第五章 第七話(4)『灰汁煮』
「ご立派に……なられて……」
人は驚きすぎると、意味のない言葉しか出なくなるものらしい。サリは喜びとも悲しみとも、何ともつかない曖昧な表情で、ハーラルの姿をじっくりと眺めた。
「母上こそ、ご壮健で何より」
「母……だなどと、畏れ多い。私はただの平民。かしこくもゴート帝国皇太子殿下の母君だなどと……口にするのも憚られます。どうかそのようなお言葉は、慎みあそばしますよう、お願い申し上げます」
ハーラルはほんのわずか、顔を歪ませた。
「いえ、それでも貴女は、私の母です」
「殿下……」
「覚えてますか? 貴女が作ってくれた、干鱈の灰汁煮。今でもあの味が忘れられなくて、宮殿でも同じものを作らせたのですが、どうにもこれがいけない。母上のようには上手くいかないのです。何というか、臭みが強いのです……。母上のはそうじゃなかった」
「そんな事より殿下、どうしてこんな所にいらしたのですか? お供の方は?」
「貴女に会いに来たのです。私一人で」
「お一人……! いけません、そんな……! もし万が一の事があったら、サビーニ皇后陛下や、皇帝陛下に何とお詫びしたら良いか!」
サリが顔を覆って嘆いていたが、ハーラルはそれには何も答えなかった。
「――宮廷の料理人が申すには、下ごしらえの段階で、何かしているのではという事でした。灰汁煮には何か秘訣があるので?」
呆れたような無表情で、サリは溜め息を漏らす。
「……材料選びがコツです。同じ干鱈でも、産地によっては仕上がりが異なってくるのです。勿論、それだけではありません。下ごしらえにも工夫がいりますし――」
「成る程、種類で味が変わるのですね。生まれだけで、そんな違いが出るだなんて。やはり魚であってもゴート産のものではいけませんか? ヴァレンシュタイン産のものなどが良いですか?」
サリが顔を上げる。目は、驚きに見開かれていた。
「私は、どちらになるのでしょう? てっきり、クロンボーの城かと思っていたのですが」
「そんな事……。殿下は紛れもなく、サビーニ皇后様のお子です」
「父はどうでしょう?」
「そんな、畏れ多い! 貴方様のお父君は、ゴスフレズⅢ世陛下です」
「……サリの子では、ないと?」
「違います」
きっぱりとした口調だ。サリの目には、固い意思が見受けられる。そしてそれこそが、逆にハーラルの疑問を更に色濃くしていた。
「どうしてそんな事を、お聞きになるのです?」
一瞬、ハーラルは答えるべきか否か、躊躇いの色を僅かながら顔に浮かべた。しかし、ゆっくりと頭を振ると、意を決して、サリの視線と己のそれを絡ませた。
「私に帝家の血は流れていない。私は……ゴート家の人間ではない」
サリは絶句する。そして即座にそれを否定した。
「何を馬鹿な。殿下は紛れもなく、皇太子殿下にあらせられます」
――違う。そうじゃない。
彼女の決然たる口振りが、彼に確信を促せる。
「教えてくれ。私の本当の母親は誰だ」
「サビーニ皇后陛下」
違う。
「本当の父は誰だ」
「ゴスフレズ皇帝陛下」
違う。嘘だ。
でも、どれが嘘で、どれが本当なのか、彼には分からない。いや、そもそも本当など、有り得るのだろうか? 全部が嘘かもしれないし、どれも真実を語っているのかもしれない。
だが違う。違った。違う事に間違いはなかった。そうであるに違いなかった。
彼女は嘘をついている。
彼女の確固たる眼差しが、反対にハーラルの疑念が真実であると裏付けていた。
それで充分だった。
「ありがとう、母上」
分かった。
充分分かった。
「殿下……」
「貴女に会えて良かった」




