女は俯いて怯えた。叱責が飛んでくるだろうと覚悟していたからだ。だが、彼女の予想とは別に、ガエタノはしばらく何かを考えて、やがておもむろにモニカに視線を向けた。
「モニカよ。すまんが、お前の〝マーザドゥ〟で、大狼の孺子共が泊まった宿とその街を探ってくれんか? こやつも連れてな」
モニカは半開きにした大きな瞳を動かし、ガエタノを見る。
「ガエ爺はどうするの?」
「儂は、大狼の孺子共とその周囲を探ってみる。何も気付かなければ、そのままメギスティで落ち合えば良い」
「何かあるの?」
気怠そうな声。
見た目は黒いレース付きの衣服で覆われた、磁器人形のようだ。
「ちと、気になる事があっての。まぁ、お前さんの〝鼻〟で何もなければ、ただの取り越し苦労という事じゃ」
「いいわ。行ってあげる。アナタ、案内して」
モニカは抑揚のない死人の目で、灰巫衆の女に指示をした。そして、傍らに佇む黒褐色の巨犬に跨がる。
「おお、モニカ。ひとつ言っておく。くれぐれも無駄な殺生は控えろよ。無益な殺生なら仕方ないが、無駄に殺すのは出来ればやめておけ。何事もほどほどじゃ」
モニカは少しだけ不服そうな表情を見せたが、「分かった」と素直に頷いた。
ガエタノ老人の忠告もモニカの反応も異様な事この上ないが、それを不審がる人間は、ここにはいない。
女は跳躍して道案内を始め、モニカはその後を追った。ガエタノもまた、自身の鎧獣の首を撫でて移動を開始する。
「さて、老体にはひと仕事じゃて。頼むぞ〝ヘイズルン〟よ」
ガエタノの鎧獣が、この種特有の仕草で、鼻を鳴らして首を振った。
ジャイアントイランド。
体高五・九フィート(一・八メートル)、体長は九・八フィート(三メートル)もある、巨大な羚羊(カモシカ)の一種、つまりウシ科の仲間で、茶褐色の体毛と、捩じれた角が特徴的だ。
灰堂騎士団らしく、黒灰色の授器を全身に纏っているのもあって、悠然と歩く姿は、暗い森に表れた魔獣のようであった。
これほどの巨躯であれば、小柄な騎士であれば、鞍付きの授器にして、乗騎として使用する事も可能だろうが、ガエタノは六・五フィート(二メートル)をゆうに超す長身だ。大柄なために乗騎としては難しいらしく、荷馬のように傍らでしばらく歩くと、そこで立ち止まった。
そして一言
「白化」
と告げ、ジャイアントイランドをその身に纏った。
白煙が消え去ると共に、あるはずの人獣騎士は、その場から姿を消していた。
その小さな宿場町の入口より少し離れた手前の辺り。
草深さが残る森の入口に、奇妙な少女が忽然と姿を見せたのは、街中に朝市が立ち並びはじめた時刻であった。
いたるところにレースがあしらわれた黒い衣服に、黒い広がりのあるスカートは、作り物めいた雰囲気があり、愛らしいとも言えない事はなかった。だが、どちらかと言えば、夏らしからぬ暗鬱とした姿なうえに、無機質で血の気のない白い肌は、見る者を不安にさせる、不気味なものさえ感じられた。しかし、何より異様なのは、子供にも見紛う少女が跨がっている巨大な犬だった。黒灰色の鎧を身に帯びた姿は、紛れもなく鎧獣。
コートのように長い毛皮は、首周りでタテガミのように広がり、一見すると熊かライオンのようにも見える。その獰猛さと高い戦闘能力から、〝虎殺し〟の異名を持つ犬種。
チベタン・マスティフ。
珍しい、犬の鎧獣。
モニカ・ナヴィは、灰堂騎士団十三使徒の内、第十使徒。
数日前にはトゥールーズ公国で、ファウストと共に戦闘に加わり、今は同じ十三使徒の第七使徒ガエタノと共に、遷宮の警護のため、メギスティ黒灰院に向かっている途中であった。
以前、彼女は、崇拝にも等しい思慕を抱く第四使徒のファウストと共に、ホーラーの元に向かうイーリオを追跡した事があり、その際にイーリオと連れのシャルロッタの〝匂い〟は記憶していた。
今は鎧化してないので、〝何となく〟しか感知できないが、人獣となれば彼らの痕跡はまざまざと感じとれるだろう。
一般に、鎧獣騎士となれば、超人的な身体機能と、その動物の持つ感覚や人を超えた能力まで扱えるようになると言われているが、正確に言えば、中の人間にそれらの能力が備わるわけではない。
勿論、人智を超えた動きや怪力を持つわけだから、少なからず中の駆り手にも物理的・肉体的な作用はある。これを〝身体強化〟と呼び、鎧獣の七性能としても広く知られていた。
だが、仮にではあるが、本当の意味で動物の〝力〟を我が物とするには、本物の人獣、文字通り怪物に姿を変えてしまわなければならない。
無論、それはお伽噺の世界であり、鎧獣、及び鎧獣騎士の最大の利点は、〝人のまま〟で動物の能力と超人的な力を発揮できる点にあった。強引な言い方をすれば、鎧化し、人型となった鎧獣とは、とてつもなく強力で高性能な補助器具だとも言えた。
では、五感はどうだろう。
例えば犬の嗅覚は、人間の一〇〇〇倍とも一億倍とも言われているが、鎧獣騎士となったからといって、当然そんな嗅覚が身に付くわけではない。装着者である騎士は、犬を超える嗅覚を〝感じとって〟いるような気になっているが、実際はそうでない事が、幾人かの錬獣術師達の研究で分かっている。
