第六章 第一話(3)『鎧獣騎士戦』
メルヴィグ王国北西の更に向こう。ヴォロミティ山脈を越えたトゥールーズ公国領内にあるのがパンノニア平原。
この大平原に闘争の嵐が吹き荒れていた。
短槍が構えられ、突撃命令がいつくるかと、一方の農兵達は身を固くしている。
鎧のこすれ合う音と大地を蹴立てる足踏みを鳴らしながら、三〇〇ほどの敵兵がこちらに突進をかけてくる。こちらは五〇〇。数ではこちらが有利だ。だがこちらは素人集団。正規軍相手にどれほど善戦出来るかは、彼らも分からない。
それに、彼らはあくまで前座だ。
「まだだぞ! まだ、引き着けろ!」
馬上に乗った指揮官が、剣を抜き放ち、上擦った声をあげて待機を命じた。
農兵達の目が血走っている。
戦場であるからというより、指揮官の緊迫ぶりも、尋常ではなかった。まるで初陣のように、息も荒く、動悸の高鳴りが太鼓のように響いて来そうな表情である。
彼らは知らないが、突撃をかけてきた兵士達も、同じように青ざめた顔色をしていた。いや、知らなくとも分かっている。自分達が反乱を起こした身であるからなどという事は関係ない。戦場に立つ者は皆、このような恐怖を抱きつつ戦うのだ。
戦への恐怖ではない。
いくら歴戦を生き抜いた者でも、この焦燥感は変わらないだろう。
ただの兵卒である限り――。
「突撃!」
指揮官が剣を振り下ろす。
叫び声でくじけそうになる心を奮い立たせるように、一斉に駆け出す農民兵達。
衝突と同時に、血飛沫が巻き起こり、悲鳴と怒号が戦場を埋め尽くした。血の匂いに酔ったように、互いががむしゃらに攻撃をかける。
こちらは農民が兵士になっただけとはいえ、装備は正規軍とさして変わらなかった。
軽装備の鎖帷子に、急所を守る僅かなプレート。中にはそれすらも身に着けていない者すらいた。衣服も同然の格好だから、めったやたらに死傷者がでていく。
だがそれで良かった。
ここで生き残れば、あとは全力で撤退するのみ。その際に重い鎧など着込んでいれば、たちまち〝敵〟の餌食になってしまう。無論、長い槍も、重い剣もいらない。こんなものは、ただの儀式のようなものでしかなかった。
やがて反乱兵達の強みか、勢いに気圧されるように、駆り出された正規軍が、農民兵に、徐々に押し込められてしまう。右側に矢が射込まれ、崩れかけた所から、徐々に綻びが生まれてきていた。
右翼の崩壊につられ、全体までもがたちまち崩れかかる正規軍。指揮官は必死に檄を飛ばして壊滅を防ごうとするが、既に正規軍の恐怖は、限界点を超えていた。
「何だ? もう出番か?」
正規軍の後方で控えていた一団の指揮官が呟いた。
指揮官の前方が、潰走に近い形になっている。
「やれやれ、もうちょっともたせてくれよ。なあ?」
指揮官が彼の後ろに控える集団に声をかけると、彼らは下卑た笑い声をあげた。
同時に、全員が身構える。
「総員、準備しろ!」
集団に人間と同数の獣が、体を起こした。
勢いづいた農兵達が、一気に攻め立て続けていると、ここで農兵の指揮官が、一六〇ヤード(約一〇〇メートル)ほど先で、大量の噴煙が巻き起こるのに気付いた。
白い煙。
伝令のものではなかった。
興奮状態が、たちまち血の気のひいたものに変わる。
「全軍、反転しろ!」
恐怖に声が裏返った、狂躁状態の指揮官の叫びに、味方の軍も一斉に気付く。
勢いづいていた味方は、瞬時に恐慌をきたし、我先にと駆け出した。
自軍の側へと。
あれほどの有利な状態であったにも関わらず、である。
その数瞬後――
全力で馬に鞭を振るい、逃げ出した指揮官の首が――空中を一回転した。
首無しになった指揮官の体が、馬上で数歩揺られた後に地面に落ちると、農兵の混乱は頂点に達した。
同時に、土煙と悲鳴が重なる。
血飛沫が、先ほどの比ではない勢いで巻き起こり、旋風のように人間の体が引き千切られ、宙を舞う。
戦場を駆け巡る、戦いの支配者――
「鎧獣騎士だぁッッ!」
誰となく叫び、恐怖が五〇〇人を染め上げた。
抵抗を試みる勇ある者もいたが、固いゴムのような皮膚に阻まれ、人獣の体には傷一つつかない。更に、人間が一撃を加える――それも無駄な一撃を――その間に、人獣の騎士達は、数人の体を引き裂いていた。
