第六章 第一話(1)『港風』
大陸歴一〇九三年は、特筆すべき事件があったわけではない事になっている。史実にも大きな事柄は何も記されていないし、ごくありふれた一年でしかなかった。だが、個々の人に至るまでもが必ずしも記録と同じであるとは限らない。
イーリオ・ヴェクセルバルグ、シャルロッタ、ドグ、レレケの四名にとっては、激動の年であったし、彼らに関わった人物、または周辺にいた人々にとっても、忘れられ得ぬ年になった。
その発端が、ロワール城に表れた男の齎した話であった。
メルヴィグ王国一の港湾都市プットガルデン。
そこに聳えるロワール城に、突如姿を見せた灰堂騎士団十三使徒デヴリムという男が告げた内容は、にわかには信じられるようなものではなかった。
イーリオ達のみならず、覇獣騎士団の団員や百獣王までいる、そのただ中に、臆する事なく姿を見せた不気味なその男は、よほどの腕前をもった人物なのだろう。実際、どこからどうやって姿を表したのか、ごく僅かな騎士を除き、ほとんど誰もが気配にすら気付かなかったのである。それだけに不気味であったし、反面、危地とも呼べる場に平然と姿をさらす行為から考えて、彼の語る内容が安っぽい虚偽ではないという事の証左であるとも言えた。
そのデヴリムが告げたのは、レレケからの伝言だった。
レレケこと、レナーテ・フォッケンシュタイナーは、現在、黒母教の総本山、メギスティ黒灰院にいて、彼女の父と共に研究に勤しんでいるという。
言伝とは、研究への協力のため、イーリオと彼の鎧獣大狼の〝ザイロウ〟、それにシャルロッタに本山に来てもらいたいというものであった。
それがどういう意味なのか。そもそもレレケは黒母教に帰依したとでもいうのか。それに、研究とは何なのか。それらをデヴリムに尋ねても、詳しくは来てもらわねばわからないとの事。
無論、これまでの、十三使徒らとの戦闘の経緯はわかっている。罠であるかと勘ぐるのも当然の事だろう。だが、今回は、彼ら灰堂騎士団の大巫女であるヘスティアからも認可を得た命であり、これに反しようとする者は、黒母教の中には誰一人いるはずがない。無論、灰堂騎士団らもこれに同じで、イーリオらを害しようというつもりはさらさらないと、デヴリムは言った。
もし、この話を受けて頂けるとあれば、道中の安全は十三使徒のデヴリム自らが保証するとまで言ったのだ。
尚、招きに応じる条件として、覇獣騎士団の人間は、同行を許可しないとの事。
そしてそれらを告げた後、デヴリムは霞のように姿を消した。
姿を見せた時同様の手練で。
――果たしてどうすべきか。
いきなりの話。それをそのまま受けていいのか。どう考えても、罠以外にありえない申し出だ。
ドグは躊躇う事なく、俺達だけで行こうぜと、鼻息も荒く言ったが、イーリオは迷っていた。
罠かどうかも危ぶまれるが、第一に、シャルロッタも同行させるというのが気がかりだ。今まで、彼女も旅を共にしてきたが、彼女はあくまで非戦闘員であり、ザイロウの力を使える今、彼女が戦闘に常に必要というわけではない。
第二に、カイゼルン師匠は来ないという事。話を聞き、カイゼルンは「オレ様はカイに付いてレーヴェンラントに行く」と告げた。リッキーも同様にすると言う。別に薄情というのではない。リッキーにしてみれば、何より優先すべきは本来の職務であり、今は騎士団の事や外敵への対応が急務だ。それに、覇獣騎士団は来てはいけないと言われては、どうしようもない。カイゼルンに至っては、見も知らぬ人間に協力する義理はないという事だろう。
罠と知って、自分達だけでそこに飛び込むか。
ひとしきり悩んで、今はプットガルデンの港の入口にある、聖ニコラウス塔前の入口に来ていた。
