第五章 第四話(1)『原牛』
冬の日照時間は僅かなうえに、その昼間とて、曇天に覆われた暗鬱な色彩しか見渡せない。
暗紫色と鈍い蒼だけの世界。
朝まだきは暗黒で、中天になろうともなお仄暗い。暮れる前にはすでに空は暗くなっており、いわんや夜を待たずに宵闇はやってくるほど。闇の蒼と雪の白で彩りを欠いた鬱々たる街中を、金髪碧眼の少年は、黙然と歩いていた。少年の中にあったかつての覇気は薄れはしたものの、熾火のような輝きは、未だ両の目から失われていない。
だが、少年の心中とは裏腹に、中規模程度の街ですら、このとおり活気などとは無縁の様相だ。外を出歩く者は少なく、露店もなりをひそめている。
授器に必要なアロンダイトやデュランダニウムといった稀少鉱物の産出がなければ、ゴート帝国の今日の繁栄はなかったに違いない。そう思わせるほどに、冬場の帝国は生産力が乏しくなる。といっても、本国がそうであるだけで、版図を広げた征服地まで同じではない。地方から送られてくるジャガイモや鮭、鱈などといった食物に加え、皮革製品に毛織物などが大都市の冬市にもたらされ、帝都ノルディックハーゲンをはじめとした、大都市のいくつかは潤っているし、付近の衛星都市もその恩恵に預かっている。が、今この時、ゴート帝国皇太子たるハーラルのいる国境いの外縁都市までもが同じではなかった。
侘しさを絵に描いたような北国の風景は、積雪の街路を踏みしめる足取りにまで、重く枷になっているようだった。
――この街にも手掛かりはなしか。
養母を探し始めて、はや十日。
その足取りは杳として知れなかった。
とはいえ、ハーラルとて全くの手掛かりを持たずに探し始めたわけではなかった。
養母の名を、サリといった。
サリは、酒屋の女房という平民の身分でありながら、大陸公用語の読み書きはおろか、上流貴族の嗜みでもあるガリアン語にも精通し、楽器の演奏や計算まで出来た。それもそのはず、かつては後宮に仕える女官であり、それなりの出自の女性であったらしい。らしいというのは、他国との諍いの際に、彼女の身分にまつわるものは悉く戦火で失われ、これ以上の情報は調べようがなかったからに他ならない。
いずれにしても、平民らしからぬ教養を備えた彼女は、ハーラルとの別離の後、帝都を出奔し、己の技能を活かしてゴート帝国南方のとある貴族に仕えていたらしいのだが、ふとした事でそこを辞めさせられ、そのまま隊商と共に南に下ったらしいのだ。
その後の足取りは途絶えているが、南方に行ったのは間違いないし、彼女のような教養ある人間は、放っておいても目立ってしまう。
かつてはハーラルでさえ、自分という〝息子〟の帰りを待たずに彼女が生家を引き払ったという事実に打ちのめされ、その後の行方を追う事に、執着する気を失せてしまっていたのだが、今は何故か、どうしても会ってみたくなっていた。そもそも何故、皇太子たる自分が、こんな所に供もつけずに一人でいるのか。鎧獣さえも連れていない。
その理由は一つ。
養母に会いたい。
会って話したい。
それが己を憐れむだけの行為なのか、それとも過去への回帰なのかはわからない。
だが、ハーラル自身にはわかっていた。己が何故そんな真似をしようとしているのか。
それはただの甘えなどではなかった。
しかし、教養ある女性がいくら目立つといっても、際立ったほどではないだろうし、外見的な特徴など、ハーラルの記憶だけが頼りでしかない。
瞼の裏の母を、思い出と僅かな情報だけを頼りに探すなど、凍ったイティル川に沈んだ宝石を探すよりも難儀な話だ。
困難なうえに、時を経れば経るほど手掛かりも朧げになってしまう。
人の記憶も思い出も、氷河のように凍てついてしまうもの。この北国にいれば、それは尚の事。
まだ夕食には早い時刻だが、辺りは既に視界が悪い。今、戸を叩いて尋ね歩いても、玄関先で追い返されるのが関の山だろう。
不思議な事に、この時のハーラルには、自分の身分や権力を利用して養母を探そうという気は毛ほども起きなかった。考えなかったし、考えても実行しなかったろう。仮に、もしそれを行っていれば、存外その行方だけでもわかっていたかもしれない。
だが、それはしたくなかった。
自分の身一つで養母を探す。
それが、今の彼が行うべき最良の〝道〟だった。少なくとも彼自身は、そう確信していた。
……とはいえ、既に今の彼は、正しく身一つと言えるかどうか、疑問符がつくところではあったのだが。
宿泊先の宿に戻ると、暖炉の薪を消そうとする大きな影が、彼を待ち構えていた。
「収穫はなかったようだな」
影は人の形をとって表れた。
雪焼けとは異なる、野にいて彩られた精悍な浅黒い肌に、ハーラルをゆうに追い越す上背。年齢は四十を超えているであろうが、ただの加齢ではなく、積み重ねられた遍歴の数々が、彼の面差しに不敵に刻み込まれている。
男を見て、ハーラルが言った。
