第五章 第九話(5)『虎神顕現』
ロワール城を後にしたハーラルは、その足で宿に向かってロドリゴと合流すると、街を発つと彼に告げた。
「へえ――用事は済ませたのか?」
「ああ」
固い表情で答えるハーラルを、にやけた顔でロドリゴが見つめた。
「何だ?」
「いや。いい顔になったじゃねえか、と思ってな。いや、済まねえ。一国の皇子サンに向かって失礼だったな」
二名は街外れの獣屋で、互いの鎧獣を受け取って、街の外に出た。
「戻るのか? 国に?」
「ああ。戻って、為さねばならぬ事が出来た。いや――わかったというべきか」
しばらく二名が街道を進んでいると、彼らを推し包む気配が、殺気となって立ち昇る。
気付けば人っ子一人いない。見晴らしのよい高台に、彼ら二人だけである。
「あの〝不死騎隊〟って連中だな」
ロドリゴの言葉に、ハーラルも首肯する。
予測していたものの、この気配は以前よりも濃厚なものだった。
恐らくロドリゴの実力を理解した上で、部隊を整えてきたのだろう。こちらに対する部隊を。
気付けば、いつの間にか人が立っている。
全身を外套とフードで覆い、顔も姿も判然としない。だが、上背はかなりあった。六フィート(約一・八メートル)以上はゆうにある。
男の周りにも、どこからともなく、人が表れている。
そしてフードの男を除く、同じ数の、アムールトラの鎧獣も。
獣骨の髑髏を模した、凶々しい授器。鈍色の髑髏の中で、三体だけ、色の異なる虎がいた。
暗赤色の髑髏。
暗紫色の髑髏。
そして新たに見る――暗蒼色の髑髏。
暗蒼色の髑髏の横には、背は低いものの、精悍な顔立ちの男が立っていた。〝不死騎隊〟三兄弟の長兄、エドヴァルド・ウルリッヒである。
当然、次兄のロベルト、末弟のルーベルトもいる。
「こいつは……相当厄介だな」
今まで、帝国が誇る暗殺部隊〝不死騎隊〟の三番隊、二番隊の猛攻を払いのけて来たロドリゴでさえ、この顔ぶれには、いささかなりとも焦燥を感じずにはおれないようだ。
あのフードの男。
おそらくあれは、噂に聞く〝不死騎隊〟の団長だろう。
顔や姿は、ハーラルも知らぬ。というより、不死騎隊自体、皇帝直下の暗殺部隊なだけに、その顔ぶれを知る者は、帝国内でも限られている。各隊の隊長であるウルリッヒ兄弟ですら、この数カ月の襲撃で初めて知ったくらいである。
ただそれでも、団長の異名だけは、ハーラルも漏れ聞いていた。
〝不死騎隊の不死者〟
その実力は、帝国一のヴォルグ騎士団にも匹敵するという。
だが、そんなおそるべき駆り手を前にしても――。
――こんな所で死ぬわけにはいかぬ。
命が惜しい、と痛烈に思った。
往生際が悪いと言えば、そうかもしれない。だが、悪かろうが何だろうが、今、自分の最後をここだと認めるなど、できる訳がない。
ハーラルには為さねばならぬ事があった。いや、見つけた、と言うべきかもしれない。
産まれる前より己の運命を決められ、産まれてすぐに、他者の思惑で生き方を決められ――それが例え善意からでもだ――その上、死ぬ事までも、他者に定められるなど、真っ平御免だった。こんな所でむざむざ死ぬぐらいなら、今まで生きてきたりはしない。何より、己の意思で覚悟した生き方が、他者の都合で操られていたなど、馬鹿にするにもほどがある……!
「白化」
だが、そんなハーラルの思いなど関係なく、立ちふさがる人の姿をとった死神達は、北方随一の猛獣をその身に纏っていった。
エドヴァルドが最初の白化を放つと、ほぼ同時に、他の不死騎隊らも、一斉に「白化」を発した。髑髏のアムールトラが人虎の髑髏騎士へと変容する。
肚をくくり、ロドリゴも原牛を鎧化した。
数の上でも、実力の上でも、ロドリゴでさえ勝算は見えなかった。新たに姿を見せた、一番隊とその隊長、そして何よりフードの男。手合わせした事はなくとも、一対一でさえ勝てるかどうか、怪しく感じる程の猛者達だ。
だからといって、この騎士達から逃げ切れるものでもなかろう。
――いざともなれば、俺一人ならどうとでも出来るが……。
そのような考えが、脳裏をかすめるロドリゴだったが、それは〝灰堂騎士団〟第二使徒としての矜持と、騎士としての己の責務が許さなかった。
さて、どうするかと人牛の姿でロドリゴがハーラルに視線を送る。少年皇子も、臨戦態勢になっていると思っていたのだが――。
――何をしている?
