第五章 第九話(1)『夢獣』
その獣を目にするのは初めてのはずだったが、何故かずっと以前から知っているような気がした。既視感というやつだろうか。いや、覚えているはずの単語を失念してしまったかのような、もどかしい思いに似ている。
理知を宿した瞳。
およそ自然の御手によるものとは思えぬほどの、神秘的なまでの造形美。
それはさながら――獣を象った神の御使い。
そんな形容が似つかわしい姿をしていた。
獣は、こちらを凝と見つめたまま、襲ってくるでもなく、威嚇するでもなく、かといって警戒などは微塵も感じられない自然な体勢のまま、微動だにしなかった。
だが、人ならざるものが人語を解する霊妙さで、おもむろにその獣は、こちらに向かって語りかけてきた。
――供物を捧げよ。
明瞭とした声。老人のような、若者のような、女でもなく男でもない不可思議な声音。しかし、幻聴ではない。以前よりも明確に、否定しようもなく確かに、獣は語りかけてきた。
――供物を捧げよ。
また、告げる。
供物とは何か。何を捧げるのか。思い当たるモノはなかった。
自分には何もない。
何も持たざる自分には、分かるはずもない。
誰かが言った。
天地を為す供物。己にとっての天地世界を形とす供物。それは即ち――かけがえのないもの。それこそが代償である、と。
それが供物か。
それをこの獣に――捧げよと。
かけがえのない――
そんなの――
そんなもの、とっくに失っている。
と、ハーラルは思った。
そして彼は、眠りから覚めた。
※※※
どんな内容だったかは思い出せないが、不快な夢であった事は覚えている。それを頭から払いのけるように起床した後、手早く身支度を済ませたハーラルは、出かける前に昨夜のロワール城での騒ぎを、宿の親父から耳にした。
覇獣騎士団 弐号獣隊 の次席官リッキーの客分扱いとはいえ、ハーラルはあくまで知人という体裁である。ゴート帝国の皇太子であるだなどとは当然隠していたし、ならばロワール城に泊まるのは相応しくなかろうと宿は街にとってあった。ロワール城を主に代わって取り仕切るバルタザールなどは、ハーラル皇子を街の宿に泊めるなど、失礼極まりないと慌てたが、これはハーラル自身も望んだ事。追っ手や刺客がいたとして、それにメルヴィグの王族や騎士団を、これ以上巻き込むのは、彼にとっても好ましい事ではなかったからだ。
一緒の宿をとった用心棒のロドリゴは、今日もまた別行動を、と言ったので、一人ハーラルは、ここ港町プットガルデンにあるロワール城へと、再度赴く事にした。
初夏の風が、肌に心地よい。
それが――嫌だった。
北方のゴート帝国では、このように過ごし易い陽気はごくわずかの期間しか訪れないし、日射しがこうも長く届く事も滅多にあるものではない。心なしか、街の住人達も、港だからというだけでなく、陽気で人当たり良く、朗らかな人ばかりに見えた。眩しい陽光は、命を育む恵みそのもので、北方の民からすれば羨ましい限りのはずだ。
だがそれこそが、ハーラルにとっては不快だった。普く全てに注ぐ日射しは、己の中にある影さえも照らし出そうとしている光そのもの。明るい光が正しいと言わんばかりの、遠慮のない輝き。影などは存在出来ない。してはならないようにさえ感じる。
――まるであ奴らのようだ。
無遠慮で、人の心にまでずけずけと入ってくる。そのくせ、裏表などないと言わんばかりに眩しく振る舞う。リッキー・トゥンダーとドグ。共にプットガルデンまで同行した、あの二人に。
だがそれでも、ハーラルは二人に頭を下げて、旅を共にした。
目的があるからだ。
目的のためなら、己の〝影〟をひた隠しにするなど、大した事ではない。〝氷の皇太子〟と呼ばれた彼にとっては、己の矜持さえも、不必要と判断すれば、造作なく捨てられる。
人は彼を〝氷の皇太子〟と言う。
冷徹で氷のように酷薄で、人心など顧みない皇子であると。
だがそれは違う。
何も殊更、酷薄であろうとしているのではない。人の感情の機微を無視などすれば、自分から人が離れてしまう事など百も承知だ。それを知った上で、尚、冷血に振る舞うのは、それこそが帝国皇太子として必要な資質であったからだ。メルヴィグ王国とは違う。ゴート帝国に必要なのは、人情のある心優しい君主ではなかった。
付け入る隙を与えぬ峻厳さ。
寛容よりも、畏怖を知らしめる冷厳さ。
それこそが、帝国の君主に求められるもの。