自分の一億倍の嗅覚など、鼻が良くなったなどという次元ではない。匂いが層を成して感知でき、時間や感情さえも匂いで感じとれるほど。いわば、匂いが形となって〝視える〟領域だと言える。そんな知覚世界と感覚共有して、人間の脳が処理に耐えきれるわけはなく、実際は、嗅覚を、鎧獣の変容した〝脳〟で一度変換し、それを人間の感知可能な視覚や嗅覚情報として、中の騎士に還元しているのだ。つまり、高次元な五感の知覚を、人間が処理出来る情報にまで変換しているというわけだ。
数百年も後の時代の言い方に例えるならば、表示情報として〝視せて〟いるとも言えた。
やがて、これに気付いたある錬獣術師が、この機能を環重空間と名付け、ある画期的な鎧獣を作り出す事になるのだが、それはまた別の話……。
さて、モニカの場合、彼女は生まれた時からマーザドゥと共に過ごし、それこそ自分の半身とでも言える程の長い時間を互いに共有してきた。
ドグの鋭い〝勘〟もそうであるが、長期間、特定の鎧獣と感覚を共有していると、やがて自分にも同じ感覚に近いモノが身に付く場合がある。
感覚を変換している鎧獣騎士だから、中の人間が纏ってない時にも、その作用があるのは奇妙な事であり、長らく学会の場では、それらはただの錯覚だと無視されてきたが、現実には存在する。
この謎も、後年になれば解明されていく事になるが、今はまだ、鎧獣騎士の未知の領域として、モニカの場合も愛獣との絆の証として、鋭くなった己の知覚を研ぎすませていた。
わずか四・六フィート(約一四〇センチ)ほどの小作りな体を、自分と同程度はありそうな巨犬の前に立たせ、呟くように鎧獣騎士への文言を発した。
「白化」
虎殺犬の額に輝く、神秘の結石、神之眼をはじめ、全身から白煙が勢いよく立ち昇り、そのまま少女を包み込むように多い被さる。白煙は渦を巻いて局地的ない勢いで吹き続けると、一瞬の間に、霧のように消え去った。
表れたのは、狗頭人身の人獣騎士。
右手には、背丈を超える、大柄な戦鎚を持ち、その片方の先端は、鳥のクチバシのように湾曲しながら鋭く尖っていた。
突戦鎚の武器授器。
銘を〝イナンナ〟と言った。
巨大な破壊武具を持つ、少女が鎧った黒犬の魔騎士は、その姿になると、後ろに向けて声を発した。
「アナタはそこで控えてて」
「は」
森の木陰から、葉ずれにも似た返答が聞こえる。
モニカは声を待たず、自身の感覚を茫漠と広げていった。
犬の嗅覚は、狼や熊に劣ると言われている。だが、このマーザドゥの嗅覚は、熊や狼の鎧獣騎士のそれを遥かに凌ぐ精度があった。
遠く離れた街の外にいながら、街全体の匂いが、彼女の知覚に認識されていく。その匂いを選り分けるように、一筋の〝標〟を辿っていった。
やがて匂いの痕跡が、はっきりと〝視えて〟くる。
イーリオの匂い。シャルロッタの匂い。
層を成した痕跡から、彼らの周囲にも幾人かの匂いがあった。一人は若い男。このきつい悪臭は、香水か何かをふりかけているのだろう。顔を顰めて他を〝視る〟。あとは若い女。この中では一番の年上だろう。もう一人、イーリオ達と同じ年齢の男もいる。
これらの匂いは同じ〝層〟にいた。おそらく旅の同行者。灰巫衆の報告にあった人数とも合っている。
それ以外は、街の住人達を含めた様々な匂いが跡を残していた。既に朝市が立とうとしているのだから、匂いは複雑に混じり合いはじめている。モニカはそれらを濾過するように、時間の層で匂いを選別した。
イーリオ達の動きを、匂いで追跡する。
感知出来るのは早朝からだ。昨夜の匂いも分かるには分かるが、動向まで判別できるほどではない。
だが幸い、かなり朝の早い時間に、イーリオ達は出立したのだろう。まだ匂いは感じとれる程に残留していた。
――ん?
不審な匂いの動きがある。僅かな不自然さだが、イーリオ達の匂いが、一カ所で動いていない。大きな匂いの塊。これは馬。鉄に木材――おそらく馬車。馬車の手前で匂いが停滞していた。僅かに粒子が滞留しているようだ。揉めたのか。それにしては奇妙だ。それに、彼らの匂いの周り。微かにだが、別の匂いの残滓がある。
更に妙なのは、その別の匂いは、何の兆しもなく突然にそこに表れ、あるかないかの微かさのまま、再び一瞬で途切れている。
この動き方は、まるで鳥のようだ。空から突然飛来して、すぐさま飛び立つ鳥は、マーザドゥでさえ知覚し辛い。だが、鳥ではない。鳥類特有の匂いが形成されておらず、しかも匂いの数はどうやら二つあるようだ。
それにこの微かな匂い。どこか人為的なものを感じる。モニカはこの匂いに集中し、街全体を走査するように、匂いの全景で探索した。
匂いは消えた直後、宿屋の屋根にあった。やはり鳥が飛んで来ただけか。思い過ごしかと再びイーリオ達の匂いを追跡しようとした時――。
時間の層に割って入るように、二対の匂い。
動物でも鳥でもない。無臭に近い、この独特の匂いはネクタル特有のもの――
――鎧獣!
モニカは人獣の中で、人知れず微笑んだ。