メルヴィグ王国一の港湾都市、プットガルデンの港の入口には、そこを挟む形で聳えている聖ニコラウス塔とシェーヌ塔が建っている。
ここに来たのは、出立の準備で慌ただしいロワール城から、一旦離れた方がいいかもという気遣い故だが、わざわざ見晴らしの良い聖ニコラウス塔を選んだのは、度重なる敵の襲撃などを警戒しての事でもあった。
そのイーリオの後を、シャルロッタとドグも付いて来ている。
塔の手前で潮風にその身を打たれながら、イーリオは決断に悩んでいた。
広大な波間が茫漠と広がり、まるで水平線と共に、思考が散じていくかのようにも感じられ、尚の事沈思してしまう。
「おい、悩む必要ねえだろ?レレケを助けに行くしかねえじゃねえか」
ドグが悪態混じりの口振りで促すが、イーリオは生返事しかしない。
「それとも何か? おめぇ、レレケの事が心配じゃねえのかよ?」
「そんなわけないだろう。僕だって放っとくわけにはいかないよ。ただ……」
「ただ?」
「僕ら二人だけで、どうにかなるとは思えない。相手は灰堂騎士団だよ? 僕じゃあまるで歯が立たなかった、あのファウスト王子だっているはずだ。そんなところに行っても、助け出すどころか捕まってしまうのがオチだよ。勝算もないままに飛び込むなんて――」
「何だよ? 馬鹿のやる事だってか?」
「いや、そうは言わないけどさ……」
冷静、というよりも気弱にしか聞こえないイーリオの発言に、ドグは呆れた溜め息をついた。海と空の間に羽ばたくウミネコの声までが、嘲っているかのようだ。
「おめえよ、しっかりしろよ。おめえはあの〝百獣王〟に弟子入りしたんだろ? 百獣王に認められたっつう事だろ? だったらもっと自信持てよ」
「昨日の今だよ? 見ただろ? リッキーさんと僕の二人掛かりでも、ファウスト王子には、まるで敵わなかったんだ。自信を持ってどうにかなる相手じゃない。僕じゃあまだ力不足だ……」
「俺もいるだろうが。俺だってなぁ、おめえと別れてる間、リッキーの兄貴から獣騎術を習って、ウデを上げてんだぜ。それに真っ向からが無理でも、忍び込むのは俺の得意分野だぜ。二人でやりゃあ、何とかなるって」
「じゃあ、シャルロッタはどうするのさ? 彼女を守れる人間はいないよ?」
「う……そりゃあ……。いや、そもそもだ、まだ戦いになるって決まったわけじゃねえだろ。あくまで招待なんだからよ。俺達はそのついでに、チラっとレレケを迎えてやるだけだぜ」
「そんな、都合良くいくかな……」
どう考えても無謀だ。ドグの気持ちも痛い程わかるが、二人でどうこう出来るような問題ではない。
「愚かだなぁ。全く愚かだ」
明後日の方向から、嘲りの声が届いた。
声の方向には、褐色の肌の長身の男。
クリスティオだ。
彼はイーリオ同様、百獣王カイゼルンに弟子入りした、アクティウム王国の第三王子である。彼の後ろに控えるのは、付き人のミケーラ女史であった。
まるでイーリオ達の後を尾けてきたような格好だが、そんな事は気にもしないで、ゆっくりと三人に近寄ってくる。
「実力もなければ知恵もないお子様が、いくら頭を抱えても、出るのは唸り声だけだぞ」
ドグの顔が引き攣り「何だおめえ?」と白い目で睨む。
「クリスティオさん。何故、ここに?」
「さん、じゃない。殿下と呼べ。兄弟子とはいえ、俺は王族だぞ」
イーリオの言を正すと、傍らでミケーラがボソリと呟いた。
「以前、イーリオ殿に、さん付けでいいと仰ったのは若様ですが」
ジロリと睨むクリスティオの視線を、無表情で受け流す付き人。
「――その、何だ、レレケというのは、ホーラー卿の弟子でなかなかな錬獣術師というじゃないか」
「はぁ」
「しかもなかなかな美形という事も聞いたぞ」
「誰から」
「カイ殿だ」
カイとは、ロワール城の主、漆号獣隊の主席官カイ・アレクサンドル王子の事である。
