第五章 第九話(終)『灰色虎』
丁度その時、ハーラルの後を追いかけて来たイーリオが、ザイロウを伴って、この場に辿り着いた。ロワール城での事、ハーラルの叱咤がなければカイ王子は復隊すると頷かなかったろうと、一言礼を述べに来たのだ。
だが感謝の言葉を出すより前に、この異様な状況に、そのまま釘付けになった。
灰色の体毛をした人虎が佇立し、その前には三〇人近い騎士とアムールトラの鎧獣が傅いている。
傍らには、原牛の人牛騎士。
――あれは……? ティンガル・ザ・コーネ?
問わずとも、イーリオは直感した。姿を変えたあの鎧獣騎士が、何を意味しているのかも。
証相変。
錬獣術の禁忌。
イーリオの師、百獣王カイゼルンの騎獣、〝ヴィングトール〟が見せた、バーバリライオンから、黄金のバーバリライオンに姿をかえた、あの変化と同じもの。
証相変とは、駆り手である騎士に、肉体的な犠牲や負担を強いる事で、鎧獣と騎士の相性を劇的に上げ、能力までも飛躍的に向上させる、極めて特殊な技術の事である。
どの鎧獣にでも施せるわけではなく、術式が可能な鎧獣は、極めて稀だ。その分、能力の飛躍は凄まじく、等級で言えば二つ三つ跳ね上がり、体色の変化のみならず、武器授器までもが強力に変容を遂げる。
ただし、能力の向上と引き換えに支払う代価は、小さいものではなかった。
証相変を発現させるには、駆り手が代償行為を行わなくてはならない。代償とは、己の肉体の一部を捧げる――血肉を鎧獣に刻み付ける――というもので、具体的には、血液や血肉の経口摂取を用いて、駆り手となる人間の肉体の一部や〝何か〟の器官を奪う。ヴィングトールのように、ただ血を少し与えれば良いものもあれば、身体欠損まで必要なものもあり、それは個体によって様々だ。一歩間違えば、己の体を部位ごと失いかねない非常に危険な行為である。
だが何より負担なのは、証相変をした場合、それの駆り手は今後、二度と他の鎧獣を纏う事が出来なくなるという点だ。騎士としての生涯を、一騎の鎧獣に文字通り捧げるわけで、鎧獣を死んだり、失ったりすれば、駆り手もそこで終わってしまう。一方的で、不利益ばかりが大きい代わりに、力を得る。
得る力が大きいものになるか、わずかばかりのものになるかは、鎧獣の潜在能力次第で、賭けにしてはあまりに分が悪い。
それゆえ、錬獣術師の中では禁忌の技とされてきた。
余談ではあるが、百獣王のヴィングトールは、証相変の中でも特殊な部類で、ティンガルのそれとは著しく異なる。それはいずれ、分かる時もあるだろう……。
――何を代償にしたんだ?
