第五章 第九話(2)『再訪問』
小さな客間の一室で、サリは一人、ハーラルを待っていた。来訪は、既に伝えてあったからだ。
もうすぐ初老になろうかという年齢だろうが、見た目は中年よりも若々しく見え、年相応の苦労の跡は見え隠れするものの、どことなく貴賤を越えた品位が、彼女には身に付いているように思えた。
「昨日で御用はお済みになったと思っておりました。もし、帝国に戻れと仰りに来たのならば、それはご辞退させていただきます。私のような者が戻れば、皇后陛下も良い思いはされますまい。帝国にいらぬ不安の種を持ち込むだけ。私はもう……ただのサリなのですから」
ハーラルが何かを言うより先に、サリが朴訥に告げた。絞り出すような声は、断ち切れぬ思いを振りほどくかのようにも感じられた。
――否、それも未練か……。
「少し……聞き忘れていた事があった。それを聞きに参った」
「何でしょう?」
「――皇太子といっても、己が思うがままに振る舞える訳ではない。むしろその逆で、些細な事でさえ、思いどおりに行かぬ事が多いのが、皇族というものらしい」
「……?」
話の向きが変わった事に、サリはやや戸惑うような仕草を見せたが、構わずハーラルは、そのまま話を続けた。
「私が貴女に育てられる切っ掛けになった事件。クロンボー城襲撃の折に亡くなったとされる一歳違いの我が兄、オーラヴ。物心も付かぬうちに落命したからか、それとも忌まわしい事件ゆえ思い出したくないからか、兄の事を知りたいと思っても、誰一人答えてはくれぬのだ。兄の姿を見た者、何らかの形で兄や兄の母であった先の皇后の側に仕えていた者、一人一人に尋ねたが、誰一人、はっきりとした答えを出す者はいなかった。いや、側仕えらしい側仕えは、襲撃の際に命を落としており、答えようもないというのが正しいのだがな。都合の良い事に、誰も、誰一人としておらぬのだ」
「オーラヴ皇子の事を、お知りになりたい……と?」
「サリ、貴女はもともと、先のマルグレーテ皇后に仕えていた者だったと聞く。それも、生まれたばかりのオーラヴ皇子の世話係として。そうだな?」
「……はい」
「オーラヴ兄上の世話係だった貴女が、同じ城にいた私を助け出して育てたのだから、運命とは誠に奇妙よな……。――で、サリよ。オーラヴ兄上とは、どんな子供であった?」
「どんな……と仰られても……。まだ乳飲み子であらせられましたから――」
「どのような見た目であった? 瞳の色は? 髪の色は?」
「……」
氷のように、サリの表情が凍てついた。
「長兄のヴァーサは、緑金の髪と瞳だったらしい。次兄のエーリクも、だ。ちなみに我が父、ゴスフレズⅢ世陛下も、同じ緑金の髪と瞳をしている。想像ではあるが……おそらくオーラヴ兄上も、緑金の髪と瞳だったのでは?」
「それは――」
否とも応とも答えないサリ。ただ無言、無表情で、〝氷の皇太子〟を見つめているだけだった。
「私は珍しい皇子でな。金髪碧眼というのは、直系の皇子でもそう多くない。少なくとも、帝位を継いだ者の中には今までいなかったらしい。今まで、ただの一度も。帝国五百年の歴史の中で、ただの一度もだ。だからかな、ついそんな事が気になってな」
「そんな事はございません」
「違う?」
「歴代皇帝陛下が、皆、緑金の髪と瞳をしていたわけではございません」
「クヌート帝の事か? 貴女が仰りたいのは?」
「ええ。〝人虎帝〟と恐れられた英雄皇帝のクヌート帝は緑金ではありません。〝白灰の人虎帝〟は殿下もご存知でしょう? それに、皇族の中には金髪や黒髪の方もいらっしゃいます。髪の色や目の色などは、お血筋に関係なくそれぞれ異なります」
かつていた偉大な英雄皇帝、クヌートは、白灰色の髪をしていたという。サリが言っているのはそれだ。
