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銀月の狼 人獣の王たち  作者: 不某逸馬
第一部 第五章「黄金と白銀」
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第五章 第七話(2)『王子邂逅』

 その夜の事――。

 カイが就寝前に寝酒をと思い、ペリー酒を一人で飲もうとしたら、寝床の瓶が空になっていた。

 昨夜空けてしまい、昼間の出来事で補充するのをすっかり忘れていた彼は、仕方なく新しいのを持ち出そうと、呼び鈴をならした。

 最近、酒量が増している気がするが、だからといってやめる気はない。

 バルタザールはそれも小煩く言うが、カイは聞き流していた。自分の意思で、この城に籠る道を選んでおきながら往生際が悪いと思うが、それでもずっと城にいては、どうにも気分がクサクサしてしまう。我ながら情けない話だが、酒に逃げる己の意思の弱さに、歯止めをかけようとも思ってはいなかった。


 呼び鈴を鳴らしたものの、カイの居室には誰も来なかった。

 どうしたのか?

 ここの召使いは皆優秀で、遺漏という遺漏がないのが特徴なのに、呼び鈴を何度鳴らしても来ないなど、初めての事だ。

 だからといって、カイは苛立ったり怒ったりなどしない。人のやる事だから、間違いも過ちもあるだろうとは思う。大体、身分の貴賤など関係なく、自分とて間違いだらけの存在なのに、人の事をとやかく言える立場にないと、彼は考えていた。

 それでも、そういう事とは別として、何かあったのかと思った彼は、部屋を出て確かめようと、扉に手をかけた。


 その時――。


「酒なら、ここに」


 背後から、突然の声。若い、男の声。

 カイはびくりとなって振り返ると、窓際、月光を背にして佇む、人影の姿があった。

 まるで気配に気付かなかった。

 城の中とはいえ、庭に出る事もあれば、そこで鍛錬もしている。

 庭で行う鍛錬など、実戦の場からすれば遊戯にも等しいかもしれないが、それでも彼は、かつて〝百獣王〟カイゼルン・ベルより、直接武術の手ほどきを受けた身だ。


 その自分が、この人影の存在に気付かないなんて――。


 しかもここは、城の最奥部にして地上三階。

 誰にも気付かれずに侵入を果たすなど、どう考えても只者ではない。


「何者だ」


 カイは、生白い文弱な青年という見た目だが、得てして見た目と中身は違うもの。無礼かつ不気味な闖入者に対して怯えるような弱さは持っていない。冷や汗一つかかず、男の影を誰何すいかする。

 影は燭台の明かりに誘われるように、ゆっくりとその身を曝け出した。



 長い黒髪。大理石のように透明感のある肌。深海の底のような瞳。

 あまりの造作の美しさに、カイは一瞬、目の前の男を女性かと疑ってしまう。それはまるで、美の女神(アスタルト)がこの世に降り立ったかのような、息を呑む造型の麗しさ。

 身に着けているのは、装飾品もごくわずかな、騎士スプリンガー特有の着衣。


 片手には、ペリー酒の真新しい瓶が握られていた。


「このような形で失礼する、カイ・アレクサンドル殿下。今の私の名は(・・・・・・)、ファウスト・ゼラーティ。ゼラーティ家という、カディス王国の下級貴族であった者だ(・・・・・)


 美女と言っても差し支えないほどの美男子は、顔に似合わぬ低い声で、不遜に言い放った。

 カディス王国とメルヴィグ王国東のキルヒェンは、頻繁に交流があるが、そのような家名、カイは聞いた事がなかった。

 それに、いくら美形とは言え、そちらの趣味のないカイには、不審者以外の何者でもない。

 すぐさま衛兵を呼ぼうと口を開きかけるが、続けざまに言ったファウストの言葉で、思わず声を出せなくなってしまう。


「お久しぶりです。兄上(・・)


 咄嗟に声に詰まるが、それに対する返答は、カイにとって当然のものであった。


「……兄? 何のつもりだ? 私に兄弟はおらん。貴様、いやしくもメルヴィグの王族に騙りを行うつもりか……いい度胸だな」


 しかし、ファウストと名乗る男は、カイの言葉に耳を貸さず、懐かしそうに部屋をぐるりと眺めた。


ロワール(ここ)は変わってませんね。何もかもあの時のままだ」

「……訳の分からん事を言って出鼻をくじいたつもりだろうが、どうせ、私の〝血〟を利用しようとする輩の一人であろう。だが生憎と、私はこの城を出る気はない。誰にも気付かれずにここまで忍び込んだ手並みは褒めてやろう。だが、それも無駄足だったな」

「利用? そんなつもりはありませんよ。懐かしの兄上と久闊を叙しに足を運んだまでです。このような形での訪問になったのは、いささか不本意ではありますが」


 別段、自分の機先を制する素振りがないのを見て取って、カイはすぐさま、「たれかある」と声を張り上げた。第一声の後、間もなくバタバタと足音が聞こえたのは、さすがカイの腹心といったところであろうか。