この緊迫した状況にあって、ハーラルは一人、鎧化もせずに、荷物から小刀を出していた。
両者の対峙が、爆発寸前の緊張感を孕む中、ハーラルは己の騎獣、ティンガル・ザ・コーネを伴い、一歩、前に進み出た。
「……?」
この場の全員が、ハーラルの挙動に注視した。
――供物を捧げよ。
声はずっと響いていた。
不死騎隊らに取り囲まれてから、ずっと。いや、更にずっと以前からかもしれない。
ティンガルの方に、ちらりと目をやる。分かっている。声の正体は、こいつではない。
これは呪いだ。
連綿と続く、ゴート帝国。その歴代皇帝が、彼に聞かせている怨嗟の呻き。皇位継承者に囁く、暗い渇望。
幻聴だろうか。
いや、そうではない。余人からすれば、怨念が聞こえるなど、何かに取り憑かれていると言われても仕方がない。だが、ハーラルにはわかっていた。これは呪いだと。ティンガルを通じて、歴代皇帝達が、自分に呪詛を唱えているのだと。
己に残った最後の希望。
それを失う覚悟があるのか――そう、問うているのだ。
玉座に至る、最後の証。
血ではない。血肉ではあるが、血筋ではない。
それが――それこそが、供物。
――ならば、余のとるべき道はただ一つ。
ハーラルは、小刀を翳した。
――自分にとっての供物とは、過去の思い出と未来の安息。
脳裏に浮かぶ、養母の面影。そして安らぎの証であった――母の味。
小刀が閃く。
血の糸が尾をひいた。
目の奥で火花が弾け、全身が痺れたように脈打つ。
痛みはなかった。体は確かに激痛を感じていたが、痛いという感覚は、どこか遠いもののように感じていた。
「な……っ、お前、何を……?!」
絶句するロドリゴ。
ハーラルは口を開き――
小刀を舌に突き立てていた――
慄える体を機械的に動かし、そのまま無理矢理、己の舌を切り裂く。
自分で自分の舌を斬るのだ。己で己に拷問をかけているようなもので、尋常の沙汰ではない。
不死騎隊らも唖然となった。追いつめられ、気でも狂ったのか。そう思っているだろう。
実際、傍目には、痛みで痙攣を起こしながら、自死紛いの愚挙を止めようとしない、そんな風にしか見えなかった。
だが、ハーラルの意識ははっきりしていた。
気の迷いでも自暴自棄になったのでもない。そう、これが彼にとっての――
――供物だ。
舌が切り取られた。
大量の血と唾液が顎を伝い、彼の胸元を濡らした。
舌をなくせば、満足に言葉も操れなくなるだろう。だがハーラルにとって、喋れなくなる事はどうでも良かった。そんなのは些細な事だ。
それよりも、最後にまた、あの味を確かめてみたかった。養母の手製の、干鱈の灰汁煮。
もう、味わえないだろう。
片手には摘んだ肉片。千切られた舌を、慄える手で、傍らに突き出す。
凝と見つめるティンガル・ザ・コーネ。
ハーラルは、白虎の蒼い瞳を見つめ返し、無言で頷いた。そして彼の愛獣は、ハーラルの舌、切り取られた肉片を、一息で呑み込んだ。
噛み砕きはしない。そのまま嚥下する。
「何をしている……?」
呻き声が漏れたのは、暗蒼色の髑髏の授器をその身に纏う、人虎の鎧獣騎士。その中にいるエドヴァルドだった。
何か良くない事が起ころうとしている。分かっている。が、動けない。まるで生け贄を捧げるかのような、血生臭い光景なのに、ハーラルとティンガルの一連の〝儀式〟は、ある種の神々しささえ放っていた。その威に打たれたように、三兄弟もその部下達も、凍り付いたように一歩たりとも動けなかった。
やがて、ティンガルの全身の体毛が、波打つように逆立ちはじめる。
強い風に草原がなびくのに似て、鼻先から尾の先端へと、何度も何度も体毛が揺らめきを繰り返した。うっすらと蒸気のような白い靄が出ているようだった。それと共に、オフホワイトに〝擬態〟していたティンガルの授器が、ゆっくりと形を変え、元の姿へと戻っていく。
――いや、よく見ると形状が違った。色も違う。
〝擬態〟を施したスヴェインは、元に戻す際には一旦、授器を外せと言っていたはずだが、そんな事はお構いなしに、白虎の鎧は変化していった。
「これは……」
「何だ? 何が起きている?」
やがて、潮騒が泡を立てるような自然さで、ティンガル・ザ・コーネの体色が変わっていった。
虎の黄橙色にあたる毛の部分。そこにモノクロームの色が浮かび上がる。
青みを帯びた、灰色の体毛。
授器は、白。それとも蒼? どれでもなかった。
水晶の如き白氷の色。冷気さえ漂うような、氷の透明。氷結色の授器。
「オ……オォ……」
不死騎隊の団長が、フードに隠れた顔で、嗄れたうめき声をあげた。
「団長?」
