第五章 第七話(1)『籠居王族』
曇天に春雷が谺した。春の終わりを告げている。じきに夏がやってくる。
城の窓をたたく雨音は、徐々に激しさを増しつつあった。
こんな日は、昼間でも燭台を点けなければ、書物を読む事が出来ない。気怠そうに呼び鈴を振ったカイは、召使いを呼んで、灯りをつけるように言った。カイの世話係は多くない。今のサリとかいうメイドと、他数人。あとはカイの家の家宰である老人だけである。
燭台の光が扉の隙間で揺らめき、メイドが来たのだと思ったカイだったが、意に反して、その老家宰が明かりの灯った燭台を運んできた。
あいつめ、つかまったか……。
面倒だとばかりに、大仰に首をすくめて、読み物で顔を隠すカイ。
燭台を置かれ、部屋が明るくなる。その後、足音がカイの方へと近付いてきた。
「殿下。そのような下世話な読み物など、いけないと申したでしょう」
そう言って、カイの持った本を、無理矢理取り上げる。
「何をする、バルタザール」
カイは抗議の声を上げるがバルタザールは聞く耳をもたない。
「〝黒薔薇の密議〟ですとな。何とも破廉恥な題名で。しかもこれは、黒母教の写本ではございませんか。くだらない」
「くだらないとは何だ。くだらないとは」
「ホーエンシュタウフェンが奉るのは、代々エール教です。こんな異教の書物をお読みになるぐらいなら、教典をお読みなされ」
「お前はそうやって、異教だ、破廉恥だと決めつけるが、誰が何を信奉しようが、この国では自由なんだぞ。それに本は本だ。面白いというだけで罪にはならんだろう」
そうやって、バルタザールの手から黒革の本を奪い返すカイを、バルタザールは目を薄開きにしてジト、と睨んだ。カイは思わず、ソファーから体をずらす。
「貴方の祖父様は、それが故にこの国を二分なさったのですぞ。婚儀の自由、女性の解放、男女の自由なる営み……、そんなものを題目に唱える教えを、破廉恥と言わずして何と言うのですか」
「それは黒母教の一側面だ。貴賤の解放、神の元に人が皆平らかであるという考えは、実に革新的だぞ。いかがわしいと決めつけて、物事の本質を見誤うのは、愚者の行いに等しい」
バルタザールの鋭い目つきにたじろぎながら、カイはそれでも口を尖らせて反論した。幼い頃よりこの家に仕えてきたこの老人を、カイは最も苦手としてきた。いつも口煩いわけではないのだが、こと、この街に蔓延しつつある黒母教に関しては、彼の血筋が持つ歴史もあって、厳しく咎められてしまう。
「物事の本質というのなら、殿下の本質は、城に籠って本を読む事ではありますまい」
バルタザールはそう言って、再びカイの手から本を取り上げた。
「その話は関係なかろう。それにな、いつまでも私を隠居させてくれぬ陛下が良くないのだ。私は主席官の官位など、とうの昔に返上をお願いしているのだぞ。それなのに、未だに申請を認めぬの繰り返し……。ああもういい、その話はたくさんだ」
カイはソファーから離れ、乱暴な素振りで、寝台にその身を横たえた。
「殿下……」
バルタザールは吊り上げた目を悲しげにひそめると、しばらく黙していた。
雨が勢いを弱めたようだ。
雷と雨音以外に、人の声がする。大勢の声。街中で行われている、説法の声だろう。このところ街の至る所で、頻繁に見かける、黒母教の辻説法だ。
「殿下、この本はどなたから手に入れられました?」
「……」
「城の者には、このようなものを中に入れてはならんと申し付けております。異教に傾倒した事が、シュヴァーベン一族の過ちだったのです。貴方の御父上様は、その事を一生悔いておりました。昨今、また黒母教が活発になっている中で、このような、他者に疑われかねないものを城に持ち込んではなりませぬ。さ、誰ですか。この本を殿下に渡されたのは」
カイは無言を貫こうとしているが、いずれこの老人の追求を逃れる事は出来ない。一度これと狙いを定めたら、絶対に逃さない〝無的の者〟と呼ばれたバルタザールの追撃を逃れるなど、カイに出来るはずもなかった。
「今一度お尋ねします。どなたがこの本を殿下に渡されました?」
