第五章 第九話(3)『真実』
サリの顔が蒼醒めていた。言わずともわかる。人心を顧みないと言われている氷の皇太子ですらはっきりと。
「亡くなった皇后の内の誰か――、マルグレーテ妃か、カタリーナ妃。どちらだ?」
現・皇帝ゴスフレズⅢ世は、正妻としてマルグレーテ妃を皇后としていた。その後、第二皇妃としてカタリーナを迎え、ハーラルの母、サビーナは第三皇妃だったのだ。しかし、マルグレーテは、ハーラルが行方知れずとなったクロンボー城襲撃の際に命を落とし、第二妃のカタリーナも、実子のエーリクが死ぬと、後を追うように命を落とした。そして、第三皇妃であったサビーニが、皇后となったのである。
「どちらの皇妃にせよ、何の為にだ? 何故、私を攫ったのだ? 皇位継承の邪魔であるなら、命を奪えば良い。いや、そもそも血の繋がりがないのだから、それを公言すれば良いだけの事。そうすれば、母サビーニもろもとも、宮廷から追放されるだろう。なのに何故、私を連れ去るような真似をした? まるで命を長らえさせるかのように?」
「違います……」
「もう止せ。貴女が偽ろうとも、もうその必要はない。いずれ国中に知れ渡るのもそう遠くない事だ。だから尚の事、誰よりも先に、知っておきたいのだ。私の真実を」
「そうではありません。マルグレーテ皇后陛下は、貴方様が皇帝のお血筋でないなどと、知らなかったのです……」
「何……?」
マルグレーテ妃。第一皇妃。
彼女が。しかし知らなかった? 知らなかったとはどういう事だ?
「マルグレーテ様は、慈愛に溢れた御方でした。あの御方は、ご自分のお子だけでなく、サビーニ様のお子である貴方様もお救いなさろうとしたのです」
「ちょっと待て。命を救おうとした――だと? それだけの理由で攫った――否、保護した――のか? ならばどうして、助けた後、すぐに名乗り出なかった? 命を救った後、どうして何年も姿を晦ましたのだ?」
「マルグレーテ様は、お城の襲撃から皇子達を守ろうとしただけではありません。お城を襲った真の犯人から、皇子達を守ろうとしたのです」
真の犯人――?
ちょっと待て。クロンボー城襲撃は、北方の蛮族か、トゥールーズの一団だったはずだ。つまりは外部からの侵略者。しかし、そうではないというのか? 城を襲ったのは、別の誰かだと……?
「ええ。侵略者の仕業になってますが、それは違います。あれは、内部の犯行によるものだったのです」
ハーラルの当惑が何を意味するのか。彼の心中が分かるかのように、サリが説明を続けた。
「内部の……ゴート帝国の人間の仕業だと……? それがあの城にいた私を含む皇子を亡き者にせんとしたと?」
「はい。そして、お城の襲撃よりお救いしただけでは未だ危険であったがゆえ――つまり、命の危機は依然としてあったので――安全だとはっきりするまで、皇子を市井に隠すよう、お命じになったのです。マルグレーテ様は、そのようにお命じになられました」
何と言う事か。
それは予想だにしていなかった。
しかし――。しかし、である。
「ならば、私に皇帝家の血がないと貴女が知っているのは何故だ? 今の話ならば、貴女もまた、知らないはずだ」
「私がその事を知ったのは、偶然です。偶然、マグヌス閣下とサビーニ妃がお話されているのを耳にしたのです」
母上と大将軍が? それはどういう事か――。
しかし。であれば、ハーラルがサリに問おうとしていたもう一つの質問にも話が繋がってくる。
「質問がもう一つあると言った。だがそれを尋ねる前に聞きたい」
サリの顔が、生気が失せたように強張る。おそらく自分の顔は、もっと死人めいているであろうと、ハーラルは思った。
「クロンボー城襲撃の犯人とは、第二皇妃のカタリーナか――?」
コクリと、頷くサリ。「ただ――」とそのまま繋げる。
「ただ?」
「お命じになった犯人は、もう一人います」
サリはもう一人の名を告げた。
ハーラルは――言葉を失った。
※※※
ある程度は覚悟していたものの、自分の予想を超える答えに、ハーラルは吐き気すら感じていた。まさか、自分を亡き者にしようとしていたのが、あの人だったとは――。
だが、ここでぶちまけた所で、何の進展にもならない。それよりも、問うべき事は、もう一つあった。
「もう一つの質問だが……兄は……オーラヴ皇子は、助からなかったのか?」
「――え?」
「貴女は先ほど、マルグレーテ妃は皇子達を救おうとされたと言った。それに、オーラヴはマルグレーテ様の実の子。ならば、私はともかく、何より先に助け出そうとするはずだ。それに、私が生きているのだ。兄が助かっていてもおかしくはあるまい」
「それは……残念ながら」
オーラヴ第三皇子が、戦火に巻き込まれて幼い命を落としたのは知っている。それに、生きていれば、自分より先に帝国に迎え入れられているであろう事もよく分かっている。
だが果たして、そうだろうか?
