第五章 第三話(2)『黄化』
両足が地面から浮いている。
バーバリーライオンに噛み付かれ、体ごと持ち上げられているからだ。
全員が目を丸くしていた。
何故?
鎧獣は人間を襲わない。
ましてや主たる駆り手を襲うなど、絶対に有り得ない。
しかし目の前の事実は、その〝常識〟を覆していた。
離れた場所でこれを見ていたイーリオやクリスティオも同様だ。
「そんな……」
と、呻き声を漏らすので精一杯。
咄嗟にレレケの兄の事を連想するも、果たしてこれは、〝その事件〟と同じものなのか? 全くもって理解不能な事態に、これを目にしたほぼ全員が、呆然として立ち竦んだ。
「おいおい。噛みつき過ぎだ」
不意に――全員の凍り付いた感情とは真逆の、能天気な声があがる。
バーバリーライオンは、ゆっくりとした動きで、噛み付いた主、ディルク・カーンを地面に下ろした。
ディルクの右肩に血の跡がついているのは、紛れもなく噛み付かれたからに他ならない。
「お前なぁ、加減ってモンをしろよ。甘噛みっつってんだろーがよぉ。ったく、お気に入りの一張羅がボロボロじゃねーか。あーあ」
噛み付かれた際に千切られた鎖を外し、そのまま毛皮も脱ぎ捨てるディルク。
「な……な……何だ? どういう事だ?!」
理解出来ず、アル・ハーンは指をさして、ディルクに問いつめる。
一方で、何の事だと言わんばかりに、悠々とした仕草で、襟足で束ねていた長髪を解くディルク。濃度の高い金髪が、波打って流れる。クセが強い髪質のせいで、まるでタテガミのようでさえある。
毛皮を脱いだ彼の体躯も、意外なほどに引き締まった力感に溢れており、先ほどまでの卑屈な物腰など、嘘のようですらあった。
「どうもこうもねえ、甘噛みだよ、ア・マ・ガ・ミ。鎧獣が人間に、本当に噛み付く訳ねえだろ、バカか? お前」
これまた、先ほどまでとは打って変わった物言いに、アル・ハーンだけでなく、全員が思わず言葉を失う。
「な……な……」
よく見れば、顔つきまでもが違って見える。
彫りの深い四十半ばの男性。
鷲鼻や逞しい顎の線など、美形というより、男臭い伊達者といったところか。
「さっきから『な』しか言ってねえじゃねぇか。……ったくよぉ。儲け話になると踏んだんだがな。またどやされちまうよ」
バーバリーライオンが彼の傍らで身構えた。
咄嗟の仕草で、条件反射的にジェジェンの一団も身構える。
「よせよせ、〝フローリジ〟。まだだぞ」
豹変した言動と、理解不能な一連の行動に、イムレが不審げに問いつめる。
「お前……本当に何者だ?」
肩をすくめて、ディルクが呆れ顔になる。
「さっき言ったじゃねぇか。幻獣猟団の組合長、ディルク・カーン様だって」
「どうにもこれは……」
感情の読めない目をしているイムレだが、頭は大層切れる。
さっきのアル・ハーンとのやりとりとて、この男なりの目算があって行った事なのだろう。
そのイムレが、焦りというか、狼狽えているようにジョルトは感じた。
――イムレがこんな顔を浮かべるなんて。
「信じられねえってか。本当だよ。何なら問い合わせてみな。本部に行きゃ、ちゃあんとオレ様の椅子だってあるんだぜ」
嘲弄のようなディルクの返答に、アル・ハーンの忍耐が限界を超えた。いや、小さな器の容量をあっという間に盛り超したといったところだろう。
「もういい! こんなやりとりなど不毛だ! 総員!」
アル・ハーンの号令一下、タリャーンの騎士が戦闘態勢にとった。
同時に、天幕の中で潜んでいた、三〇を超える鎧獣達が姿を表し、騎士団の元に駆け寄る。
障害物があろうと、何があろうと進路を変えない直進する姿は、まさに砲弾のよう。
