第五章 第六話(1)『声』
ちろちろと音がする。
凍てついた川面が暖気で本来の姿を取り戻し、山間に生命の水脈を運んでいた。とっくに春の先触れも過ぎているというのに、今年の寒気はしぶとく平地にまで居残り、まだ虫達も目覚めていなかった。しかしこの分なら、目覚めの刻はそう遠くないだろう。数日もしないうちに雪は流れるに違いなく、残雪に反射した陽光が光を投げかけ、そこに雪割草が可憐で逞しい姿を覗かせている。
だが、ハーラルにそれを鑑賞している余裕はない。
我が子を抱くように体を包んでくれているホワイトタイガー〝ティンガル・ザ・コーネ〟も、もう限界に近いのではないだろうか。おそらく鎧化を出来たとして、あと一回が限度。いや、それすらも怪しい。ハーラル自身も、既に三日間、何も口にしていない。
とりあえず冷水でもいい。飢えを誤摩化せれば――そう思い、ハーラルは体を引きずるように水流の音へと近付いて行った。僅かな雪解け水を口に含み、あえぐように喉の奥へとに流し込む。
だが、空腹に冷水はよろしくないせいか、途中で寒気を感じ、それ以上飲む事は出来なかった。
連れであった傭兵のロドリゴとはぐれて、既に四日が過ぎた。
手持ちの路銀があっても、他国の地理に明るくない上に、いつ来るか分からぬ敵襲に怯えてすごしていては、どうしようもない。それでもハーラルは、一切の諦めを抱いていなかった。頬はそげ、目は落ち窪み、その周りには濃い隈が出来ていても、瞳だけは爛々と輝いている。
震える膝を叩きつける腕力さえ持ち合わせていないが、それでもどこか、村か街か、何でもいいから食べる物を得られる場所にさえ着けば――。混濁しそうな気力を奮い立たせ、一人と一頭は、鈍々と山道を進んで行く。
――四日前。
ゴート帝国本国からの追撃、不死騎隊の猛攻は峻烈を極めた。
足場の悪い山道で、それも人気のなくなった隙を狙い、部隊の隊長と名乗る男まで表れ、ハーラルとロドリゴは三度目にして最大の急襲を受けた。
二人には相当の実力も自信もあったし、ハーラルとて音に聞こえた〝ティンガル・ザ・コーネ〟の駆り手だ。加えて、傭兵として助っ人にあるロドリゴは、その鎧獣も含めて予想以上の伎倆を有していたので、何とかこれを凌ぎきれると考えたのだが、そう上手くいかないのも世の常というもの。攻防が一進一退を越え、徐々にハーラルが押し込まれつつあった際、集中が切れたのか、それとも運が良きにつけ悪しきにつけ、どちらかに傾いたのか、ハーラルは足を滑らして滝壷に落ち、そのまま呑み込まれてしまったのだ。
滑落した先はメルヴィグ王国でも名の知られた大瀑布であり、普通の人間ならば到底助かるものではないはずだった。しかし、人虎の鎧獣騎士〝ティンガル・ザ・コーネ〟であったため、ハーラルは急流で意識を失いつつも、何とか一命をとりとめ、随分と南の方にまで流されてしまったというわけだ。
余程遠くまで流されたのだろう。
意識を取り戻した際には、鎧化は解けており、ぐったりと気を失ったティンガルの姿は、一瞬、死んでしまったのかと思い違いをしてしまうほどであった。
だが何より困ったのは、途方に暮れたという事だ。
ここが何処かなど、ハーラルに分かろうはすがない。
が、まずはロドリゴと合流する事が先決だと思案したのだが、それはおそらく敵も考えている事だろう。ロドリゴに会う為に上流へと向かえば、待ち伏せされていてもおかしくないだろうし、それならばここは一旦、単独で東のプットガルデンの港町に進む事が良策だと考えられた。ロドリゴの実力ならば、あれだけの猛攻にさらされても何とか凌ぎきっている可能性が高いし、お互い生きていれば、合流出来るかもしれないと、淡い希望を抱いた。
そして、川を下流へと辿って海を目指していたはずだったのだが……。
しばらく歩を進めていたが、再び力尽きるように、雪道の半ばで膝をつく。
――そう言えば、少し前もこんなだったな。
ゴート帝国帝都ノルディックハーゲンを出奔し、たった一人であてもなく彷徨っていた際も、空腹で力尽き、路傍に倒れたのだった。
――あの時は、ロドリゴ殿が助けてくれたが……。
しかし、そう何度も都合良く、助けが来るはずもない。しかもここは、彼にとって未踏の他国。頼るべき臣下もなければ、いざとなれば帰れる場所も、何がしかのアテすらなかった。そう思うと、心細さと孤独で、寒々とした喪失感が、にわかに彼を襲ってきた。
