第五章 第三話(3)『巨大恐猪』
予測不能の展開に、イーリオはただただ言葉を失っており、呼吸すらも忘れてしまうほどだった。
姿を見せた百獣王に、思わず深い息を吐くと、イーリオは勢い込んでホーラーの方を向く。
どういう事かと口を開くより先に、クリスティオが同じ事を先んじて口にした。
「どういう事だ、ホーラー卿」
口を開かないホーラーに、再びイーリオより早く、クリスティオが尋ねた。
いちいち先を越される事に、イーリオは思わずムッとなる。
「卿は知っていたのか、彼奴がカイゼルンだと」
ホーラーは「ああ」と認めた。
やがて黙したままのホーラーがぽつりぽつりと語った。
「〝証相変〟というやつだ。あの種類は滅多にあるもんじゃない」
ハビリ……?
聞き慣れない言葉に、誰もが頭に疑問符を浮かべる。
「擬態、のようなものですか?」
「そうではない。まぁ、あの阿呆は、そのように使っとるんだが」
百獣王を阿呆呼ばわりするのに、軽い驚きを覚えるイーリオだったが、目の前では既に闘争が始まりつつあり、ホーラーへの質問はここで中断を余儀なくされた。
猛猪騎士衆が、鼻息を荒げて、一斉に獣能をかける。中には出来ない者もいるが、それでも二〇騎以上が一斉に獣能をするのだ。
両足が膨張する者、腕が巨大になる者、牙が変化する者など、まさに異形異様にして、威容を誇る破壊の権化。そして野生のイノシシさながら、この者らが、一斉に飛び込んでくるのだ。当たるを幸いに、目に映る全てを次々に砕いていく様は、誰であろうと止める事は出来ない――はずだった。
一斉に突進をかけた猛猪騎士衆だが、まるで弾かれた毛玉のように、激突する手前で、次々に吹き飛ばされていく。一度攻撃し始めたら、自身でも止める事が出来ないほどの突進力であるのが、この時ばかりは災いした。まさに己からやられにいっているようである。
恐るべきはヴィングトールの力と技。最小の動きで、最速に拳を出し、爪をたてる。
悲鳴とともに、面白いように吹き飛んで行く人猪の騎士達は、猛々しさよりも、滑稽さすら浮かんでくる。
しかも、猛猪騎士衆たちは、特殊能力たる獣能も発現させているのだ。いくら特級中の特級とはいえ、擦りもせずに次々と打ち倒す姿は、十五年前の再来を否応なく想起させる。
己の両歯にひびが入らんばかりの勢いで歯ぎしりをするアル・ハーン。
勿論、見ているだけではない。彼もまた、氏族最強を自負する騎士だ。声も高らかに、己の愛獣を呼び出した。
「来い! 〝ダジボーグ〟!」
一際大きな天幕が外れ、巨大な影が、のそり、と姿を表す。
「いかん! ここは引くぞ、イムレ」
瞬時に事態の推移を見て取ったジョルトが、イムレを起こして、自身の鎧獣の元へと向かおうとする。
「しかしジョルト」
何か言おうとしたイムレだったが、有無を言わさぬ勢いで、ジョルトは彼の腕をひいた。
こうなっては収拾などつくはずもない――。
巻き込まれる前に撤退するのが懸命だと判断した。そして彼の判断は、誰よりも正しかった。
巨大な影は、大男の後ろで制止する。
全長は、十フィートを軽く超えている。ほとんど鎧化前のヴィングトールと同じであろうか。剥き出しの牙は凶々しく、顔にはコブが膨らみ、まるで悪魔の頭骨を思わせる凶相をしている。イノシシに比べて長い四肢に、巨体とも呼べる重量感のある体格。
大狼同様、ニフィルヘムに現存する個体は存在しないとされる絶滅種の大型猪。
巨大恐猪の鎧獣。
〝ダジボーグ〟。
現存する巨大恐猪の鎧獣は、僅かに四体。その全てをジェジェンが有しており、その内の一騎がダジボーグであった。
原色豊かな民族色の強い授器と相まって、まさに神話の世界から現世に迷いでた怪物のようでさえあった。
すぐさま鎧化をしたアル・ハーンは、巨大な人猪騎士の姿となる。
手に持つは、円月刀の武器授器。
向かい合うのは黄金に輝く獅子の騎士。
まさに神話の中の一ページのよう。
「今こそ積年の恨みを晴らしてくれようぞ」
遅れていた最後の数体を弾き飛ばし、悠然とした身のこなしで、百獣王はダジボーグを見つめた。
まだ、腰の大剣は抜いてすらない。全て素手のみで片付けてしまったのだ。
片手で後頭部を掻き、カイゼルン=ヴィングトールは、小さく息をついた。別に頭が痒い訳ではない。単なる人を食った挙措であった。
「ンな、特級の鎧獣まで持ち出して、いけないなぁ。勿体ないじゃない。もう入手不可能なんだぜ。それをわざわざ破壊させる必要はないんと違うか?」
「破壊? 挽肉になるのはキサマの方だ!」
いがいが声が、鎧獣騎士になる事で、何倍もの恐ろしい響きに変わっている。もう、悪魔そのものと言ってもいいかもしれない。
「〝溶融宝〟」
途端に、ダジボーグの肩から上が激しく動くと、吐き出すように大きな太い息を吐いた。巨大な頭部の、これまた巨大な口蓋からは、泡を吹いて唾液が溢れてくる。その一筋が地面に落ちると、雪もろとも、煙をあげて溶け出していった。
――獣能か?