大猪の大部隊。
これを見たディルクが、ほう、と声に出す。
「猛猪騎士衆か。て事はアレか。アンタらはキュルトかメジェル……いや、タリャーンの氏族だな」
「小賢しい」
いがいがした嗄れ声で、アル・ハーンはディルクを睨みつけた。
全員が猪類の鎧獣で構成された騎士団。
それがジェジェンの誇る猛猪騎士衆だ。
イノシシと言えば、猪突というイメージがあるものの、どちらかと言えば補食対象という印象かもしれない。だが実際は、時に食肉もする雑食性で凶暴な荒々しい一面もあり、一対一で同サイズなら、肉食獣にも立ち向かう事さえあるのだ。
ジェジェンの猛猪騎士衆は、イノシシの持つ破壊力を引き出す事に長けており、特に集団ともなれば、その恐ろしさは大国の騎士団にもなんら譲る所ではないとされていた。
「これ以上のやり取りは無用だ。騎士団よ、こいつを轢き潰せ」
アル・ハーンの下命に、イムレが慌てて意見を述べる。
「お待ち下さい首長。こいつが何であるか、はっきりとさせない事には危険です!」
「うるさい!」
言葉と同時に飛んで来た拳を、咄嗟にジョルトが身を投げ出してイムレから外させた。
――ほう。
俊敏な動きに、見ていたディルクが感心した。
今の動き、なかなかだったな、と。
「やれやれ。若者の言に耳を貸さないで、拳で返すなんざ、ダメな大人の見本みたいなモンだぜ。仕方ねえなぁ。――〝フローリジ〟」
バーバリーライオンが巨躯を蠢かした。
「黄化」
耳慣れない言葉。
それが言い終わると共に、バーバリーライオンの巨躯が蠕動をはじめた。
波打った体毛は鼻先から尻尾の先まで、繰り返す波間のように次々と現れ、やがて見る間に、全身の毛色が輝きはじめる。同時に、授器にも変化が現れ、著しく形状を変えていく。それはまるで、白煙を上げない鎧化のようであった。
「何……だと」
アル・ハーンが絶句するのも無理はない。
体格までもが一回り巨大になっているのだ。
それに、その体毛。
全身が黄金。タテガミはくすんだ金色。
黒と焦げ茶の授器は、これまた鈍い色の黄金に変じている。
体長はゆうに十五フィート(約四・五メートル)を超えている。
「お前は……!」
姿を見せた、黄金のバーバリーライオン。
全ての鎧獣の頂点に立つ存在。
左目に装着していた片眼鏡を外し、ディルクは顔をあげた。
「〝百獣王〟! カイゼルン・ベル!」
ディルク・カーン――いや、カイゼルン・ベルは、片頬をあげて笑った。
どういう事かと問うなど、アル・ハーンの頭からは消し飛んでいた。
呪わしきその名。忌々しき怨敵。そして父の仇。
「総員、鎧化! ならびに一斉獣能!」
白煙が巻き起こり、カイゼルンは口角の両端を下げて、呆れた表情を作った。
「やーれやれ。親父と何も変わってねーじゃねぇか。しゃーねえなぁ。おい、〝ヴィングトール〟」
フローリジと呼ばれていたバーバリーライオンは、別の名で反応した。
「白化だ」
白煙が沸き起こり、瞬時に消えてしまう。そこから姿を見せたのは、巨人というに相応しい巨体へと変じた、獅子の騎士。
いや、黄金獅子の騎士王。
全身に眩い黄金の授器。
クリスティオのヴァナルガンドも金色だが、あれは金色に見えるというのに近く、ある種の色素変化だ。身に着けた授器も金色だが、ヴィングトールのそれとは違っていた。
雄々しいタテガミは、燃え盛る太陽よりも輝き、木の幹ぐらいはありそうな太い両腕は、計り知れない力感に満ちている。
猛々しい爪。腰に吊り下げた幅広の大剣は、その輝かしい戦歴から、法王自ら〝聖剣〟に比すると呼称したほど。
百獣王の鎧獣騎士。
ヴィングトールが、その姿を顕現させた。