エドヴァルドが驚く。
団長が声を上げている。あの団長が。
白虎から灰色虎に。
ハーラルが、小刀を捨てた。
同時に、灰色虎が、前足を蹴立ててハーラルに覆い被さる。
声を出さない鎧化。
白煙が間欠泉の勢いで吹き上がり、その中から、灰色の人虎が姿を見せた。
身に纏うは、光を屈曲させる、氷そのものといった授器。
右手には、円月刀。ただし、かつての宝刀アルマスとは異なり、刀身が全て、氷の透明になっていた。
「ティンガルボーグ……」
かろうじて聞き取れそうな掠れ声で、不死騎隊の団長が独語する。そしてフードを外した。
「団長――!」
フードの中からは、異相ともいえる、顔中傷だらけの男が素顔を見せた。
「あれは……クヌート帝の、人虎神……!」
団長の言葉に、エドヴァルドが顔を青ざめさせた。
「なっ……! まさか! そんな……!」
狼狽えるエドヴァルド。その名は彼らにとっての、神にも等しい不可侵。
三番隊隊長、末弟のルーベルトが威容に肌を粟立たせながらも、怖れを打ち払うように、両手の双手斧を構え直した。
「……あんなもの、ただの虚仮威しに過ぎん! 三番隊! いくぞ!」
号令と共に、隊長に忠実な三騎が、一斉に灰色人虎に躍りかかる。本国より合流した、三番隊の残存騎士達。
「ルーベルト!」
長兄の制止の声が遅れたのは、ハーラルの行動と、団長の言葉に、彼らしからぬ狼狽をみせていたから。エドヴァルドの声が届くより早く、二本の手斧が氷に輝く灰色人虎に迫った。
だが、手斧は空を切る。
それでも――! とばかりに、同時に発動していた尻尾の獣能が、横の空間を薙ぎ払った。
血飛沫が飛ぶ。
宙を舞う人獣の体。
地に落ちたのは――ハーラルではなかった。
ルーベルトが纏う、アムールトラの尻尾。
そして三番隊の三騎が、凍り付いたように全身を麻痺させていた。実際、三騎の足元は、この季節にあるまじき低温で、感覚が消失していた。
同時に倒れる四体の髑髏の人虎。
灰色の人虎は、ただ悠然と、王者の風格で見下ろすのみ。
ハーラルは、灰色虎の中で、口をもごもごとさせていた。
まだ灼けるような痛みは芯に焼き付いているし、違和感は消えない。
だが、鎧獣の治癒力、それも灰色虎の持つ特級を遥かに凌ぐ治癒機能により、彼の舌は、元の姿を取り戻しつつあった。それはさながら、イーリオの騎獣、ザイロウ並みの治癒能力であった。
「……殺しはせん。残った、帝国の貴重な騎士と、鎧獣だからな」
滑舌は良くないが、ハーラルはゆっくりとした口調で、三番隊の四騎を睥睨した。
「おい、ハーラル」
ロドリゴが問う。
「何だ?」
「お前、その舌、治ったのか……? その鎧獣なのか?」
「ああ」
だが、本当の意味で、治ってはいなかった。確かめなくとも、ハーラルにはその事がわかっていた。
「退け! ルーベルト!」
エドヴァルドが叫んだ。
「し、しかし兄者!」
「退けというのがわからんのか! あの姿を見て、まだ気付かんのか、お前は!」
「――?!」
「あれこそ、ゴート帝国に代々伝わる、真の皇帝騎。ホルガー祖帝が封印し、クヌート人虎帝のみが顕現せしめた、皇帝の獣神! 〝人虎神〟だ!」
ルーベルトが、思わず兄とティンガルボーグを交互に見比べる。
「なっ……!」
「我々、不死騎隊を創設された、クヌート人虎帝の鎧獣! そうだ、不死騎隊は、あの人虎神に、逆らう事は出来ぬ。我々の真の主は、皇帝ではない。ティンガルボーグが主と認めた皇帝家、その人こそ、我々の真の主!」
「あの偽の皇子が、ティンガル・ザ・コーネを、覚醒させた……? そんな馬鹿な!」
「だが見ろ! 目の前の姿を! そしてあの授器! あれこそ、ティンガル・ザ・コーネのものではない、宝刀アルマスの真の姿。〝氷の貴公子〟と呼ばれる所以。あれこそ、ゴートの真なる皇帝の証!」
ルーベルトは後じさった。
入れ替わるように、団長が前に出る。
凝とティンガルボーグを見つめた後――
彼はその場に跪いた。
他の団員達も、一斉に彼に倣う。
「おいおい……」
ロドリゴが呆れたように呟く。
跪いた格好のまま、団長が、潰れた掠れ声で口を開いた。
「今までの非礼の数々、平に申し訳ござりませぬ」
「……」
「我らの〝真なる皇帝〟に剣を向けた罪、かくなるうえは、我ら全員の命をもって、購っても購いきれるかどうか。今この場でお手打ちになさるなり罰を与えるなり、ご随意にお命じ下さいませ」
「よい。お主らは、己の責務に忠実であっただけだ。それを咎めたりはせぬ」
「はっ」
団長の言葉の後、鎧化していた団員達は、一斉に武装を解いた。