「……フッガー商会のあの爺さんだ。立ち去る前に、面白いものを献上すると言って、密かに渡してくれたんだ。だからそれ以外にはもうない」
「ガエタノと申しましたか……、全く。では、この本は私が処分致します。よろしいですね?」
大きく溜め息をつき、バルタザールは部屋から去って行った。
しばらくして、カイは書棚から別の本を取り出す。
西方の兵法書を翻訳した本だ。しばらくはそれを読みふけるが、本を閉じ、違うものを取り出す。が、それも軽く読むと、また元に戻した。どれもこれも何度となく通読したものばかりだ。新しい書物を購ったら、たまたまそれが黒母教の写本であっただけだ。何もカイが本気で傾倒しているわけではない。
ただ、先ほど自分で口にしたように、教えの中には、それなりに興味深い内容が書いてあったのも事実だ。だからといって、自分が祖父や大祖父の轍を踏むつもりはない。ないからこそ、この城に閉じこもり、一族の血を消し去ろうとしているのだから。
カイ・アレクサンドル・フォン・ホーエンシュタウフェン。
メルヴィグ王国のれっきとした王子であり。王位継承権では第一位にあたる人物。
薄く柔らかそうな亜麻色の巻き毛と、色白で文弱気味な細面。鼻梁は高く、美形と言ってもいい顔立ちであり、社交界に出ればさぞかし貴婦人の視線を集めるであろうが、彼が女性の注目を集めた事はなかった。
繊弱そうな見た目の故ではない。
彼はこの三年間、ただの一度もこの居城の敷地内から出た事がないからだ。
彼の居城、メルヴィグ王国東方の港湾都市プットガルデンにあるロワール城から。
その理由は、彼の血筋によるところが大きい。
王家であるホーエンシタウフェン家は、七代ほど前より二家に別れ、以来、その二家から交互に国王を輩出してきた。
現・国王レオポルトの方を、ホーエンシュタウフェン=ライヒェナウ家。
カイの側をホーエンシュタウフェン=シュヴァーベン家と言った。
大祖父の代までは、それで上手くいってたのだが、祖父の代で、国王の座を巡って、王朝を二分する大乱になった。六〇年以上続いた〝東西朝の乱〟がそれである。
カイはホーエンシュタウフェン=シュヴァーベンの正統にして、ただ一人の正嫡であり、かつては国内外の様々な貴族や王族が、その血統を利用せんとした。
三年前のギシャールの乱もその一つである。
宰相ギシャールが、カイを密かに擁立して、東西朝の乱を再び起こそうと目論んだ事件。そして当時の覇獣騎士団・壱号獣隊・主席官のクラウスが、これに巻き込まれて、幽閉となった事件でもある。
――全ては己の存在、このシュヴァーベン家の血があるからこそいけないのだ。
カイはそう思い、ギシャールの乱を境に、表舞台からその身を隠棲する事を選んだのであった。
だが、彼の縁戚にあたるレオポルト王は、それでもカイに、覇獣騎士団の一隊を率いてもらいたいと願い続けているのである。彼にとっては、それは有り難くも、やはり受け入れられない相談だ。
自分が表に出れば、必ずこの血筋と家を利用しようと近付く者が出てくる。自分がそれを断っても、我知らぬ所で、勝手に画策され、勝手に人が死ぬ。止めようもなければ何も出来ない。ギシャールの乱が正にそれである。自分が切っ掛けであるのに、自分の与り知らぬ所で全てが動いてしまうのだ。これほど辛く苦しい事はない。ならば自分が表から消え、生涯人との交わりを絶てば、誰かが自分のせいで死ぬ事はなくなるだろう。
どうしようもない。
これは血族が生み出した呪い。逃れられぬ災い。
祖先が生み出した悪しき運命は、自分という代で消えればいい。本当にこの国の事を思えばこそ、自分は世に出るべきではないのだと、彼は固く決心していたのであった。
だが表舞台から消えた身であっても、己の知的好奇心は止められない。
古今のあらゆる書物を求め、文学の中で空想に耽る。
それが城に閉じこもるカイの、唯一の楽しみであり、喜びであった。それが為、黒母教由来の写本などというものまで手に入れてしまったのである。