「そう。だからクヌート帝には子はおらぬ。直系の子孫はない。帝位を継いだのは、彼の兄の子だ。その子、ゴスフレズⅠ世は緑金の髪と瞳――。だからこう言ったのだ、直系の中にはいない、と。皇統を継ぐ者は皆、緑金の髪と瞳をしている。これは他の髪色の異なる皇帝も同じだ。緑金以外で、その後、直系になった者はおらぬ。そしてそれらの人物に共通するのは、皆、皇位を簒奪したり、動乱期であったりと――ようは皇統の系譜ではなく、皇位も正しく継いだ人物ではないという事だ」
サリの顔色が蒼ざめている。彼女は知っていたのだ。ゴートの皇統にまつわる〝あの噂〟を。
ハーラルがそれを知ったのは、イーリオとの一戦の後だった。
傷付き、養生する彼の耳に、誰というでなく、こんな噂が耳に入った。
――ハーラル皇子は、陛下の子ではない。
誰がそれを言い出したのか。しかしハーラルが立太子された時にも、そんな噂は出た事がなかったのに、急にそのような陰口が、宮廷内で囁かれるようになったのだ。
いつもの彼なら、戯れ言をと言って一笑に付している所だが、今の彼にはそういう訳にもいかなかった。帝家に密かに伝わる、歴代皇帝の儀式――〝戴冠の序〟で認められなかった彼にとっては、笑って聞き流せない噂話だった。
〝戴冠の序〟。
即ち、〝銀の聖女〟より、皇帝の認可を受ける事。
「貴方はそれをお知りになって、どうするおつもりですか……?」
「……遠回しな言い方になったな。分かっているだろう? 私は何も血筋やオーラヴ兄上の事を知りたいのではない。その答えは、もう持っている」
そう。昨日のサリの返答で、彼の疑問は確信に変わった。
表情や態度から直感を得た訳ではない。
そんな風に、人の機微を容易に忖度出来るのであれば、〝氷の皇太子〟などと呼ばれはしなかったろう。気付いたのは、単純な推理の帰結だ。
自分は何故か、皇統認可の儀式で認められなかった――。
〝戴冠の序〟に認められたとされる者は緑金の髪と瞳――。
自分には皇帝の血は流れていないという噂――。
サリに聞かずとも、答えは自ずと出ている。だからといって、実母であるサビーニ皇后や、近侍のエッダら心許せる者に確かめた所で、何を馬鹿なと否定しかしないだろう。そんな事は問わずとも分っている。
だからこそ、養母のサリに確かめに来たのだ。
母恋しさの故ではない。
傷心の故でもない。
己の依って立つものを、露にするため、養母に会いに来たのだ。会って、確かめる為に――。
そもそもサリは何故、私を助けた後、すぐに救ったと報告をしなかったのか? 自分の子として育てたかった? ならば不敬もいいところである。即刻処刑されてもおかしくないが、何らかの処罰をされた記録はない。つまりサリは、自分が帝家の血筋でない人間だと知っていたのではないか? 知っていて自分を攫い、時が来るまで、己の子と偽り、育てた。お咎めを受けなかったのも、それが理由――。
だから彼女に問うた時、彼女が否定するか否かで、判断したのだ。
何も知らないのであれば、肯定や否定よりも先に、戸惑うはずだ。庶民からすれば、遥か上の雲上人のお家問題など、遠い世界の話でしかない。私は皇帝の息子ではないと言ったら、驚きや当惑が先にくるべきでは?
だが彼女は、自分に皇帝家の血が流れていないと言った時――すぐさま否定した。
即座に。
「お血筋の事ではない? では、何を……?」
「知りたい事は二つ。一つは、貴女の後ろに居たのは、誰だ? 誰が貴女に、命じた?」
「……」
「皇帝か? それとも母、サビーニ皇后か? または宮廷の誰か、宰相や文官、それか武断派の連中か?」
「……」
「答え難いのは分っている。口を封じるよう言われてもいよう。だが貴女はまだ、生きている。本当に秘匿しきるべきならば、貴女は命を奪われていてもおかしくないはずだ。だのに何故? 貴女がそれほどまでに重要な人間だったのか? もしくは――」
「……」
「命じた当人が、既にいない、か――」




