第五章 第六話(2)『逃亡皇子』
まだ充分なほどに体力が回復したとは言えないが、それでも必要以上に英気は養えた。
惚れ惚れするような、呆れるような目でハーラルを見続けるドグ。それもそうだろう。王侯貴族とは思えないほどの彼の食べっぷりは、およそ皇太子らしからぬ健啖振りであり、品位とか礼儀作法など、まるで感じられないほどだったのだから。
ドグの視線に居心地の悪さを感じたハーラルは、「何だ」と思わず睨み返した。
「何だじゃねえっつうの。助けてやったのに、何偉そうな態度してやがんだよ」
スープの皿を置いて、ハーラルは視線を逸らす。彼の目の前に重ねられた空いた皿の枚数が、飢えと疲労の深刻さを物語っていた。
「礼は……言う」
視線をそらしたまま、ハーラルはか細い声で呟いた。
「はぁ? それのどこが礼だよ。おめえ、皇子サマのクセして、ありがとうの一つも言えねえのか。んなだから、あんなとこで野垂れ死にそうになるんだよ」
ドグの言葉が終わるか終わらないかの間際、彼の後頭部が勢いよく音を鳴らした。
テーブルの横に座ったリッキーが、ドグをはたいたのだ。
「痛ッぇ……。何すんだよ、リッキーの兄貴」
ドグが抗議の声を上げると同時に、リッキーが彼の肩に腕をまわして黙るように指をたてた。
「バッカ……オメー、デケェ声で皇子とか言ってんじゃねーっつーの。周りに不審がられるだろーが。考えてモノを言え」
リッキーの身なりと言動の方が、充分以上に不審ではなかろうかと思うのだが、ドグはそれを口に出さなかった。リッキーを慕ってというより、それのお蔭でハーラルへの注目が逸れている部分もあるのだから、それはお互い様というとこだろう。
ハーラルは、抱えられるようにリッキーとドグに連れられ、近場の街で三日ぶりの食事にありついていた。ティンガル・ザ・コーネも、今頃は獣屋でネクタルを摂っているに違いない。
まさに九死に一生を得たというところ。偶然というべきか悪運というべきか判断に迷う結果ではあるが、彼らがあの雪道を通らなければ、今頃ハーラルは、ドグの言うとおり、路傍で野垂れ死んでいたに違いない。
「……ありがとう」
と、小さな声で、しかし顔はそむけたままでハーラルが呟くと、リッキーとドグは目を丸くして顔を見合わせた。
数ヶ月前――。
リッキーとドグは、イーリオ達と共に百獣王への密書を渡す任に着いていた。
だが途中、モンセブールという街で怪物なる異形の化け物と、メルヴィグ王国に仇なす黒母教ナーデ教団の武闘派組織〝灰堂騎士団〟の騎士達からの襲撃を彼らは受けた。その際、敵の用いた〝毒〟により、両名の鎧獣は体を麻痺させられ、イーリオと旅を共にする事が出来なくなってしまったのだ。
仕方なく、解毒が終わるまで彼らは足止めをくらう事となり、そのまま伍号獣隊の居城で数ヶ月を過ごす事となった。
ドグが不平でいっぱいだったのは言うに及ばずだが、リッキーとて不満たらたらだったという。だが無為に日々を過ごしていた訳ではない。教導騎士の弐号獣隊たる役目の通り、伍号獣隊の騎士達や、舎弟となったドグに、獣騎術の訓練を施していたりしていたのだが、やっとの事で解毒方法が判明し、晴れて二人は出立出来る事となったわけである。
幸い、国中に散らばっている陸号獣隊 の部隊からの知らせもあって、イーリオはどうやら無事に百獣王カイゼルンに会う事が出来、今は東のプットガルデンに向かっているという事を知った両名は、そのまま後を追う事にしたのだ。
公路の道行きが異なるので、途中で合流は出来ないだろうと想定していたが、プットガルデンで直接会えば良いとも考えていた。
その旅の途中、偶然にも行き倒れになりかけたハーラル皇子と出くわした、というわけであった。
「このガキんちょが、かのゴート帝国の皇太子ねェ……。ゴートの事ァよく知らねェが、どーにもなァ……」