そしてハーラル皇子が被らねばならぬ仮面であり、それをして〝氷の皇太子〟と呼ばれようとも、惰弱なゆえに利用され、嘲弄を受けるような愚かさに比べれば、いかほどのものでもなかった。
だから今も、仮面を被り続けている。
尾羽打ち枯らした、亡国の皇子のような仮面を。
ひたむきで、何かに懸命な仮面を。
そんな仮面を作ってでも、確かめねばならなかった。そしてその答えは、もうすぐそこにある。
――そういえば、あの孺子……。
自分とそう歳が変わらないであろうに、身長ゆえか、孺子と言ってしまう、あの少年、ドグの事を思い出す。
リッキーなどは、確かに陽光のごとく眩さを持っているが、ドグは少々違うように感じられた。自分と同じ匂い。心に一物を抱えているような、暗い部分。
彼の出自ゆえか、そんなものがあるように感じられた。
――いずれどうでも良い。
そう、彼らとの旅は終わる。
もうすぐ終わる。
陽光を避けるように足早にロワール城へ着くと、ふと、城の入口手前で、彼と同じくらいの背丈の少年を目にした。
少年の方も、ハーラルに気付く。
イーリオ・ヴェクセルバルグ。
緑金の瞳が、軽い驚きに見開かれ、こちらを凝視していた。
ハーラルも、昨日のように条件反射的に飛びかかる事はせず、その場で立ち止まり、ただ凝と、彼の姿を見つめた。だが、やがて関心をなくしたように、ハーラルは素っ気ない態度で、その場から立ち去ろうとする。
「ハーラ……じゃない、オーラヴ!」
後ろから、イーリオの声がした。
仕方なく立ち止まり、意識だけを背後に向けて、ハーラルは「何だ」と抑揚なしに答えた。
オーラヴというのは、今の彼が身分を隠す為の偽名である。元々は、彼の亡くなった一つ上の兄の名であった。
「リッキーさんから聞いた。君がシャルロッタを捕らえようとした理由を」
「……」
「ゴート帝国のしきたり……。次期皇帝は、帝都の地下に千年間眠る〝銀の聖女〟から、皇帝の証を得なければならない。けれど〝銀の聖女〟は、何故か皇太子たる君に、皇帝の認可を与えてくれなかったばかりか、千年間眠っていた地下から逃げ出してしまった――。それで君は、聖女を捕まえ、皇帝の証を得ようと、追捕した……。〝銀の聖女〟――シャルロッタを……」
ハーラルは何も答えず、表情も態度も崩さない。視線だけを僅かに傾けた。
「信じられない話だ……。まるでお伽噺か作り事だよ……。僕も父さんから、帝国の聖女にまつわる伝説は聞いていたけど……、まさかそれが本当だったなんて……。でも、今となったら分かる気がする。彼女と一緒に旅をしてきた僕には、それが本当の事だって。彼女が千歳を超える神秘的な〝何か〟だとしても、驚かない。むしろ今までの現象が腑に落ちる気さえするよ」
「何が言いたい?」
「……例え彼女が何者であれ、僕は彼女を助けたい。彼女がゴートから逃げるというのなら、僕はそれを全力で守る。僕が言いたいのはつまりこうだ――。……絶対、君に彼女は渡さない」
強い瞳。緑金の輝きが、揺るぎない意思に彩られている。一方のハーラルの瞳からは、何の表情も読み取れなかった。
だが、内心は穏やかではなかった。
「話はそれだけか?」
イーリオは、頭を振った。
「一つだけ教えて欲しい」
「何だ」
「シャルロッタの本当の名前は、何て言うんだ?」
シャルロッタというのは、記憶を一切持たない彼女に、イーリオが付けた名前だ。本名ではなく、もともとはイーリオが幼い頃に亡くなったという、彼の母親の名前である。
「――知らぬ」
「知らない? でも……千年間も、地下で眠っていたんでしょ? 何か名前はあったんじゃあ……」
「あの娘は〝銀の聖女〟だ。我々はそう呼んでいたし、それ以外は知らぬ。彼女の事を知るのは、皇帝陛下ただ一人だ」
言い捨てて、もう用はないと言わんばかりに、ハーラルはその場を後にした。
途方に暮れたようにイーリオが立ち尽くしている事は、振り返らずとも分かっていたが、それでも立ち止まる気はなかった。
――忌々しい。
苛立ちが彼の心を強く叩いた。立ち去る足は、自然と早くなる。
イーリオを前にすると、どうしてだろう、抑えようもなく、心がざわめき立つ。無表情なのは、そんな〝仮面〟を強く意識しなければ、彼の〝もう一つの顔〟が、すぐに〝仮面〟を剥ぎ取ってしまいかねないからだ。
しかも、ハーラルの神経を逆撫でするような事まで口走る。
――〝銀の聖女〟を守る、だと? 分かっているのか、その意味が。
ハーラルの胸中には、苦々しいものが広がっていた。しかしその意味をイーリオに知らせるつもりは、毛頭なかった。