「美女を悪の巣窟に囚われたままにしておくというのは、美を愛でる俺としては捨て置けんよなぁ」
「は?」
「だからだ、分かるだろ?」
「え? 何が?」
「いや、分かるだろ?! お前達だけではどうにもならんと悩んでるんだろ? そして俺は、美女を救う事を生きる使命としている、美貌の王子だ」
自分で自分を美貌と言うあたり、痛々しいものを感じてしまうが、実際、微笑むだけで街行く女性が顔を赤らめてうっとりするほど精悍な美形なのだから、質が悪い。
「しかも俺は、覇獣騎士団などではない。まるで無関係の人間だ」
「ええ。無関係ですよね。だから何で無関係のクリスティオさ……殿下が、語ってるんですか?」
察しの悪いイーリオの答えに、段々と苛立ちを募らせるクリスティオ。
「だから、俺が手助けしてやろうと言ってるんだ! お前達の」
「え? 何で?」
心底理解出来ないという顔で、イーリオはクリスティオの顔を見る。
「愚かな弟弟子を助けてやろうと、偉大な兄弟子が言ってるんだぞ。まずは何より先に、礼の一つも言うのがスジだろう!」
「いや、礼も何も――クリスティオ殿下は、そういう人じゃないでしょう。何で僕を助けるなんて言ってるんですか?」
「む……」
純粋な疑問と言わんばかりの目。
それもそうだ。カイゼルン師と共に旅をした幾ばくかの月日の中で、このクリスティオ王子がいかなる人物か、イーリオはもうすっかり理解している。
才能溢れ、知識もあり、非の打ち所のない素養もある人物。その反面、傲岸で気位は高く、ほとんどの人間を見下して生きているような無礼な性格。人が彼に奉仕するのは当然だが、彼が誰かに何かを為すなど、及ぶべくもない性向の持ち主なのだ。
そんな男が、弟弟子と言っても、イーリオのために手を貸すだなどと、到底信じれるものではなかった。
「若様」
横合いから無表情の目で、お付きのミケーラが何かを促した。
視線の圧にたじろぐように、クリスティオは憮然とした表情を浮かべ、彼にしては珍しく、歯に物が挟まったかのような言い方になる。
「その、何だ、カイゼルン師に言われたのだ」
「え?」
「お前を手助けしろと。無論、俺は反対した。何故この俺が、出来損ないの平民を手助けせねばいかんのかと。そもそも俺は、百獣王とは如何なる実力者か、それを知りたくて同行しているだけの人間だ。それを何の義理もない他国の事情や平民に何故、この俺が力を貸さねばならん? 俺は――」
「若様」
再びミケーラが嗜める。
むぐ、とそのまま口ごもるクリスティオ。
この二人の主従も奇妙で、他人を足下に見るようなこの王子が、何故かただの付き人には逆らえない時がままある。普段はひたすら従順なだけのミケーラなのだが、ここぞという時は、彼女が手綱を握っているようですらある。しかも、ミケーラとてかなりの美形の部類なのに、不思議とクリスティオは、この付き人には全く手を出していないようであった。別に年上が守備範囲外だからというのではないらしい。これは、イーリオも知らぬ、奇妙な主従の間柄であるようだった。
「……ともかくだ。カイゼルン師が言うには、俺の実家の関係もある。そういう意味でも、お前に助力しておくべきだと、こういう訳だ」
「実家? アクティウムの王家の事ですか?」
「いいえ、イーリオ殿。若様が仰ってるのは、若様の母方のご実家、フェルディナンド家の事でございます。フェルディナンドは大陸随一の銀行家にして海運業者にあらせられ、アクティウム王国のみならず、大陸の中の多くの貴族や王家、国に至るまで融資をしておられるのです。そしてその中には、かのナーデ教団もございます」
ミケーラの説明に、イーリオ達は目を丸くする。
では、クリスティオは黒母教と繋がりがあるというのか?