 荒々しく扉が開かれ、短弓を携え、腰に帯剣をした、老騎士が、居室に踏み込んで来た。

 老騎士、バルタザールは、カイとファウストを一瞥すると、何の躊躇いもなく、短弓に矢をつがえてファウストに向ける。


「賊め! 殿下の居室に忍び込むとは愚かな。生きてここから出られると思うなよ」


 バルタザールはただの家令スチュワードではない。数十年の長きに渡ってホーエンシュタウフェン=シュヴァーベン家に仕え、かの六〇年以上続いた東西朝の乱でも、主とともに戦場を駆け巡った、古強者ふるつわものである。その迫力たるや、殺気などという生易しいものではなかった。しかしファウストは、怯むどころか、射ってくれと言わんばかりに両手を広げた挙げ句、バルタザールに向けて笑みさえ浮かべたのだ。


「おお、懐かしいな、バルタザールか」


 不審がるが、矢の先端は微塵も揺るがない。


「賊の分際で、我が名を軽々しく口にするでない」


 カイもバルタザールから剣を受け取ると、白刃を抜き、構える。


「ファウスト、と申したな。一つ言っておくが、私は王位になど興味はない。王位とは真なる王者がつくもの。私はその器にはない。私は王者を支えるための者。それこそが我が使命。そして王者を支えんとすればこそ、私はこの城で一生を終えるのだ。王者の為に隠者となる。それこそが我が本懐よ」

「……殿下」


 視線を外し、悲しげに眉をひそめるバルタザール。

 何度も耳にした言葉だが、それでも聞くたび、バルタザールは沈鬱な思いになってしまう。

 カイ王子は暗愚ではない。智も、武も、優れた素質を持ち、本来は世に出るべき人物なのだ。それでも王子は、頑なまでに、己のシュヴァーベン家の血筋を嫌い、恐れている。それが分かっているだけでなく、王子の言う事ももっともなだけに、バルタザールは、いつも何も言えなくなってしまうのだ。


 だがそこで、ファウストは薄く、妖しく、微笑みを浮かべた。


「そうでしょうとも。〝お前は真なる王の為、その身を剣とせよ〟貴方はずっと、そう言われて育てられてきたのだから。そうでしたね?」


 カイは目を見開く。


「その言葉……貴様、何故その言葉を」


 問い直すまでもない。それは彼の祖父の言葉。幼い頃ずっと言われ続けてきた、彼の呪い――。

 そう言えば、こいつは最前から、自分を兄と呼び、懐かしげにバルタザールと口にした。この城、いや、自分の一族に関係する者か? しかし、シュヴァーベンの血統で生き残りは、自分一人のはず――。


「何故それを知っている? お前は何者だ? いや、何者などどうでもいい。どちらにせよ、私を担ぎ上げようと忍び込んだ不逞の輩には違いない。しかしさっきも言ったように、私は王位など興味がない。ましてや真なる王たる陛下の助けにならんと欲すればこそ、この城にいるのだ。万言を弄しようとも無益なだけの徒労よ。分かったら大人しくするがよい」


 浮かんだ疑念こそ、己を惑わす甘言である可能性もある。いずれにしても、早々に捕まえ、その上で問い質せばいいだけの事。相手の口車に乗せられる必要はないと判断したカイだったが、それ以前に、ファウストには隙がなかった。目に見えないほどの微妙な動きで、巧みにこちらを牽制してくる。並みの騎士ではなかった。

 そして黒髪の麗しき賊は、カイの放った言葉を、嘲笑った。


「真なる王? あのレオポルトがか? 面白い冗談を言う」


 カイとバルタザールは、不気味で妖しげなこの男の空気に、徐々に呑まれつつあった。その空気の正体が何であるか、彼ら二人にはまだ分かっていない。


「シュヴァーベン家の先々代、ゲオルクⅣ世には息子が二人いた――」

「?」


 突如矛先の変わった話に、二人は虚を衝かれる。


「長兄フリードリヒと、次兄、アルブレヒトだ。アルブレヒトはそう、カイ王子、貴方の父上。だがフリードリヒは、この国の覇権を賭けたクルテェトニクの会戦で命を失い、シュヴァーベンはカイ王子、貴方一人だけとなったと言われている。フリードリヒ王にも一人息子がいたが、その王子も、父とともに同じ戦で命を失ったとされている――」

「されている?」


 嫌な汗が背中を伝う。既にカイの脳裏に閃くものがあった。


 まさか――。


「懐かしい。本当に懐かしいな。あの尖塔には二人してよく登っては叱られたものだ」

「そんな……」

「庭園の茂み。あそこで私は、英雄神バールと竜神の戦いのお伽噺を聞かされた。貴方は語るのが上手で、私は貴方から聞かされるお話が大好きだった」


 まさか、そんな……。


 言葉にならない。

 カイもバルタザールも、自然と剣を下ろし、矢尻を下げていった。


「十一年振りかな。私の顔を覚えてないのも無理はない。無礼な振る舞いも、長い年月に免じて許してやろう」


 ファウストは、尊大な微笑みを顔いっぱいに広げた。


 蠱惑する笑み。


 悪魔の笑み。


「やっと思い出してくれたか? 従兄上(あにうえ)。そうだ、私だ。ファウスト・キルデリク・ホーエンシュタウフェン=シュヴァーベン。シュヴァーヴェン家の正嫡にして、この国の正統なる王となるべき男だ」


 二人はもう、彼の掌の上――。


 それは春の終わりに訪れた、悪夢の使いそのものだった。

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