おもむろに、ダジボーグが口をすぼめるような仕草をすると、顔を突き出すように、ブッ! と口から何かを噴き出した。
弾丸のような鋭さがあったが、カイゼルンはこれを苦もなく躱す。躱した先にはジェジェンの兵がおり、その吐き出された〝塊〟を浴びてしまう。
「ぎゃああああ」
悲鳴を上げて、兵は見る見るうちに全身を溶かしていった。臭気と蒸気をあげ、みるも無惨なわずかばかりの骨と肉になって崩れ落ちた。
――酸か。
強酸の唾液。それが奴の獣能らしい。
次々と口から垂れ落ちる唾液が、地面にいくつもの穴を穿つあたり、その考えは的を射ているのだろう。珍しい獣能なだけに、確かに紛れもない特級の鎧獣であるだろうが、見た目同様に、気味の悪いその異能は、カイゼルンを辟易とさせた。
――なんて下劣な技だよ。まったく。
続け様、ダジボーグは連続して唾液の塊を吹き飛ばした。数打てば当たると言わんばかりの滅多撃ちだが、そのどれもがヴィングトールに擦りもせず、辺りは強酸によって、無惨な姿へと次々に溶け出していった。
蒸気と臭気をあげて、濛々としていく有り様は、地獄絵図そのものようであった。
さっき視界の端で、アル・ハーンに意見した若者二人が、立ち去って行くのを見たが、これを恐れての事なのだろうと、カイゼルンは察しをつけた。
だが、今はそんな事よりも、だ――。
この惨状を片付けるしかないな、とカイゼルンは判断する。
全身のバネを柔軟にし、視界が霞んでしまうより先に、地面スレスレの低姿勢で、真っ正面から突進をかけるヴィングトール。
かかった! とばかりに酸の唾液弾を放ち、即座にダジボーグ自身も突進をかける。
強力であるが故、連続して使用すれば、否が応でも獣能にばかり意識をもっていかれる。だが本命は、ダジボーグ自身の、強力な力とスピード。そして円月刀による一撃だった。
獣能はあくまで囮。だが、攻撃をしながら獣能もそこに織り交ぜる事で、相手の手数は必然的に絞り込み易くなる。
そこをアル・ハーン=ダジボーグは狙ったのだ。
互いに突進するも、ヴィングトールは唾液を躱すために宙空で身を捻る。
そこへ読んでいたかのような、再度の唾液。これもヴィングトールは躱す。同時に、動きの取れない死地を作り出し、そこへ円月刀の一撃をお見舞いした。
だが、円月刀の刃に手応えはなく、空を斬った刃先は、そのままの格好となった。
――これも想定済み。
相手は十五年前、自分達騎士団を壊滅させた男だ。
これしきの手順で倒せるとは到底思っていない。躱したであろう先、即ち上空に視線を向けると、予測通り黄金の獅子が空に舞い上がっていた。
いつの間に跳躍したのか。その動きの全てを知り得ていた訳ではない。だが、こいつの手順は何度も繰り返し繰り返し、体に叩き込んだ。十五年間の研鑽は、今日のこの日の復讐のためにあったのだ。
「放て!」
アル・ハーンが嗄れ声で命令を発すると、何処に潜んでいたものか、まだ数を残していたイノシシの鎧獣騎士数名が、手持ちの武器授器を、力一杯投擲した。これを見事な反応でヴィングトールは弾いていくと、そのまま上空からの一撃を与えようとする。
――が、上空で身動きは取れるものではない。
ダジボーグが特大の唾液を放ち、更に自身も円月刀を構えて跳躍した。
これは躱せない。空中では低姿勢の跳躍のように、何かを利用して躱す事など不可能。
ダジボーグの獣能は、当たれば致命傷にもなりうる、必殺の技能だ。
過たず、唾液がヴィングトールの全身を叩く。身を捩らせるも、みるみる全身が溶け出す黄金の獅子。
そこへ、豪腕を奮って円月刀が一閃。
片腕を吹き飛ばしながら、背中に届くまでの深い裂傷をヴィングトールに与えた。
同時に地面に着地し、ダジボーグはとどめの一撃を見舞った。
「やった!! やったぞ! ついに悲願を達成した!」
アル・ハーンは大声で叫んだ。
「百獣王をついにこの手で! 見たか! どうだ! 何が百獣王だ! 何が大首長だ! これからは俺が百獣王。そして俺が大首長となる!」
猛猪騎士衆の騎士達も、それぞれ百獣王の首をあげていた。
ある者は苦心の末に。
ある者は他愛もなく。