シマハイエナやカッショクハイエナ、ドールシープなどが十数騎ほど。それでも多いぐらいだとこの部隊の鎧獣騎士の隊長は思っていた。ただの人間相手なら、数騎で充分だった。
まるで羽虫の群れを追い払うように、数える間に数十人単位で人が死んでいく。
だがそれでも、鎧獣騎士の部隊に油断はなかった。強者は弱者が相手でも油断しないの例えではない。人間を追い払うなど、ただの予行演習でしかなかったからだ。
農兵の先頭の部隊が壊滅するのを見て、後方に三分の一ほど残した反乱兵の指揮官、この軍の司令官が焦りを滲ませて叫んだ。
「まだか? まだなのか?」
傍らの兵も青ざめた顔で即答する。
「まだです! まだ連絡は――!」
そう言ってる内に、正規軍の鎧獣騎士達が、こちらに迫ってきていた。
別の部下が悲鳴に近い声で懇願する。
「もう保ちません! このままでは我々も全滅させられます!」
「わかっとる!」
「ご決断を!」
「ここで撤退すれば、また散り散りになるぞ! それでは蜂起が無駄になる!」
「しかし!」
司令官は逃げ出したくなる気持ちを精一杯こらえ、固く目を閉じた。
「信じろ! 信じるのだ!」
司令官の頑な判断に、全員が絶望的な思いで唖然となった。もう駄目だ。あの人獣の牙と爪と剣で、我々は死ぬんだ――と。
そこへ、どよめきが響いた。
間に合わなかったのかと、目を開けた司令官が見たのは、数体の黒い背中。
人の背丈を遥かに超えた、巨躯。
味方の鎧獣騎士だった。
だが、三騎。
黒灰色の鎧を身に纏い、種別も異なる三騎の人獣が、反乱軍の先端で佇立していた。
「来てくれた……」
司令官の横で泣きそうな声で呟く誰か。しかし司令官は気付く。
「これだけか? 来てくれたのはこれだけなのか?」
咄嗟に全員が見回すも、他に人獣は見当たらない。たちまち恐怖の色が全軍に伝染する。
しかし、前方に立つ三騎は、そんな事など知る由もなく、迫り来る敵人獣を見定めていた。
中央に立つのは、黒き猛獣。
その、ファウストが言った。
「ジョヴァンナ、モニカ、お前達は手を出すな。あんな程度、私一人で片付ける」
黒灰色の授器に、黒毛に覆われた姿。うっすらと斑点は見えるが、見た目はまるで黒いライオンのようにしか見えない。ライオンとブラックジャガーの間の子、ブラックジャングリオンの鎧獣〝ノイズヘッグ〟。
両脇にいるのは、長い体毛に全身が覆われた犬の人獣と、真っ直ぐに長く伸びたサーベルのような角が特徴の、灰色のウシ科動物、ゲムズボックの人獣である。
犬科の方はモニカ、駆るのはチベタン・マスティフの〝マーザドゥ〟。
ゲムズボックは、ウシ科と言っても細身の部類である。それを駆るのがジョヴァンナだった。
「いいのかい、ファウスト? 俺はラクさせてもらえて助かるケドさぁ?」
「構わん」
正直、今ここにいる事自体が屈辱のファウストにとっては、ただの八つ当たりでしかなかった。
「ファウスト様……」
粘性のある声で、心配そうに呟くモニカ。だが彼女の思いなどに気付く間もなく、ノイズヘッグは大地を蹴った。瞬間、大地が爆音と共に弾け、後方に控える兵士達に、細かな石塊が幾粒も飛来した。
突如姿を見せた三騎の鎧獣騎士に、正規軍の人獣部隊は殺意の方向を変えた。
――あれが噂に聞く、反乱軍の助っ人か。
隊長はブチハイエナの鎧獣騎士。
死肉漁りなどと忌み嫌う地方もあるハイエナ類だが、実際は極めて有能な鎧獣である。
動物としても、その見た目とは裏腹に、スタミナは犬科並みで、咬合力は陸上の肉食動物でもトップクラス。同サイズにすれば、どの種よりも強力な顎の力を持つ。また、クランと呼ばれる集団で行動するので、群れでの行動も得意とする。そのため、個としても集団としても運用に秀でた鎧獣として、多くの騎士に需要があった。
例え黒豹だろうとライオンだろうと、十騎以上を相手に何が出来るか。ましてや自分はトゥールーズ聖剣騎士団の第一大隊小隊長だ。油断をせねば、臆する事など何もない――。
隊長はそう肚をくくり、握った鎌状の剣に力を込めた。
眼前に迫る黒き人獣。
陽光に白刃が煌めく。
瞬間――
天と地が反転した。
視界が高速で回転し、そのまま意識を失う。永遠に――。
一瞬で正規軍騎士団の隊長の首が刎ねられた。
だがそれに怯む事なく、周囲から数騎の鎧獣騎士達が、ノイズヘッグに肉迫する。