――寂しい? 笑止な。
自嘲した笑みを浮かべ、彼は気弱になる己を、無理にでも奮起させようとした。だが、空腹はいかんともしがたい。とにかく、何か口にしない事にははじまらないが、不運にも残雪の色濃い雪道には、食料になりそうなものは見当たらず、動物もねぐらから出てきている気配がなかった。
氷の解けた川面を見つめ、そこに揺らぐ小魚を獲ろうとするも、手づかみで、しかも釣りや漁の経験もない人間が、そう易々と捕まえられるはずもなく、ただ衣服を濡らしただけに終わってしまう。
小魚一つとれない。
何とも情けない次期皇帝であることよ、と川縁に座り込みながら、再び自虐めいた笑みをこぼす。
そのまま寒空を仰ぐと、もくもくとした雲が階段状に連なっていた。それがまるで花環のケーキを連想させ、もし今、何か好きなものを食べられるとしたら、何を選ぶだろうなどと考えた。彼は様々な食事を浮かべようと呆っとした。贅を凝らした宮廷の食事は、今まで幾度となく口にしている。だが、彼がこの時頭に浮かべたのは、それらの豪奢なメニューではなかった。
養母の作った、干鱈の灰汁煮――。
クセの強い匂いのする料理なので、子供はあまり口にしないのだが、幼い頃にいた貧しい養家では充分以上なご馳走であり、何より養母サリの作る灰汁煮は、とても美味しかったのだ。
ゼリーのように舌の上で柔らかく震える食感は、岩のように固いパンなどと比べると大違いで、誕生祭や収穫祭のような特別な時にしか出なかった。皇太子となった後、宮廷料理としても食卓に出されたが、養母の作ってくれた灰汁煮とは、風味も香りも全然違っていた。
――また、あれを口に出来る時が来るだろうか。
そんな事を想い浮かべるのは、気弱になっている証拠だと、頭を振って、不毛な連想を中断する。
ふと気付けば、白虎のティンガルが、こちらに凝っと視線を送っている事に、はじめてハーラルは気付いた。
「何だ?」
それがあまりにもひたむきな眼差しだったので、思わずハーラルは声に出して尋ねる。無論、ティンガルは何も答えない。それとも、こ奴もあまりの空腹と疲労で、野生動物の本能に目覚めて自分を食べようなどと考えたのではあるまいな――。
フッと何度目かの自虐的な笑いをした。それこそ、無益で不毛な想像だ。
ここで座り込んでいても事態は好転しない。己に言い聞かせるように「行くぞ」と言って立ち上がる。
――……げよ。
誰かの声が耳を打った。
辺りを見回す。陽光を反射する残雪と、解けた雪と混ざり合い泥濘と化した地面しか見えなかった。
気のせいか?
ティンガルを見ても、何の反応も示していない。先ほどと同じように、ハーラルを凝っと見ているだけだ。
――……さ…げよ。
今度ははっきりと聞こえた。空耳ではない。確かに人の声だ。この近くに人がいるのか? ならば人里が近いという事か? 思いもかけぬ人間の声に、ハーラルの心は期待に膨らむ。
声のした方はどっちだ? 神経を集中し、再び聞こえてこないか、耳をそばだてる。
――……さ……さ…げよ。
また聞こえた。
だが、音源が分からない。まるで地から唸って出ているような。直ぐ側で聞こえているような。そう。遠くから聞こえてくる感じではない。何だ? これは何処からの声だ?
――捧げよ。
捧げよ? 捧げよと言ったのか? 一体誰だ?
ハーラルは再び四方八方に視線を巡らす。しかし、何もいない。誰一人いる気配はない。
「誰だ?! 誰かいるのか?!」
たまらず、声を張り上げてみるも、彼自身の叫びのみが残響を伴い、そのまま吸い込まれていくだけだ。
一体何だ? 森の妖怪か? それとも、幻聴が聞こえてくるほど、消耗しているという事か? もしくは自分を襲う不死騎隊どもの仕業か? どれも違う気がした。どれもその通りな気もした。
目眩がする。
ぐるぐるぐるぐると注意を走らせている内に、彼の緊張は、我知らず極度に高まっていた。
――捧げよ。
ぐるぐるぐるぐる。
目眩が更にひどくなる。
視界が狭まり、立っていられなくなってくる。
――……を、捧げよ。
何だ? 何と言った?
目眩による嘔吐感と脱力感でその場に倒れようとする彼の目に、こちらを凝っと見つめるティンガル・ザ・コーネの瞳が映った。
お前か? お前が私に問うているのか?
