第五章 第八話(3)『王権』
生暖かい風が、夜になっても尚、続いていた。
昨日まであった季節外れの肌寒さが何かの先触れであるならば、今晩の気味の悪い暖気は、妖しさを伴った幕開けかもしれない。
港湾都市プットガルデンにあるロワール城の一角。城主カイ=アレクサンドル王子の居室で、その主であるカイは、燭台の明かりを頼りに、読書に耽っていた。が、中身はまるで頭に入ってこない。ただ文字を追うだけで、それは今の彼にとって、意味のない文字列を目で追うのと何ら変わりはなかった。
だがそれでも、凝っとしてなどいられない。本を読むフリだけでもしていなければ、ざわめきたちそうになる心を鎮める事など出来なかった。
昼間には、思いもかけずカイゼルン師匠が訪ねて来た。予期せぬ賓客に、喜びよりも戸惑いが勝ち、しかもその上、王都に出仕しろと、バルタザールのような事を言いに来たのだ。およそ師匠らしからぬ言動であるが、まさか、あの師にまでもそんな事を言われるとは、弟子のカイですら、毛程も思っていなかった。
以前の彼なら、決心が揺らいでいたかもしれない。
何せ、カイゼルン・ベルという人は、王であろうが皇帝であろうが、頼まれてもハイそうですかと素直に頼み事を聞くような性格ではないからだ。無頼のひねくれ者、というのがカイにとっての師匠の評価である。そのカイゼルンが、主君レオポルトの依頼で、わざわざ自分を訪ねたのだ。彼の固い決心も、揺らがざるを得なかったろう。
しかし。
今のカイの心中は、それどころではなかった。
今日、再び来るだろうか?
あれから丸二日。
もし来れば、カイにとっては大きな岐路に立つ事となるだろう。
ページをめくる手が、少し早くなる。既に文字を目で追う事すら怠っていた。内容など頭に入ってこない。くるはずがない。
だが元々、読まずとも本の内容など、とうの昔に諳んじてしまっている。それでも――、意味のない行為をしてでも、今の彼は、眠れぬ夜を鎮める必要があった。
どこかで音がした気がする。
顔をあげると、生暖かい夜風が、彼の頬を撫でた。
窓など開けていないはずなのに。
答えはすぐ目の前に立っていた。
「返答を聞きに来ましたよ。カイ従兄上」
黒灰色のローブ。
漆黒が人の形となって表れたのは――ファウスト・ゼラーティであった。
「……」
「ご安心を。誰にも――気付かれておりません。そのように、侵入ってきましたから」
ファウスト・ゼラーティ。
黒母教の実働部隊〝灰堂騎士団〟の上位階者、第四使徒。
だが本名は違う。
カイと同じ、メルヴィグ王国の正統王家の一つ、ホーエンシュタウフェン=シュヴァーベン家の嫡流、ファウスト・キルデリク・ホーエンシュタウフェンが、その真実の名であった。いや、血筋で言えば、カイよりも王位継承権は上位にある。彼の方が、カイよりも〝本流〟なのだ。
「あの時も言いましたが、我々には、黒母教という後ろ盾があります。それに大陸一の大銀行、アクティウムのフェルディナンド家も、我らの協力者です。支持基盤と、財力。最も重要な二者を有する我らは、メルヴィグを二分などする必要もなく、この国を手中におさめる事が出来るでしょう。予測でも希望的観測でもない。これは決定事項なのです。この国は、既に我らの手中にあるも同然」
「……だったら、何故、今直ぐ事を起こさない?」
「これは異な事を。ひとたび決起すれば、国の内外共に乱が起こるのは必定。西朝の輩に我らが敗れるはずはありませんが、しかし巻き込まれる者が無事に済む筈もない。ましてや、今や私の近縁者は、従兄上ただお一人。できれば従兄上とは争わず、私と手を取り合っていただきたいのです。あのような僣王と命運を共にするなど、あまりに忍びない――」
カイの心は千々に乱れていた。
六〇年前よりの因縁を蒸し返すのは、愚かと言えばあまりに愚か。それに、東西で王朝を二分するといっても、元はと言えば、王位を巡る内輪揉めにしか過ぎない。それを再燃させ、国を二分する大乱を起こす愚を己が犯そうなど、有り得ようはずもなかった。しかし、だからといって、ファウストの言い分を無視する事など、カイには出来ない。