「もう行きますか?」
男は、荷づくろいを終えたばかりのようで、宿の部屋には何一つ残っていない。
「ああ。今晩の内にここを発つ。ここもキナ臭くなってきたしな。巻き添えを食う前に、さっさと出るさ」
「トゥールーズが今晩にも?」
「おそらくな。皇太子不在のあおりで、国境付近は妙な動きが多いらしい。トゥールーズと言っても、ようはただの跳ねっ返りが集まっただけの連中だろうが、金にならん戦闘に加わるのは御免だ」
「分かりました。私もすぐに用意をします」
すぐさまハーラルも荷物をまとめにかかった。まとめると言っても、それほどの荷は持ち合わせていないのだが。
男の名は、ロドリゴといった。
逞しい顎にクセのある黒髪の、剽悍な騎士。
四日前、往路の端で行き倒れになっていたハーラルを助けたのが、彼だ。
目の前で子供に死なれちゃあツキが落ちる――。
それが、ハーラルを助けた理由だった。
彼は自分の宿にハーラルを連れ、回復を待っている間に――といっても、ただ寝かせていただけだが――彼は彼で自身の仕事を片付け、今日ここを出発するというのである。
彼の仕事、それは傭兵だった。
戦場のあるところ、どこにでも赴く。北方だろうが大陸の向こう側だろうが、どこにでも。
そして次に彼が向かう先が南だと聞いて、自分も同行をと、願い出たというわけだ。
行き倒れの子供を助けるような奇特な人柄だからか、それとも、ハーラルの身なりから察してそこそこの身分の人間だと見抜き、何らかの見返りにありつこうと考えた打算からなのかはわからないが、ロドリゴはハーラルの同行を承諾した。
行きがけに獣屋でロドリゴの鎧獣を受け取ると、二人は暗夜の雪道を、雪明かりだけを頼りに真っ直ぐ進んで行った。
影法師になったシダレカンバの見事な三角錐状の先端が、道沿いの森の屋根からいくつも突き出ている。アムブローシュ絹製の着衣を毛皮の中に着込んでいる為、凌げない寒さではないものの、露出している顔面などは、冷気で引き攣ってしまいそうだ。
いくら鎧獣でも、この寒さで動けるというのは大したものだと、鎧獣の背に揺られながら、改めてハーラルは感心した。
ロドリゴの鎧獣は、十フィート以上はありそうな、雄々しい巨牛だ。
前方にせり出した両角が力強い希少種、オーロックス。
黒褐色の体表に、同色の授器。本来はここまでの寒冷地にいる種ではないのだが、ネクタルという人工の食物を主食とする鎧獣達に、暑さ寒さは殆ど関係ない。雪道への適応はあるが、寒さ自体は苦もなく、黙々と突き進んで行く。
背には、ロドリゴとハーラルを乗せて。
この手の鎧獣使いに多いように、ロドリゴも己の愛獣を、騎乗代わりにしていた。決して乗り心地が良いとは言えないが、鞍に似た形状の授器があるため、乗ってられないほではない。
「オーラヴ、お前さんも騎士だな?」
騎乗し、前を向いたままの格好で、後ろに座るハーラルに声をかけるロドリゴ。オーラヴというのは、ハーラルが使っている偽名だ。さすがにこの国の皇太子の名を使う訳にはいかず、以前使った偽名を、思いつきで名乗っていた。
「分かりましたか?」
「服装からじゃないぞ。身のこなしや動きを見てると、相当訓練を積んだんだなってのは分かっちまう。どんな種類を使ってきたのかも、な」
「そんなものですか」
「そんなものだ」
透き通った空気が、星空を高く見せていた。
だが、北国に住まう経験則で、この晴天もじきに崩れてくるのはわかっていた。
ロドリゴの話によれば、さっきまで彼らがいた街を、隣国のトゥールーズ公国の部隊が、攻めて来ようとしているという。それに巻き込まれてはと、晴れている内にこんな夜道を進んでいるのだが、話が本当なら、ハーラルにとっては苦々しい知らせだった。
自分が出奔した事がこうも簡単に他国に知られ、あまつさえそれに乗じて侵略を許すなど、帝国の皇太子たるハーラルにとっては噴飯ものでしかない。と言っても、事態を引き起こしたのは自分の行いからだから、責めを負うのもまた己。それゆえに、苦い思いを呑み込むしかなかった。
不意にロドリゴが、騎乗するオーロックスの足を止めた。わずかな挙動で制止をかける仕草に、熟練の技を見て取り、心密かに感心する。
――私を騎士だと看破した事といい、この男……。
だが、口からは別の質問を出す。
「どうしました? 何故止まったので?」
ほんの僅かな間をおいて、ロドリゴは応えた。その間、彼はずっとシダレカンバの森を見つめていた。
「奴さん、もう来やがったか……」
樹々が揺れていた。北風に煽られて樹木の上端がしなっているのかと思いきや、揺れは草葉の方で起こっている。それが徐々に不自然さを増す。
雪煙があがった。
騎馬だ。
鎧獣も数騎いた。大角羊の一種、ムフロンに、ユキヒツジ(シベリアビッグホーン)、ハイイロオオカミなども見える。
そして風にたなびく旗指物。
青地に三角の盾紋様。
――トゥールーズ!