速度も間合いも申し分ない。逃げ場など皆無。
だが剣閃は、光の尾をひいて弾けた。
ある者は手首を斬られ、ある者は両足を両断。別の者は剣ごと断ち斬られて深手を負う。
しかも、ノイズヘッグの剣には刃こぼれ一つなく、白刃はそれ自体が輝きを放つように煌めいている。
一息の間に、三分の一近い鎧獣騎士が撃破されるのを見て、その内の何騎かは浮き足立ち、逃げ出す者もいた。またある者は、ならばと前方の二騎の方へと駆けて行く。これを見逃すファウストではないが、まだ立ち向かう者もいる。ノイズヘッグの僅かな隙を衝き、二騎のハイエナが、モニカとジョヴァンナの方へと殺到した。
モニカが不愉快そうに呟いた。
「ファウスト様の手を煩わせないで……」
そして一瞬で姿を消す。
横ですっかりくつろいでいたゲムズボックのジョヴァンナは、これを見て思わず慌てふためく。
「お、おいおい、モニカ。俺に丸投げかよ」
ハイエナの人獣は、もう寸前だ。
一騎は剣で、もう一騎は爪で、農兵の軍に飛びかかろうとした。
だが、二騎の殺意は、そこで途切れた。
悲鳴をあげる兵の目の前で、パッと血花が咲く。
そのまま、細切れの肉塊となったハイエナ二騎が、地面と兵に降り注いだ。
いつの間に動いていたのか。兵の前方で、軽く首を捻るゲムズボックの人獣。
「やれやれ」
と呟き、再びくつろいだ体勢に戻った。
ほぼ全ての敵人獣が死体と化したが、一騎のみ、かろうじて戦場を離脱したドールシープがいた。全速で地面を跳ね飛び、息を切らせながら、必死で逃亡した。
いくらあの黒い猛獣の騎士が速かろうと、ドールシープのスタミナに追いつくものではない。これだけ距離を離せば大丈夫だと、中の騎士は安堵した。
後ろを振り返る。
戦場はかなり後方だ。もう一息逃げれば、何とか命は助かるだろう。騎士は胸を撫で下ろした。
だが――
頭上からめり込む破壊の塊を、彼は意識する事もなく――
圧し潰された。
爆発のような土煙が巻き上がる。
走った格好のまま、無惨に圧潰したドールシープの人獣は、既に人獣の形すらしていない。
傍らに、ドールシープよりひと回りほど小柄な影。――ひと回り、と言っても、人間に比べると巨大なのだが。
影は、血に濡れた巨大な爪を、肉塊となった人獣から引き抜くと、構えるようにそれを凶々しく地面に突き立てる。
ウォーピック。
片方が鳥のクチバシのように鋭く尖った、戦鎚の一種。
不釣り合いにも見えるほど巨大な、自身の背丈すら超えるそれを軽々と振り回したのは、姿を消した巨犬の人獣騎士――モニカ=マーザドゥだった。
モニカが戻ると、戦場は喜びの歓声に包まれた。
第一陣は正規軍の鎧獣騎士に壊滅させられたものの、助っ人で表れた三騎の味方鎧獣騎士により、見事に大勝利したのだから、それも当然の事だろう。
しかし、勝ち戦の高揚に湧く戦場を顧みもせず、鎧化を解いたファウストら三名は、無言でその場を立ち去ろうとした。すると、司令官にあたる反乱の首謀者が、慌てたように追いすがってきた。
「お待ちを! ナーデ教団の騎士様!」
振り返る三人。
「貴方がたのお蔭で、我々は正規軍を、それに騎士団の鎧獣騎士すら打ち破る事が出来ました! まさに教団は、我々の救い主です。どうか今日は、このままお留まりくださり、勝利の歓待をお受け下されませ」
興奮気味にまくしたてる男。一瞬だが、ファウストは不快げに顔を歪めた。無論、誰一人その事には気付いていない。その一方で、虚ろな瞳のモニカはまるで無反応だし、傍らのジョヴァンナはと言えば、随行してきた女性兵に近寄って、色目を使って肩に手を回している。
興奮する男とはまるで対照的な無関心さ。
己の冷ややかな心の内は露ほども見せず、努めて事務的にファウストが答えた。
「お言葉は有り難く存じます。なれど、我々は女神オプスに仕える身。別の地で救いの手を求める事あらば、また行かねばなりません。これにて失礼させていただきます」
興ざめしてもおかしくないファウストの返答だったが、意外にも農兵達は感銘の声を上げた。
何と謙虚なる事よ――、神の使徒とは真実であった――、と。
それすら一顧だにせず、ファウストは一礼して踵を返す。
モニカがジョヴァンナを呼び、三名は足早にその地を後にした。