彼が幼少の頃より、祖父から植え付けられた王家の血の呪縛は、理知でどうにかなるような、容易いものではなかった。
現に、今もどうすべきか、悩みに悩んでいる。
自分の決断が、何を齎すか。
どちらを選んだとて、血を見ないで済むはずはないに決まっている。
そしてその決断が、歴史にどのように刻まれてしまうのか。迷い、惑うカイの答えは、しかしこれ以上引き延ばす事は出来そうもなかった。
「ファウスト……」
「何でしょう?」
「お前達は後ろ盾に黒母教があり、資金も困らないと言う……。だが、具体的にはどのようにしてこの国を手に入れようというのだ? 如何に黒母教の信徒がいようと、信徒は兵ではない。中には騎士や兵もいるだろうが、ほとんどが一般の民草。数だけ頼んだところで国を手に入れるなど不可能だぞ」
「最前申し上げたように、我らには灰堂騎士団なる実働部隊があります。騎士の数は覇獣騎士団に及びませんが、個の実力は劣るものでもありません。それに、我らがひとたび事を起こせば、周辺諸国もそれに呼応するよう取りはからっております」
「まさか、他国と密盟を……?」
「それだけではありませんよ。既に王国の内部にまで、我らの手の者は入っております。勿論、覇獣騎士団にも。そしてもう一つ。かつてクルテェトニクの戦では、あの忌まわしきクラウスの〝ガルグイユ〟が我らを阻みましたが、今はそれもない。いくら覇獣騎士団が強者揃いとて、王の片翼たる〝ガルグイユ〟に、更にカイ殿下の〝ファフネイル〟もいなくなれば、もう恐れる事など何もない」
――成る程。それが狙いか。
現在の戦は、鎧獣騎士によって趨勢が決せられる。人間の兵や騎士がどれほどいようと、一騎の鎧獣騎士がいるだけで、万の勝利も覆されてしまう。そして更に言えば、その鎧獣騎士ですら、数がいれば良いというものではなかった。例え百万の鎧獣騎士を揃えたとて、一騎の優秀な人獣が、万の軍を平らげてしまう事すらあった。
良い例が、〝六代目・百獣王〟カイゼルン・ベルのジェジェン戦。そして、覇獣騎士団 壱号獣隊 のクラウス・フォッケンシュタイナーが勝敗を決した、クルテェトニク会戦である。
今や戦争とは、どれだけ強力な駆り手と、高性能な鎧獣がいるかで、勝敗は決してしまう世の中になったのだ。
ここで、カイがファウストの側につけば、覇獣騎士団の戦力は、かなり減ぜられてしまう。
正に、カイ自身の存在が、この国の命運を握っているとしても過言ではなかった。
しかし、カイはそれよりも、ファウストの今言った言葉に、聞き捨てならない違和感を感じていた。
――ファウスト、何故だ?
造りものめいた美貌は、婉然たる冷笑を浮かべていた。
――何故、笑う?
「クラウスがいないと言ったな。よもや二年前のあの事件……。それにもお前達が関わっているのか?」
ファウストは、冷笑ではなく、失笑を浮かべた。
「ええ。そうですよ。正確には、関わっていたのではなく、二年前のギシャール騒動は、全て我らが仕組んだ事」
「――!」
「あれのお蔭で、我らがどれだけ動き易くなったか。まぁ、今となっては、クラウスが覇獣騎士団に復帰した所で、大局に変わりはありませんがね」
「本当なのか……?!」
「因縁の相手……というだけではありません。黒母教が地下で活動をするのに最も目障りだったのが、奴に率いられた覇獣騎士団でしたからね」
カイはかつてないほどの驚きと共に、もう一つの感情が、心中に沸き起こるのを感じとっていた。
自分が隠居を決める切っ掛けとなったあの事件。
事件の中心には、自分という存在を利用とする二派の思惑があった。何より、自分という存在こそが、渦中の元凶であるのだと思い込み、だからこそ現状を選択する判断となったのだから。
しかしそれだけでなく、二派の思惑とは別に、もう一つの大きな流れが別個に有り、むしろそれこそが、事件の元凶そのものであっただなどと――。
カイを擁立して謀反を起こそうとする一派がファウストの存在を知っていれば、わざわざカイを担ぎ出そうなどしないはず。ホーエンシュタウフェン=シュヴァーベン家には、もうカイしか血統がないと思っているからこそ、あのような内乱になったのだ。
では、ファウストらの思惑は奈辺にあるのか?