食堂を出た三人は、人気の居ない場所を見つけて、互いの事情を話し合っていた。
「信じられねえかもしれねえけど、本当だぜ。こいつに襲われた俺が言うんだから、間違いねえし」
「それなら、あの鎧獣は何だ? ゴートの〝氷の皇太子〟と言やァ、あの〝氷の貴公子〟ティンガル・ザ・コーネが騎獣だろう。ホワイトタイガーは一緒だが、アレの授器は、どー見ても、話に聞く〝氷の貴公子〟のモノじゃなかったぜ」
リッキーが疑問を口にするのも無理のない事だ。
メルヴィグに入国するにあたり、ハーラルは身分を偽るため、ティンガルの授器を偽装させたのだ。彼の部下、エッダが連れてきたスヴェインなる錬獣術師の手によるものだが、彼自身、授器が偽装出来るなど思いもしなかったし、そんな術は初めて目にした技であったのだから。
「リッキー殿……でしたね。貴殿が言う事ももっともだが、あれは紛れもなく余の〝ティンガル・ザ・コーネ〟だ。とある術士の助力もあって授器に偽装を施したのだが――そんな事は信じられぬであろうかな」
だが意外にも、授器への偽装という話は、リッキーとドグも「成る程な」と納得してくれた。聞けば、彼らもこの半年近くの間で、奇異な技の数々を目にしてきたから、そういう事もあるだろうと理解してくれたらしい。
「だがよ、鎧獣がどーこーっつーより、そもそも何で、皇太子サマがこんな辺鄙なトコにいるんだ? たった一人、お忍びでよォ」
「一人ではない。連れもいたのだ」
「はぐれた、とかか?」
憮然としつつ、ハーラルはそれを認めた。
「じゃあ、どれぐれェの部隊で来た? 目的はナンだ?」
リッキーの目つきが少し険しくなった。
それもそうだろう。隣国の皇子が一人で他国にいるのだ。どう考えてもこれは、重大な国際問題になってしまうと言ってよいだろう。
偶々助けてしまったとはいえ、判断を誤れば、国を巻き込む大事態へとなりかねない。いや、既になっているのかもしれないとリッキーが考えたのも当然の事。
彼の豹変した目つきで、ハーラルはリッキーの思惑を、そうであろうと察っした。
「安心してくれ――と余が言うのも変な話だが、これは国事でもなければ謀略や侵略などの類いでもない。あくまで余、一個人の行う酔狂――我が侭というやつだ。部隊など当然連れていない。それどころか、先ほど言った連れというのも傭兵が一人だけだ」
「どーゆー事だ? もちっと分かり易く説明してくれねーか?」
他国であれ、本来は皇族に対してこのような口の利き方は当然許されるものではないが、リッキーは元々そういう性格であるし、盗賊あがりのドグは言うに及ばずだ。だがハーラルはこれを、〝ただの失礼な態度〟ではなく、未だ自分が信用されていないからだと捉え、どのように説明すればいいか、言葉を選ぶように考えながら喋った。
「ドグ……余がイーリオと戦い、破れた後、余は己のあるべき姿を見失い、自分自身をも見失った。あの戦いは、余にとってただの敗北ではない。余の存在を賭けた一戦であったのだ。そして余は道に迷い、己の存在を確かめるため、養母に会う決断をした」
「……?」
やがて決心するように、ハーラルは氷の瞳に似合わぬ、躊躇いの彩を滲ませながら、ポツリポツリと語り出した。
「他国にまではあまり知られておらぬだろうが、余は幼い頃、市井の貧しい家で育てられたのだ――。
余が生まれて直ぐの頃、余のいた城が襲撃に会い、その際に赤子であった余は命を落としたと考えられていた。しかし偶然、城勤めの女中が余を救い出し、以来、余は、その女性の子として、物心つくまで育てられていたのだ。
それからは、自分を救い出した女中の貧しい養家が、余の全てとなった。そこが己の居場所であり、自分の世界は貧民街であると疑いもせなんだ。しかし、余の生存が帝国の知るところとなり、余は宮廷に連れ戻された。
いい話?
