第一章 第五話(2)『大山猫』
期せずして、イーリオは、自身が最初に願っていたように、山賊退治に参加せずにすんだのであったが、その胸中は非常に混沌としたものであったことは言うまでもない。
――なんで鎧化できなかったんだ……?
疑問に対する答えは、まるで見当がつかない。
そんなイーリオの思いを見透かしたのか、イーリオに手を引っ張られながら、一緒にそこを離れるシャルロッタが、一言告げる。
「イーリオ、今は、ザイロウになれないよ」
彼女の言葉に、思わず足を止めてしまう。
「へ……? それってどういう……?」
「イーリオがザイロウになれるのは、あたしを守る時」
何だそれ。
条件付きの鎧獣騎士など、聞いた事がない。どこからどこまでが彼女の言う通りなのか。いや、そもそも本当に、この少女と銀狼の鎧獣は、一体何なのであろうか。薄ら寒いような思いに駆られ、言葉をなくしていると、そこへ彼ら二人の頭上から、声がかかった。
「ンな所で立ち止まってっと、危ないぜ」
不意に駆けられた声に二人が頭上を見上げると、自分たちの上方から、オレンジ色の突風が吹き下ろされた。咄嗟の事に身構えるも、突風は激烈な勢いで、イーリオの体を路地の壁に吹き飛ばす。幸い、周りに人は居ない。
肺が一瞬圧迫されたような衝撃を受けて目が眩む。何とか上体を立て直し、ふと、周りを見ると、シャルロッタの姿がいない。
――また?
だが、そうではない。ザイロウは傍らに居て、イーリオの袖を引っ張る代わりに、敵意を露に、自らの頭上に向かって唸り声をあげていた。すぐさまイーリオも、もう一度上を見上げると、屋根の上にはオレンジ色の突風の正体があった。
三角形の耳。頬髭のように伸びた、頬から顎にかけての体毛。全身は、夕日の前の空色に似た、赤味がかった茶色の体毛に覆われ、そして、赤橙色に輝く防具を着けた、筋肉で隆起した逞しい四肢。
「ガ……鎧獣! 鎧獣騎士!」
それは、大山猫の鎧獣騎士。
刀剣類は手にしていない代わりに、肩には、シャルロッタが担ぎ上げられ、拘束されていた。
「シャルロッタ!」
イーリオは叫ぶ。ザイロウも吠え声を大きくする。目が眩んだのか、最初、呆然としていたシャルロッタだったが、やがて大きく目を見開くと、イーリオの方を見て、声を大きくした。
「イーリオ!」
だが、相手は三階建ての建物の屋根の上だ。人間の脚力では、どうにも出来ない。
――鎧化さえ出来れば!
そう思うものの、先ほどの事がある。その思いを見透かすように、大山猫の人獣は、こう言った。
「悪いけど、この子は貰ってくぜ。――鎧獣騎士になれない騎士なんじゃあ、どうにもならないだろうしな」
嘲るような声。駆り手の思いを反映してか、大山猫の口元までも、片端を吊り上げたように動く。その瞳は縦に伸び、まるで意思など通じない、別種の生物である事を示していた。
――そうか、こいつもさっきの事の顛末を見ていたんだ!
だが、それに気付いたところで、どうなるわけでもない。何も出来ない自分に歯噛みするイーリオ。
「イーリオ!!」
叫ぶ、シャルロッタ。
ふと気付く。彼女の額が何やら光りを発しているのに。
だが、大山猫はそれには気付かないでいた。
「じゃあな、にいちゃん」
大山猫がそこから立ち去ろうとすると、今度は大山猫の鎧獣騎士にもはっきりわかるような光で、彼女の額から、一筋の糸のような光線が伸びた。それは真っ直ぐにザイロウへと届き、狼の額にある神之眼に光の糸の回廊となって繋がった。
あの時、ゴゥト騎士団に襲われた時に起きた光とは全く違う。だが、額からの光という点では同じであり、何より今度のは、ザイロウと同じ形状の神之眼だと、はっきりわかる形で、彼女の額に浮かび上がっていた。
そうか! 今は、彼女を助ける時だから――!
「な……! 何だっていうんだ……?」
大山猫の鎧獣騎士は、驚き、戸惑う。
イーリオは意を決して、ザイロウに視線を送った。心なしか、ザイロウまでも、先ほどとは目の色が違うように感じる。
彼は叫んだ。
「白化!」
ザイロウは、イーリオの背後から、飛びかかるように前足を高く持ち上げ、全身から白煙を吹き上げる。
体を広げたザイロウがイーリオの全身を包むと、体が一瞬、宙に浮き、持ち上がったかのような錯覚に陥った。すると、彼の全身が、瞬く間に暖かい力で包み込まれていく。
白煙はすぐに吹き払われた。
そこには、全身が白銀の体毛に覆われ、緩い弧を描く片刃の剣をさげた狼頭人身の騎士の姿があった。
大狼の鎧獣騎士イーリオ=ザイロウ。
人狼は低く唸り声をあげながら、己の頭上を目だけで睨みつける。金色に輝く眼光は、暴力的な意思に彩られ、それ以上の凶暴な敵意が、イーリオの脳内を浸食していく。
「……んなっ! 鎧化しやがっただと……?!」
野生そのものの怒気に染まった瞳に射竦められ、大山猫の鎧獣騎士は、思わず一歩後じさる。大狼と山猫。同じ肉食獣でも、格が違った。
――次の瞬間。
白銀の人狼は、大山猫のいる屋根の反対側に着地していた。
瞬足の跳躍。
「――悪いが山賊、その娘はすぐに返してもらうぞ」
睨みつけながら、己の手にした片刃の剣を、腰の防具に、納刀の形で吊り下げた。
「へっ――格好つけやがって。……けど、そう上手くいくかな? 俺の〝カプルス〟は、そこらの鎧獣と、ちょっと違うぜ?」
大山猫をまとうのは、山賊仲間の少年騎士、ドグであった。
屋根の間にある路地の空間を隔てて、人狼と人猫は対峙する。