声に出ない。ティンガルも答えない。
ただ、視線だけが揺るぎもせずにとどまっている。
殺意でも、好奇でも、畏敬でもなければ恐怖でもない。親しさとも異なったその視線は、まるで己を鏡ごしにみているような、奇妙な空虚さだけがあった。
ティンガルの蒼い瞳が、ハーラルを映している。
――供物を捧げよ。
そのまま視界が、暗転した――かに思えた。
「おい! おい!」
誰かの声がした。
体が揺さぶられている。
目の前に男がいた。赤毛。派手な出で立ち。一目でわかる、騎士だ。
「大丈夫か? 立ったまんま気ィ失うなんて、よっぽどだぜ、オイ」
男がハーラルの体をゆっくりと座らせながら、覗き込む。
白い衣服。見た事がある衣服。男が腰をかがめると、ジャラリと鎖の音が鳴る。腰には鎖が巻き付けてあった。
「あ……貴方……か? さっきの……声…は?」
今しがた響いた「捧げよ」という声を思い出し、それは違うと、ぼんやりした頭で気付く。
「声? そらァ、声をかけたのはオレだけどよ。……しかし、一体ェどーした? 見た所まだガキンチョみてーなのによ、こんな上級の鎧獣を連れて、気ィ失うなんてな……。名は何てーんだ?」
違う。あの声はこの男ではない。
やっぱりティンガルが――?
鎧獣と会話する、または会話したかのような錯覚を覚えるというのは、腕のたつ騎士や、熟練の駆り手ならよくある話だ。それは声のようだったとも言うし、信号のように頭に閃くような感じだったと言う者もいる。
どちらも、己の愛獣との意思疎通が図れてきた証であり、直接身に纏い、感覚を共有するのが鎧獣騎士というものなのだから、それも然もありなんといったところであろう。
だが、先ほど頭に響いた声は、それらとは全く異質のものに思えた。
意思疎通などではない。高圧的な、啓示じみた物言い。
――やはり違う。ティンガルの声ではない。
大体、鎧化もせずに鎧獣の声が聞こえるなど、それこそ有り得る話ではなかった。とすれば、やはり空耳か……。そう、結論を着けざるを得なかった。
「兄貴ぃ、人助けもいいけどよぉ、急がなきゃ、そのなんたらつう街に着いても、合流できなくなっちまうぜ」
男の後ろから声がした。若い声。少年の声だ。
「プットガルデンだっつーの。覚えろよ、ッたく」
目の前の赤毛の男が少年に悪態を吐く。勿論、初めて出会う男であったが、何かがハーラルに引っかかりを覚えさせた。
しかしそれよりも、彼らの言った街の名前の方が、ハーラルには重要だったので、心に引っかかった違和感を吹き払い、思わず聞き返す。
「貴方がたは……プットガルデンに行くのですか……?」
「応よ。ン? その言い方、オメーもプットガルデンに行くってか?」
これは何という幸運だろう。
思わずハーラルは、心の中で神に感謝の祈りを唱えていた。
「お……お願いです。私も……私も一緒に、連れて行ってくれま――」
ハーラルが全てを言い終わる前に、突然上がった叫び声が、彼の懇願を打ち消した。
叫び声の主は、少年のものであった。
「て……て……てめえは……!」
少年はこちらを指差しているようだ。だが逆光になってその姿は朧げにしか分からない。
「ンだ? おいおい、まさか知り合いか?」
男が少年に振り返って聞き返しているが、少年はそれに答えず、わなわなと体を震わせている。
その足元から、二頭の鎧獣がしなやかな足取りで姿を見せた。
小型のものが一頭。
それよりも二周り以上に大きいのが一頭。
共に中・大型猫科猛獣の鎧獣。
「てめえは……あの時の……! 確か、ハーラル皇子!」
突然暴露された自分の名に、ハーラル自身が驚いた。
「誰……だ? 何故、その名を……?」
少年は近付いて、怒りとも焦りとも、何とも言えない微妙な表情を作って、ハーラルに詰め寄る。
「俺だ! イーリオと一緒にいた〝山猫〟のドグだ!」
一瞬、その名が何であるかを思い出せなかったが、イーリオという名に記憶が喚起され、それが呼び水となって、一緒に食事を囲んだ背の低い少年の顔が浮かび上がる。記憶の少年と、目の前の少年が重なりり合い、ハーラルもみるみる驚愕の表情になる。
「あの時の……! 何故?」
「こっちが聞きてえよ! てめえ、ここじゃねえだろ。敵国の皇子だろうが? 何でそんな奴がここにいる?」
今にも掴み掛からんばかりの勢いだっただけに、赤毛の男が無理矢理にドグを引き剥がして宥めた。
「ン~、何だ? よくワカんねーけど、まずは落ち着け、な? コイツはどー見ても、フラフラの死に体だぜ。コイツの鎧獣だってそうだ。今は何にせよ、とにかく移動しようぜ」
「いや、でも、兄貴……!」
「大丈夫だ。オメーと、このガキに何か深ェ因縁があるのは、充分察しがつく。が、何かあってもこのオレと――」
そう言って、赤毛の男は、彼の後ろにそっと控える雄々しい鎧獣――ジャガーを指差した。
「オレの〝ジャックロック〟がいりゃあ、ナンの心配もいらねー」
自信たっぷりに不敵な笑みを浮かべ、覇獣騎士団のリッキー・トゥンダー次席官は、ハーラルを担ぎ上げた。