もう領内の、しかもこんな内地にまで侵入っていたとは、流石に予想していなかった。
「まずいな……」
ロドリゴの呟きは、ハーラルの耳にも入った。既にトゥールーズの一軍は、こちらを視界に捉えているだろう。どう考えても追いつかれてしまう事は目に見えていた。
果たしてどう切り抜けるのか。ハーラルが緊張に身を固くしながら成り行きを注視していると、予想に反し、ロドリゴは鎧獣の足を止め、その場で地に降り立った。ハーラルにも降りるよう促す。
「どうするつもりで……?」
ハーラルの問いかけに、しかしロドリゴは答えようとしなかった。
みるみるトゥールーズの軍勢が近付き、二人を取り囲んだ。
ムフロンを従えた騎士の一人が、騎馬のままで厳めしく詰問する。
「お前ら、ゴートの人間か?」
褐色の肌に、いくつもの装飾品を身に着けている男性騎士。装飾品のどれもが金属製ではなく、動物の骨などの生体で出来ているのは、鎧化の妨げとならぬようであろう。顔にはトゥールーズ人らしい特徴的な刺青がしてある。
ロドリゴが答えた。
「いや、俺は傭兵だ。これから南に向かう途中だ」
問いつめた騎士が、ほんの少し、別の者に目配せをする。
「こんな夜更けにか?」
「組合からのお達しでね。早く来てくれと言われたんだ。普段なら明日にしてくれというところだが、実入りがいいんで引き受けたのさ」
ありがちな嘘。
だが、連中も無用な消耗は避けたいはず。そうロドリゴは踏んでいるのだろうと、ハーラルは察しをつけた。
集団は小声で何かを囁き交わすと、淀みない動作で騎馬から降り立った。そして寒さ避けの毛皮を、その場で脱ぎ捨てる。
「運が悪かったな」
ロドリゴも己の毛皮を脱ぎ捨てた。
同時に叫んだ。
「坊主、後ろに下がれ」
ハーラルも事の成り行きに全てを察した。おそらくこうなる事を、ロドリゴは分かっていたのだろう。
分かっていて、立ち向かうというのか、この男は。
辺りに緊迫感が走る。その隙を縫って、ハーラルは敵の包囲を抜け出した。敵も子供一人などどうとでも出来ると考えているのだろう。それよりも一騎とはいえ、鎧獣騎士の方に注力するのは当然の事。
慌てて距離をとりながら、ハーラルの疑問は闘争の序幕と共にうやむやに掻き消されていった。
「白化」
両者の声が重なる。
人牛の騎士一騎に対して、相手はざっと鎧獣騎士が十五騎ほど。その他にも騎兵数十人に徒歩の兵がその倍はいる。
いくら腕の立ちそうな傭兵といえど、これは多勢に無勢もいいところ。ハーラルがティンガルを纏い、加勢していたとしても、この数を相手にするのは骨が折れるだろう。
恩人のロドリゴには悪いが、ここは自分一人でも逃げなければと思い、全速で駆けるハーラル。
だが、彼の予測は、思いもよらぬ結末を迎える事になる――。
数分の後――。
月夜の光が、黒々と濡れた雪道を照らしていた。
暗くとも、それが夥しい血の跡だとはっきりとわかる。
人牛騎士となったロドリゴが、一軍を壊滅させるのに、一刻とかからなかった。
――これほどとは……。
逃げるのを途中で止め、ハーラルはその武勇に見入ってしまった。
これほどの実力者、果たして帝国にもどれほどいるだろう? 騎士団の団長でも、こうはいかない。無論、〝原牛〟とも呼ばれる巨牛のオーロックスが、かなりの等級の鎧獣であるだろう事も、関係はしているに違いない。
しかし、上級の鎧獣であったとしても、これは容易いものではない。
