第五章 第三話(終)『放浪』
場末の食堂は、出される食事までもが生温かった。
建て付けの悪い屋根が、カタカタと音をたてている。外の吹雪がやむ事はないだろう。北方の冬は、命までもが凍りつく。暖炉で温めているはずなのに、スープは出された直ぐ側から、どんどん熱を失っていった。放っておけば凍ってしまうだろうが、それでも少年の手は遅々として進まなかった。
冷え込みが、治ったはずの骨折に響くのだ。別に利き腕ではないのに、それでも脳髄にまで痛みが響く。
やっとの事で食事を終えると、銀貨をテーブルに置き、少年はよろよろと食堂を後にする。心配げに女将が見つめるも、人に関われるほど、この店とて繁盛している訳ではない。隙間風を直す金さえないのだ。いずれは蓄えをもって首都に店をと考えていたものの、それさえも寒空の下では忘れてしまいそうだった。
食堂にいた男が、銀貨を卓に乗せる。
「ちょっとアンタ」
釣りが多いだなどと、親切ごかして言うはずもなかった。こんな寂れた街では、お代を間違える方が悪いのだ。もっとも、少ない場合は抗議の声を荒げるが。
少年は力無さげに石畳の街路を進む。
久々の食事は、びっくりするほど味がしなかった。
塩分が足りてない、と思うも、旅費は底をついている。もともと、考えも為しにふらりと外に出てしまった自分の責任だ。だからといって、元の場所に戻りたいとは思わない。自分が今向かうべき場所は、〝あそこ〟ではない。
ではどこだ?
どこに〝あの人〟はいる?
国中に捜索の根をはっても、影も形も掴む事が出来なかった。
けれども――
街行く男に肩がぶつかり、少年はその場に崩れる。
「気をつけろ」と憎々しげに吐き捨てた男は、こちらを見向きもせずに立ち去っていった。
立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。
駄目……なのか。
運命とは、己自身で切り開くもの。
そう思って飛び出したハーラルであったが、その意思も、飢えという単純な現実の前には、立ち向かう事さえ出来そうもなかった。
――あの少年。
イーリオとかいうあの同い年ほどのあの少年なら、こんな逆境も乗り越えていくのだろうか。
そうかもしれない。
自分は皇太子として敬われつつも、幼い日の思い出を糧に、どこまでも自分自身を厳しくいじめ抜いてきたつもりであった。それでも、それはやはり、宮廷という安全な箱庭の中の厳しさに他ならなかったのかもしれない。権謀術数が渦巻くと言われるが、それとて、エッダやマグヌスといった者達が自分を守ってくれていただけかもしれない。
そもそもの始まりは、あの少女と銀狼だった。
ゴートの皇家に代々受け継がれてきた、古の習わし。
次期皇帝となるものは、宮殿地下の巨大な水槽で眠る少女の元に赴き、彼女から皇帝の託宣を授かるという。
同時に、眠り続ける銀狼の鎧獣と結印を交わす――。
父も、皇位を継ぐはずであった兄も、皆が皆、そうやって皇帝の儀式を済ませて来た。
兄が死に、いよいよ自分にその儀式を、と行ったはずであった。
託宣は下されるはずだった。
鎧獣との結印も出来るはずだった。
こんなのは形骸化した古いしきたりに過ぎない。
あの少女が何であるかなど、ハーラルも詳しく知っている訳ではなかった。だが、老いる事なく、生きているのか死んでいるのかさえはっきりしないあの少女は、五百年以上に渡り、ゴートに皇位の託宣を与えて来たのだ。そこに例外はなかった。
唯一人、ハーラルを除いて。
ゴート五百年の歴史の中で、初めて託宣が下されなかったのである。
ハーラルのみに。
サビーニ皇妃は怒り、泣き、ハーラルを励ました。
こんなものはただの無根拠な因習。皇帝の地位とは、神々に託宣されるものではなく、自分の血と力で勝ちうるものですよ。なので、気にしないでおきなさい、と。
だが、ハーラルは打ちのめされた。自分の存在が否定されたかのようなものだったからだ。
養母を振り切り、皇帝家として生きて行く決心をしたというのに、なのに、何故自分は皇位の託宣を授けられなかったのか。あまつさえ、その水槽の巫女が、銀狼の鎧獣と連れ立って突如出奔したとあっては、前代未聞の大恥である。
――そこまで自分は否定されねばならんのか!
怒りで冷酷さが剥き出しになりそうだった。
だが事もあろうに、見つけ出した鎧獣は、何処の馬の骨とも知れない少年を、駆り手としているというではないか。
皇位を継ぐべき、唯一人の人間が否定され、何故、あんな子供が認められるのか。
一騎打ちで敗北を喫した時、彼の最後の矜持は音をたてて瓦解した。
自分が研鑽して来たものでさえ、あんな身も知らぬ子供にまで否定されたのだ。高貴な生まれだという以外、自分には何の価値もないようだと、彼は気付いた。気付いた時には、彼の足は宮廷から遠く離れ、何処に向かうでもなく、彷徨い続けていた――。
今ごろ皇宮はさぞ混乱しているだろう。謀反を起こすなら、これほどの好機もあるまいと思うのだが、生憎にも、そんな噂は聞こえてこなかった。
彷徨い続けたハーラルであったが、やがてふと、母様に会おうという思いが芽生えた。
失った養母。
優しい温もりの、本当の母。
そして今、彼はうらぶれた街路の片隅で、動けないまま意識を失おうとしている。
こんなものなのか。こんな人生なのか。
悔しさが胸腔を満たし、とめどなく涙が滂沱となって流れていく。
そこへ、彼の視界を覆うように、黒い人影が被さってきた。
影は見知らぬ男だった。
影は問いかける。
「生きる気はあるのか?」
「生き恥をさらしても、生きようとするか?」
生き恥。
そんなもの、とうの昔にかき捨ててしまった。
自分が今欲するのは、温もり。ただそれだけだった。
「生きる意思があるというのなら、この手を掴め」
影が左手を差し出す。
掴もうとするなら、一度は折れた、傷の痛む左腕を動かさなくてはいけない。
微動だにしない。
体力もなければ、傷の痛みで指一本動かす事さえ叶わない。
「どうした? 野垂れ死ぬのがお前の望みか?」
影は言った。
こいつは誰なんだろう? こいつはそもそも実体か?
死に絶えようとしている自分が、最後に見せている幻かもしれない。
ならば、こいつの手を掴んだところで、助かるはずもないじゃないか。
「死ぬつもりか?」
そんな訳ないだろう。
こんな所で死んでたまるか。
なけなしの力をかき集め、ハーラルは最後の力を左腕に集中した。
動かない。
微動だにしない。
いや、そんなはずはない。
動け。
動いてくれ。
頼む、今一度――
――私は生きたいんだ。
僅かに持ち上げられた左腕を、影の男はしっかりと掴んでいた。
「よくやった」
その影は、マグヌスのようであり、ギオルのようであり、皇帝のようであった。
だが、どの人物でもなかった。