いい話だと思うか?
そうだな。貧しい場末の飲み屋の息子が一変、実は帝国の皇子であったというのだから、他人ならば誰もが羨む話であろう。
しかし当時の余には、不安と寂しさしかなかった。
貧しくとも、養母から受けた優しさと温もりは何よりも大切であったし、それが余の――宝物であった。
しかしそれは、真実の身分という揺るがない現実が、未来永劫、余から奪い取ってしまった――。
そして養母は国から行方をくらまし、余は帝国の皇子として生きる決心をしたのだ……。
いや、するしかなかった。
それ以外にあの時の余が選べる生き方など、ありはしなかったのだから。
以来、余にとって、皇太子として、次期皇帝として誰にも恥じぬ、曇りない生き方をするのは当然の事となった。
敗北など当然許されぬ。
誰よりも帝国にとって相応しい人物になる事は、余の宿命となった。
しかし、それが破れた――。
イーリオ。
あの、どこの馬の骨とも分からぬ、身分低き少年。あ奴が余を破り、余の築き上げてきた全てを打ち砕いたのだ。余の十年間は何だったのか。余の決意とは、こんなに呆気なく否定されるものだったのか――と。
余は悩み、そして余の人生の意味を見出すため、自分を捨てた養母に会って、確かめる事にしたのだ」
「確かめる? 何を?」
ドグの問いに、だが、ハーラルは答える事を戸惑っていた。
暫しの沈黙の後、やがてリッキーが重苦しい間を和ますように、大仰な口調でハーラルに質問を投げかける。
「ようはアレだ。鎧獣騎士戦で負けたから、ママに会って慰めてもらおう、そんでこの国に来た。そーゆー事か?」
これは事実であっても、当然、失礼な発言であるだろう。ハーラルは激高し、ムキになって否定してくるかと思いきや、予想に反し、彼は薄ら笑いを浮かべてそれを認めた。
「――違う、と言いたい所だが、そうだな。貴殿の言うとおりだろう。余の心の弱さが為させる事だ」
「認めンのか」
ハーラルは頭を振った。
「余がここにいるのは養母に会うため。それは間違いない。その養母は、この国のプットガルデンなる港町の城に勤めているという。余がここに一人で来た理由は、養母に会うため。ただそれだけだ。信じて欲しい」
力強い眼差しで、ハーラルは二人をひたと見据える。
彼が半生を語り始めた時の、躊躇いがちだった目つきとは、正反対のもの。その言葉に嘘偽りはないのだろう。
「わーった。わーったがよ。それならそれで、何で正式な手続きでここに来ねえ? 何でお忍びで、しかも傭兵を一人連れだけで来たんだ? それに、はぐれちまった理由も気になるしな」
「正式な手続きなど踏めぬ。……その理由は言えぬが……。しかし、傭兵――ロドリゴというのだが、彼とはぐれてしまったのは、帝国からの追っ手が原因だ。襲撃を受けて、余は彼と道行きがバラバラになってしまった」
「追っ手ェ? 襲撃? 連れ戻すなら分かるが、何で追っ手なんだ? ひょっとしてそりゃあ――」
「察しの通りだ。何処の国でもよくある、宮廷内の暗闘よ。余は己の身を守りながら、一人、プットガルデンに向かわねばならぬのだ」
「成る程……。お忍びっつーのもそこら辺りが原因か……」
リッキーは察しをつけたが、ドグはいまいち理解していなかった。だが、彼の当惑よりも、これは相当厄介な事態に巻き込まれたと、リッキーはそう感想を抱かざるを得なかった。無論、リッキーの勘違いも多分に含まれていたのだが、ハーラルはあえてそれを否定しなかった。