本当に、兄は死んだのか?
「オーラヴ兄上が生きている可能性は?」
「ない……とも言い切れません」
「マルグレーテ皇后は、貴女に私を助けよと命じたのだな。ならばオーラヴ兄上には、誰が助けに向かわされた?」
「オーラヴ皇子には、複数の者が向かわれました。信頼の出来る、ヘンリク近衛騎士長と同じくニールス副長。それに、私と同じ皇后陛下付きの女官であった、シャルロッタ殿とベンテ殿。確かその四名だったと思います。が、何分、かなり昔の事ですし……」
「待て。今、何と言った?」
「え?」
「名前だ。女官の名前。シャルロッタ……だと?」
「はい――、左様です。皇后様、オーラヴ皇子様付きの女官は、私と同じなので、そこははっきり覚えております。……ただ、あの二人は私と違い、シャルロッタ殿もベンテ殿も貴族のご出身で、確か、シャルロッタ殿の方は、高名な錬獣術師の方に嫁がれたはずです。確か……」
「ムスタ……だな」
「ええ、そうです。ご存知でしたか」
ハーラルは得心した。
自分の考えは、妄想の類いではない。杞憂でもなければ、考え過ぎの心配性でもない。
やはりそうか、そうだったのか、と。
「殿下……?」
よほど不審な顔をしていたのだろう。狼狽えるような素振りで、思わずサリが、覗き込む。
「あ、ああ……大丈夫だ。いや――済まぬ。手間を取らせて申し訳ない。これで――聞きたい事は、全て聞けた」
全てに合点がいった。
迷いを晴らすために、養母に会いに来た。
確かに迷いは晴れた。
ただし迷いの霧が晴れた先に待っていた景色は――新たな戦場だった。
――?
何かが聞こえた気がした。
「殿下……?」
サリが気遣わしげに問いかけている、が、ハーラルの耳には届かない。
――供物を
そうか。またあの声か。
――供物を捧げよ。
突然、この声が何なのか、分かった気がした。
意識が現実に引き戻される。
目の前に、養母がいる。かつて焦がれた、再び会いたいと願っていた、幼き日の〝もう一人の母〟。自分が捨てきれずにいたもの。まだ心の中で抱えていたもの。
それは――。
「養母上。いえ、今はあえて、そう呼ばせて貰います。おそらくこれで、もう二度と会う事はないでしょう」
「殿下――」
「感謝致します。例え、主の命令であったとはいえ、私を育ててくれた事。私の命を救ってくれた事。貴女のお蔭で、今の私がいる。貴女のお蔭で、私は――私を捨てられる」
「……?」
「願わくばもう一度、あの、養母上が作られた、干鱈の灰汁煮を食べたかった」
最後の言葉に何かを返そうと、サリが口を開きかけるが、それを待たずして、ハーラルは踵を返した。今度こそ。今度こそ本当の、別離のために――。
「それでは養母上、お元気で」
ハーラルは深々と辞去の礼節をとる。まるで国母に対するような恭しい厳粛さで。
その姿は既に、未熟さの面影を残す皇子のものではなかった。