それを察したのか、ミケーラは続けて説明をした。
「貴方がたが疑問に思ってるような関係性は、若様自身にはございません。けれど、フェルディナンドの方々まではどうだか分かりかねます。そういうのもあって、若様がイーリオ殿にご協力するのは、色々都合が良かろうというのがカイゼルン公のお言葉でございました」
「都合が良いって……悪いの間違いじゃないの……?」
「さて、如何でしょうか」
クリスティオの立場からすれば、黒母教だろうが灰堂騎士団だろうが関係ない。
とは言え、ナーデ教団の資金源としてあるのがフェルディナンド家なのだから、ここでクリスティオがナーデ教団の下部組織である灰堂騎士団と対立を明確にすれば、一見ややこしい事態になるように思える。その一方で、メルヴィグ王国には大きな〝貸し〟が作れるかもしれない。それに、フェルディナンド家だけに限って言えば、イーリオ達に味方しておけば、メルヴィグと同盟関係にあるアクティウムの本国にも〝貸し〟を作れる事にもなる。また、クリスティオの立場上、仮にナーデ教団から問いつめられる事があっても、これは王子の独断で行ったという言い訳も出来る。通常であれば、一国の王族が助力すれば、それは外交の延長線上になるのだが、名にしおう〝放蕩王子〟なだけに、王家とは無関係な勝手な行動という無茶な言い訳も出来なくもない、という訳だ。ある意味トカゲの尻尾切りとも言えるが、この場合は無頼のゆえの便利さと言うべきだろう。
「俺の家の事はもういい。例え誰が相手だろうと、この俺が百獣王以外に後れをとる事など有り得ぬ。アクティウム王国の最強騎士だからな」
長身なだけに、見下した態度はそのまま他人を睥睨する形になる。
だが、最強かどうかはともかく、それも当然と思える実力者であるのは間違いなかった。それもイーリオは共に過ごした修行の日々で痛感していた。
剣の腕や武術の心得のみならず、獣騎術にも才能というのは確かにあった。それでいうなら、クリスティオは紛れもない天才だろう。
「これでグダグダと悩む必要もあるまい。この俺がお前の手助けをしてやろうというからには、だ」
確かに、これ以上はない助っ人だ。
それでも為人への不信感が拭えぬイーリオは、胡乱げな眼差しをそらして、塔に打ちつける潮騒を面白そうに凝と見つめるシャルロッタに視線を移した。
「シャルロッタ」
「ん?」
記憶は未だに定かでなく、幼児そのままの無垢な瞳。
彼女にも危険な場所に赴いてもらう事になる。ゴート帝国の地下で眠っていたという来歴や、彼女の不思議な能力はあるが、だからといって危険な場所に向く人間ではない。ただのか弱い少女なのだ。
今更ではあるが、それが気がかりでもあった。
「君は――」
「一緒に行こう」
先にシャルロッタが言った。跳ねるようにイーリオに体を寄せ、他意もなければ邪気もなく微笑む。その仕草に、ドグもクリスティオも表情を歪めていた事は二人とも気付いていない。
「レレケの事、気になるもん。助けてあげたいよ」
「もん、ね……」
「イーリオも助けたいでしょ」
無邪気な笑顔が間近に迫る。
「……だね」
フッと微笑む。諦めではなく、納得したような清々しさで。
結局、最後の背中を押したのは、彼女だった。
クリスティオとドグに向き直るイーリオ。
「お願いします、二人とも」
一人はやれやれと、もう一人は鼻で笑うような格好で、イーリオの言葉を聞き入れた。両名の青年とも、弟の願いを聞き入れる兄のような心持ちだった事を、心の奥底で感じとっていた。