イーリオは、ハーラルが舌を切り裂く姿を見ていない。
だが、これを胸に秘めていたのだとしたら、カイ王子に対する言動も頷ける。
西陽が、街道に射す。
気付けば日が低くなっていた。
イーリオは息を呑んだ。
平伏する騎士達。それを睥睨する灰色の人虎騎士。西陽がティンガルボーグに反射した。氷そのものの授器は、日の光を受けて黄金色に輝き、青味がかった灰色の体毛は、白銀の色に煌めいた。
さながら一幅の絵画のような荘厳さ。
――黄金と白銀の皇帝。
思わずそんな言葉が頭をよぎる。
「あのガキ、とんでもねえモノを目覚めさせたな」
「カイゼルン師……!」
いつの間にいたのか。イーリオのすぐ側に、カイゼルン・ベルが立っていた。長身を折るように屈ませ、片眼鏡で、ティンガルボーグ達を覗き込む。
「あれはゴート帝国の伝説の帝家鎧獣ティンガル・ザ・コーネの真の姿――〝人虎神〟だ」
「ティンガルボーグ……。ティンガル・ザ・コーネとは違うんですか?」
「ティンガル・ザ・コーネは、白虎。だが、ティンガルボーグは灰色虎の鎧獣だ。あれの証相変は、種別さえも変異させている」
「灰色虎……」
青灰虎とも呼ばれる、希少種。幻の虎とも呼ばれている。
「その分、あれの証相変はオレ様のヴィングトールとは違う、〝真っ当〟なヤツで、覚醒は駆り手の皇子が死ぬまで続く」
「ずっと、あの姿と力のまま?」
「証相変ってのは本来そういうモンなんだがな。ま、それはともかくとして、だ。――あれはヤバいぞ。オレ様が負ける事ぁねえが、単純に鎧獣としての〝格〟なら、オレ様のヴィングトールよりも上だ」
「百獣王の鎧獣よりも?!」
「ヴィングトールは、名匠の〝工聖〟初代ドレが作り出した、〝覇王獣〟に並ぶ傑作だが、ティンガルボーグは〝ドレ一族の傑作〟だ」
「?」
「ティンガルボーグはな、ドレの師、ラモン・デ・ラ・ノヴァの祖先の一族が生み出し、以来、ドレ一族の全員が、あの鎧獣に関わっている。即ち、天才一族の天才全員が作り出した、最高傑作なのさ」
もう一度、ティンガルボーグを見た。丁度、鎧化を解いているところであった。
灰色の虎と、ハーラルの姿に戻る。
しかしその姿を見て、イーリオは目を見張った。
金色であった皇太子の髪は――老人のような色褪せた白になっていたからだ。
まるで、ティンガルボーグに色を奪われたかのように――。
人は、受け容れられぬほどの事に直面すると、あまりの衝撃に、髪が一瞬で白髪になる事があるという。
ハーラルのそれが、舌を切り取る行為によるものなのか、それとも別の激情によるものなのかは、本人にも分からなかった。
ただ、ハーラルにとっては、髪の色などどうでも良かったが、その白髪を見て、不死騎隊達は尚の事、畏敬の念を深くした。ティンガルボーグを駆ったとされるクヌート帝は、白灰色の髪であったからだ。正に、不死騎隊らにとっては、クヌート帝の再来そのものと言えた。
口中に違和感を確かめながら、ハーラルは全員に立つよう促す。
この感覚に馴れるには、それなりに時間がかかるだろう――。
感覚がないという事は、動かすのも難しくなるという事だ。即ち、喋りにくい。失った舌は、もうある。ないのは舌がもつべき感覚。
味覚を、失っていた。
ハーラルがティンガルボーグに差し出したのは、思い出の象徴である、味覚。
彼の舌からは、永遠に味覚が奪われたのである。
これからは何を食べようが、おそらく砂を噛むような味しかしないだろう。
遠巻きに見つめるイーリオに、ハーラルは気付いていた。
その姿を認めると、彼はゆっくりとした以前よりもよく通る声で言った。
「貴様が言った通り、〝銀の聖女〟に手は出さん。その大狼にも、だ。もう余には必要がない。――余が必要とした力は、もう手に入れた」
イーリオは何も答えなかった。彼が何を言おうとしているのか、計りかねていたからだ。
「だが覚えておけ。貴様との決着は必ずつける。余、自らの手で、必ずだ」
一方的に告げられた、再戦の約束。
それに「応」と答えるだけの余裕が、この時のイーリオにはまだなかった。だが、イーリオの答えを待たずに、ハーラルはこの場を去りはじめる。西陽を背にし、そのまま街道を進むハーラル達。イーリオは呆然とそれを眺めていた。
「なんつうかまぁ……。おめえも、えらく厄介な奴に目をつけられちまったな」
他人事の呑気さで告げるカイゼルン。慰めにもならないし、むしろ煽っているようでさえある。
イーリオとハーラル。
両者の運命が交わるのは、まだ先の事。
時に、メルヴィグ連合王国歴 四三八年。
ゴート帝国歴 五三六年。
大陸歴 一〇九三年。
初夏の夕焼けが、二人の少年の影を、長く、濃いものにしていた。そんな日の出来事。