「ドグ、かつて余はお主やイーリオらの命を奪おうとした。にも関わらず、お主は余の命を救ってくれた。その上で厚かましいのは重々承知しているが、なれど頼む。余をプットガルデンまで同行させてはもらえまいか。リッキー殿にも頼む。プットガルデンまでの道行きで良い。この国の地理には不案内だし、道に明るい者に連れて行ってもらうのは心強い。どうかお願いしたい」
西方の礼儀のように、頭を深く下げてハーラルは頼み込んだ。
一国の皇太子。それも冷徹、冷厳で名高い、あの〝氷の皇太子〟が頭を下げているのだ。前代未聞の姿をさらしていると言えるだろう。
リッキーが、返答をどうするか、答えあぐねていると、代わって横合いからドグが質問をした。
「イーリオに復讐しに来た。そうじゃねえんだな?」
「ああ」
「シャーリー……シャルロッタを取り返しに来た。それもねえのか?」
「無論だ」
「誓えるか?」
「誓おう」
「それを、俺やリッキーの兄貴が信じれると思うのか?」
「信じて――もらうしかない」
「厚かましいにもほどがあるぜ」
ドグが嘲りの笑みを浮かべても、ハーラルの目は揺るがなかった。
「先ほども言った通り、厚かましいのは分かっている。だが、何とかお願いしたい。もし、礼をというのなら――」
「おい、それ以上は言うな。俺は盗賊の出だが、物乞いじゃねえぞ。真剣だっつうんなら、人を値踏みするような台詞は、口にすんじゃねえ」
射竦めるような眼差しと共に、ハーラルが言い終える前に、その発言を遮る。
「……済まぬ。だが分かって欲しい。余の言葉に嘘偽りはないのだと」
しばしの沈黙。
ドグとハーラルは、空中で火花を散らすように、真っ直ぐと互いの視線を絡ませた。
「あと一つ。シャルロッタを奪おうとした理由。それは何だ?」
咄嗟にハーラルは言葉に詰まった。
それは帝国の秘事に関わる機密。同時に、ハーラルの〝目的〟にも触れざるを得ない事柄。
「言えねえのか?」
「言えない――場合は?」
「なら、話はここまでだ。信用出来ねえ」
ハーラルは目を閉じ、考えをまとめた。聡明な彼の頭の中では、答えはもう出ている。
「……分かった。説明しよう。ただし、旅の途次でだ。良いか?」
ドグは頷く。
両者の間で納得のいく答えが見出せたようだ。
ドグは、彼の腹も決まったのだと言わんばかりに、リッキーの方を向く――と、
――パコン!
勢いのいい音をたてて、ドグの後頭部がはたかれた。
「痛ッぇ! 何だよ、リッキーの兄貴」
「何勝手に話決めてんだ。オメーが決めんじゃねーっつーの。アホか」
呆れたように溜め息をついた後で、リッキーはハーラルを凝っと見据えた。
氷の皇太子の名は、リッキーとて耳にしていた。若年でありながら、冷厳な為政者の風格をもった皇子であるという。しかし、眼前にいる少年は、なかなかどうして。
氷蒼色の瞳の奥には、危なげすら感じさせる、若々しい炎が揺らめいている。
まるで初めて会った時のイーリオの緑金の瞳のように――。
「わーったよ。オメーを一緒に連れてってやんよ。プットガルデンまで」
「礼を――言う……。有り難い……」
言葉は固いが、表情は途端に明るくなった。もしここに帝国の人間がいたなら、ハーラル皇子はこんな顔も出来るのだと、驚いた事であったろう。
一人、納得のいかないのはドグであった。
「何だよ、結局連れてくんじゃねえか」
と、ブツクサ文句を言うと、すかさずもう一発、後頭部にリッキーの平手が入った。
「結局、じゃねえ。オメーが勝手に決めんなっつーの。ただの旅じゃねーんだぞ。陛下の命も受けてんだからな」
かくして、奇妙な三人は、プットガルデンまでを共に連れ立つ事になったのであったが――。
当然、そう簡単に話が済むはずはなかった……。




