第五章 第八話(2)『三兄弟』
季節外れの寒気は、中天と共に柔らぎ、初夏に近い暑さを、プットガルデン近辺にもたらしていた。その暑気を煩わしがるように、数人の男達は、日射しを遮る天幕のようになった大樹の影で、音もたてずに佇んでいる。彼らをとりまくように、数匹の虎が、折り重なるようにその身を横たえていた。
彼らの眼下には、遠方からでも賑わいが聞こえてきそうな、大きく口を開いた港湾が広がっている。
プットガルデン近くの高台。
赤毛を器用に立たせた若者が、苛立たしげに爪を噛む。何かを言おうと口を開きかけるが、思いとどまって再び爪を噛む。それを何度か繰り返していた。
「その癖、止めろと言ったろう」
病的な顔つきの、長くまっすぐに伸びた黒髪をした男が、赤毛の若者――ルーベルト・ウルリッヒの稚気めいた癖を諌める。
咎められたルーベルトは、黒髪の男、即ち彼の兄、ロベルトにきつく視線を向けるも、何も反論はしなかった。彼の言葉を無視するように、再び爪を噛む。
ロベルトは無言で弟を睨むが、それ以上は言葉にしなかった。
出来なかったのだ。
ロベルトが全身を反応させるのと同じく、ルーベルトも背筋を伸ばして硬直する。
声は前後左右、何処とも知れずに響いてきた。
「お前達がしくじるとはな」
大樹の反対側、彼らの後方に、大小二つの人影が立っていた。
全員が一斉に視線を向ける。
「兄者……それに……!」
いつ、どうやってそこに居たのか。音も気配も、何も感じさせなかった。ゴート帝国屈指の暗殺部隊〝不死騎隊〟の精鋭達が、ここにはいるというのに。
ルーベルトのこぼした呟きを受けるように、小さい方の影が、フードを外す。
焦げ茶に近い赤毛は短く刈り込まれ、隙を感じさせない大きな瞳は鋭敏な知性が宿っている。身長はかなり低い。一般女性より少し低く、十代前半の、まだまだ子供らしさが抜けない少年と言っても良い上背だったが、顔つきがそうでない事を物語っていた。
一方、もう一つの影はやたらと大きい。六・五フィート(二メートル)以上はあるだろう。二人が並ぶと親子にしか見えないほどだ。
その大きな影から、衣擦れのような、微かな音が漏れる。
それに耳をそばだてるように、矮躯の男が顔を傾けて頷いた。
「プットガルデンには乗り込まん。我々はここで待機する」
「まさか、任務を放棄すると?!」
勢い込むルーベルトに、ロベルトが剣呑な口振りで押しとどめた。
「落ち着け、ルーベルト。エド兄者だけでなく、団長まで来られた。その意味を考えろ」
小さい方の男の名を、エドヴァルド・ウルリッヒ。
ロベルトとルーベルトの兄であり、〝不死騎隊〟一番隊の隊長である。
そして傍らに佇む大男が、彼ら三兄弟、そして〝不死騎隊〟を率いる団長であった。
フードと外套で姿は判然としないが、体躯だけではない、圧倒的な存在感。
その団長から、再び衣擦れに似たシャラシャラした音がする。
頷くエドヴァルド。
「既に幾人かは街に潜り込ませてある。仮にここから国外へ船出しようとも、すぐに分かる事だ。それに、ハーラルが外に出る事は、おそらくない。必ず帝国に戻ろうとするだろう」
「どうしてそのような事が……?」
ルーベルトの問いに対し、団長のフードから衣擦れの音。エドヴァルドが再び答えた。
「それしか道がないからだ。よいか、ハーラルが街から出たら、貴様らは号令と共に残存部隊で一斉に、ハーラル以外を片付けろ。私も加わる。皇子は、団長自ら片を付ける」
「団長が? そこまで……? しかし、もしも……もしも万が一にでも国外に出るつもりでこの街に来たとしたら? もし、逃げ去られた時は、如何いたします?」
「もし、はない」
「何故? どうしてそう言い切れるので?」
「〝閣下〟より齎された情報だ」
エドヴァルドの一言で、ルーベルトは押し黙る。
「もし、ハーラルや件の原牛の騎士だけでなく、報告にあった覇獣騎士団の連中らまで敵しようとも、私と〝エヴレン〟がいる。それに、団長も鎧獣を連れて来られているしな」
「……申し訳ございません」
「何故謝る? ルーベルト」
「団長まで出向かせてしまい……そのお力までお借りせねばならんとは……!」
「まったくだな」
ルーベルトは俯いた顔を上げた。
ロベルトも、じっとりとした視線を兄に向ける。
「お前らやお前らの部隊がそれを恥と思うなら、それを次に活かせ。だがそのまた次はないぞ。戦場で何度も次があるなどと思うな。暗殺に失敗などあってはならん。我らは帝国の不死騎隊だ」
血の繋がりのある弟達への言葉とも思えぬ酷薄なエドヴァルドの言い様に、両名と残存する十数名の隊員達は、表情を固くした。皆、死相にも似た血走った目つきに変わっている。
だがそこで、再び団長が衣擦れのような音をたてる。
その漏れ出る音を聞き、エドヴァルドが意外そうに目を見開いた。
「は……? それはどういう?」
兄、エドヴァルドの顔つきを訝しみ、ルーベルトが兄に言葉の真意を問いかける。
「団長は、何と?」
もう一度衣擦れの音。
「……成る程。私が浅はかでした」
エドヴァルドが頭を下げると、瞬時にして、団長の巨躯は姿を消していた。
見晴らしのよい高台だというのに、影も形もない。
精鋭の不死騎隊、その隊長達ですら、誰一人気付かぬままに。
「何という……。さすがは団長。本当にあの方は、化け物だな……」
まやかしの術のような、彼らの団長の技前に、思わず次兄のロベルトが感嘆を漏らした。自分達の長を化け物と呼ぶのは不敬だが、そうとしか言い様のない手練である事は間違いなかった。
何度目にしても、団長の実力は、底が知れない。
彼らにとっては、〝三獣王〟に伍すると言われる、ゴート帝国の大将軍、マグヌス・ロロですら、彼の前では及ばないのではないだろうかと思っていた。いや、確信していたというべきだろう。
「で、兄者、団長は何と?」
ルーベルトが長兄に、さっきの問いの答えを再度尋ねる。
団長の消えた場所に視線を縛り付けたまま、エドヴァルドは、独語するようにそれに応じた。
「……失敗ろうとも構わん。失敗を恐れるな。戦場に次はないと考えて安易に命を捨てる者は、真の暗殺者ではない。何度失敗しようとも構わん。九十九度しくじろうとも、最後の一度だけ、勝てばよい。そしてその最後の一度で、敵の息の根を止めさえすれば良い。それが真の暗殺者だ。不死騎隊の〝不死〟とは、何度刺されても死なぬ事ではない。何度、斃されようとも、再び立ち上がるという意味の〝不死〟だ。それを忘れるな。……そう、団長は言っておられた」
聞き終えて、ロベルトとルーベルトは強く頷いた。
その目に灯るのは、暗殺に従事する者特有の、暗い炎ではなかった。
主命のためなら如何なる事も厭わない、誇りある使命感の彩をしていた。