「〝凶獣〟も、全て灰堂騎士団が仕組んだ事なのか……?」
ファウストは再び氷の微笑で、それに応えた。言葉に出さずとも物語っている。
カイは愕然となった。
では、今まで自分がしてきた事は何だったのか? 自分の決意に、何の意味があったのか?
「従兄上が驚かれるのも無理も有りません。鎧獣に人を襲わせるよう仕向けるなど、到底出来るどころか、思いもつかない事ですからね。しかし、灰堂騎士団にはそれが出来るのです。黒母教ナーデ教団には。如何です? その一事をもってしても、我らがどれだけの〝存在〟かが想像できるでしょう?」
「……」
「さ、我らと共に」
「……」
「――僣王と共に朽ちるより、正しき王家と貴方の血統の為、己の責務を全うするのです」
「責務?」
「我らが祖父、ゲオルクⅣ世陛下の言葉です。〝真なる王の為、その身を剣とせよ〟です。真なる王は、レオポルトではない。このファウスト・キルデリクです」
「……そうではない」
「――何?」
「ファウスト、〝真なる王〟とは如何なる者を指す? 王の資質とは何だと思う?」
「?」
「答えてくれ。君が思う、〝真なる王〟とは、如何なる者か?」
ファウストは苦笑しつつも、間を置いてこれに答えた。
「正しき血筋である者。そして皆から恐れられ、愛される有徳の者。それこそが〝真なる王〟」
「違う」
「違う?」
「今、メルヴィグ王国は、レオポルト王が建て直し、かつてないほどの繁栄を遂げている。一方で、王国には騎士団のみならず、連合公国各所に人材が溢れ、王の出る幕はないとまで言われているほどだ。地方だけでなく、宰相のコンラートをはじめとした宮廷にも有能な大臣が多々あり、だからこそレオポルト王は、壱号獣隊 の兼任などという、本来、王のなすべきでない業務を行えている」
「惰弱だな。王が王の責務をしない国など」
「私は違うと思う」
「何?」
「〝真なる王〟とは、王の必要がない者の事――。それこそが〝真なる王〟だ」
「王の必要がない?」
「レオポルト陛下は、強力な指揮でこの国を建て直した。しかし、建て直した後は、自分の出しゃばる必要がない程に、円滑に機能する王国を築き上げた。王の存在を忘れてしまえるほどに。――それこそが、〝真なる王〟の器だ」
「謎掛けのつもりか? 私に王の資質はないと言うつもりか?」
「いや、君は立派な君主の資質を持っているだろう。だが、レオポルト陛下は違う。君を超える〝真なる王〟の器量を持った方だ」
ファウストは、忌々しげに顔を歪めた。
ここまできて、今なお、僣王の追従を聞かされるなど、不愉快以上の何物でもない。
「私は、そんな陛下だからこそ、陛下の王道の妨げにならぬよう、隠遁の道を選んだ。しかしそうではなかった――」
「……」
「全ては陛下の言う通り。私の存在が王国の秩序の妨げになっているのではなかった――」
「従兄上、その決断は間違っている。貴方はここまできて、裏切るというのか?」
「ファウスト、従兄弟としてのよしみだ。今直ぐここを去れば、私も今晩の事は、胸に秘めておく」
「カイ……! 貴様……!」
先ほどまでの丁寧な物腰などかなぐり捨て、ファウストは怒気も露に、獰猛な殺気を全身に漲らせた。