ロドリゴのオーロックスが光粉混じりの血に濡れた鎚矛を無造作に振るうと、残存する騎兵の内、数騎がまとめて肉片と化す。
既にトゥールーズの鎧獣騎士は一騎を残して全滅。
その生き残りも、今の一振りで、なけなしの戦意が底をついたらしい。
金切り声に似た情けない悲鳴を発して、生き残ったユキヒツジの鎧獣騎士が回れ右して駆け出すと、騎兵も馬首を返して我先にと逃げ出していった。歩兵などいわずもがな、である。十五騎もの鎧獣騎士を前に敵にしなかった相手である。騎兵の数がいくらあろうとも、露払いにもなるまい。
逃げ出した敵軍を見て、ハーラルがロドリゴに近寄っていった。
血と肉片が染み込んだ大地は、鎧獣騎士の戦闘により、泥濘となって彼の靴を濡らすが、そんな事は気にもならない。
「ロドリゴ……貴方は……」
人牛騎士の姿のままで、ロドリゴは振り返った。
白雪の中、月明かりに照らされる黒褐色の神話の獣人。
「〝アウズンブラ〟だ」
人牛は言った。
「え?」
「コイツの名前だ。アウズンブラという。聞いた事はないか? それなりに名前は売ってるつもりだがな」
ロドリゴが言っているのは、自身の纏う鎧獣の名前らしい。
聞いた事はないし、そもそもハーラルが聞きたいのはそれではない。
「だからよ、アウズンブラの名前を聞きゃ、お前さんも納得するかと思ったんだがな」
そういう事かと、ハーラルが気付いた時である。
鎚矛を大地に下ろし、視線をハーラルから逸らしたわずかな隙。
片腕がもぎ取られ、死んだかに思われていたトゥールーズの鎧獣騎士が、突如上体を起こして、ハーラルへと飛びかかったのは。
虫の息であったろうが、最後の力を振り絞り、声に反応して襲ったのだろう。
ハーラルは完全に虚を衝かれ、目の前に覆い被さらんとする人獣が、糸繰り人形のようなぎこちなさで、ゆっくりと目に映っていった。
咄嗟にロドリゴ=アウズンブラは、手を出そうとする。
充分に間に合う距離だし、苦もなく対処出来るかに思えた。
しかしその時、ロドリゴの視界を、疾風のような影が走り抜けた事で、彼の手は止められ、ハーラルを助ける事は出来なかった。
だが、半死の鎧獣騎士も、その〝影〟によって体勢を崩され、あえなく地面に落下してしまう。
間をあけず、アウズンブラの鎚矛が、死にかけの鎧獣騎士の頭骨を粉砕し、今度こそ間違いなく冥府へと送った。
へたりこみはしなかったものの、瞬きのような数瞬に起きた出来事に、ハーラルはただただ呆然となる。
ロドリゴとハーラルが、視界をかすめた影を同時に見ると、そこに影はいなかった。
声は反対側からした。
「大丈夫ですか」
天を覆う曇天の僅かな間隙を縫うように、月光が一瞬、強い光線を地に降ろした。
振り向いた先に立っていたのは、氷蒼色の授器に身を包んだ、白き美獣。妖精の国の住人かと言われれば、そのまま納得してしまいそうな、この世ならぬ美しさを持った鎧獣。誰よりも、ハーラルは知っている。その鎧獣を。
そして白き鎧獣の後ろに立つのは、声を発した主。
鎧獣とは真逆。黒衣で全身を固めた貴婦人。
白色の猛獣に、黒色の妖婦。
絵巻物にかかれたお伽噺よりも出来すぎている絵面だ。
「ティンガル……! エッダ……!」
絞るようにして出したハーラルの声は、雲間に隠れた月明かりと共に、急に吹き出した吹雪によって掻き消されてしまったかのようだった。
だが、ロドリゴははっきりと聞き取っていた。別に牛科の聴力が高いわけではない。例え聞き取れなかったとしても、彼はハーラルの声を聞き取っていたに違いなかった。




