第五章 第二話(1)『放蕩王子』
クリスティオは、何も百獣王カイゼルン・ベルに、弟子入りしようなどとは考えてなかった。
それはイーリオとかいう子供の話だ。
彼は名にしおう百獣王がいかなるものか。手合わせついでに一手指南を受けに、ホーラーのもとにやって来ていたに過ぎない。
つまりはただの興味本位。王侯貴族の道楽。
だが、仮にも一国の王族でありながら、そんな私的でくだらない理由のために、足を運ぶなど、有り得べからざる事である。しかも、供は女性が一人だけなど、余計に有り得ない。
しかし、クリスティオは違った。
彼は、アクティウム王国で最も有名な、〝放蕩王子〟にして、王国最強の騎士。
恵まれた容姿に俊英と言える文才。武の才も人並みはずれていながら、それでいておよそ労苦や辛苦も知らずに育ち、かといって、こういう人物にありがちな人間的矮小さや卑近さは微塵もない、器量の大きさも持ち合わせていた。
更に、母方の実家は、大貴族にして大陸最大の銀行家の家柄であり、金銭的な富裕さでは、生涯、困窮さとは無縁という恵まれた環境にいる。
人として望むあらゆる才と環境に恵まれた王子。それが彼であった。
それが故、彼の度重なる放埒な振る舞いも、王宮の内外のみならず、国民皆が周知した上で、「あの王子なら仕方なし」とばかりに、なし崩し的に許されていた。逆に言えば、人が羨望するものを持てるだけ持ちながら、それでも尚且つ、人を魅了してやまない王国中からの絶大な人気があるという事なのだが。
今度とて同じだ。
百獣王への謁見も、本音を言えば暇つぶし。
徒にアクティウムに居た所で、何か刺激があるわけでなし、金を使った遊びも、女性との遊びも、真面目に勉学に励む事や武芸の修練でさえ飽いていた。
しかも、彼の騎士としての技量は、王国随一であり、未だに負けという負けをおった記憶さえない。
――もしかすれば、自分は三獣王にも匹敵する、いや、それ以上の実力かもしれない……と自惚れるのも無理からぬほど。
果たしてカイゼルン公は、自分の鬱屈を晴らしてくれるような人物であるだろうか。世界は広い、などという、至極当たり前でありながら、彼自身はついぞ感じた事のない条理を、自分に示してくれるであろうか。
まるで人を食ったかのような彼の悩みをイーリオが聞けば、呆れ、憤慨するだろうと察せられた。
――だが実際には、返す言葉もなく、馬鹿馬鹿しいのか、住む世界が違うという一言で片付けるしかないとでも言おうか、何とも名状し難い表情で、彼の独白を黙って聞くしかなかった。
「まぁそういうわけだから、百獣王に首尾よく会えても、俺達は無関係だからな。妙な成り行きで、お前の用向きに俺を巻き込むんじゃないぞ」
――それを言うなら、こっちの台詞だ。
白雪が積もるヴォロミティの山道を踏みしめながら、イーリオ達一行は、ひたすら黙々と歩みを進めていた。
大陸を縦断するヴォロミティ山脈でも、このフェルトベルクの峰は、まだ比較的穏やかな丘陵をしているとはいえ、それでも過酷な山道であるのに変わりはない。山暮らしで育ったイーリオはともかく、高齢のホーラー・ブクに、この登坂は大丈夫であろうかと案じていたのだが、あにはからんや、むしろイーリオの方が遅れをとりそうになるほどの健脚ぶりを示していた。
若い者にはまだ負けん。
などというお決まりの言葉を言うまでもなく、ホーラーの頑健さには舌を巻くしかなかった。
一方、シャルロッタはというと、ザイロウの背に乗せられ、悠々と進んでいる。そこはやはり大狼というものだろう。ライオン並みの巨躯である分、小柄で体重も軽い彼女程度なら、背に跨がっても苦にはならないほどの強靭さを持っているものだ。
百獣王に会いに行くに際し、意外にも心配であった両名は、何も問題がなかった。問題はむしろ別にあった。クリスティオとミケーラの主従が、同行を申し出たのだ。いや、無理矢理着いて来たというべきだろう。
クリスティオが言ったように単なる〝暇つぶし〟であるのなら、至極迷惑でしかないのだが、かといって、ホーラーの邸宅に両名だけを残すのは、ホーラー自身が嫌がった。
「しかしあれだな。聞きしに勝る寒さだな」
温暖なアクティウム育ちであろうからか、クリスティオは身震いの仕草をして、何度目かの文句を言った。
――だったら、来なきゃいいのに。
思いこそすれ、口には出さない所がイーリオらしいと言えばらしい。
しかし当のクリスティオも、口振りとは裏腹に、真冬の夜の寒さに震えていたリッキーのように、心底寒さに弱いわけでもないらしく、ただ愚痴をこぼしているだけのようであった。従者のミケーラに至っては、そういった文句にも馴れたものなのか、主人の言葉なのに黙然と聞き流しているようですらあった。それはそれで奇妙な主従関係に見えるのだが。
実際、ヴォロミティの他の峰なら、用意もなしに登坂するなど自殺するにも等しい行いなのだが、このフェルトベルクの峰は、比較的穏やかな気温をしているため、愚痴をこぼす程度で済んでいるとも言えた。
だがそれらより。
もっとイーリオに得体の知れない圧迫感を強く与える存在がいた。
それはクリスティオの鎧獣。
見目麗しき金毛のタテガミオオカミ。
〝ヴァナルガンド〟。
アクティウム王国の王家鎧獣の一体にして、南の工聖、エンツォ・ニコラの最新作。
タテガミオオカミとは、ジャガーなどと同じ大海を隔てた大陸に棲息する犬科の補食獣で、華奢とも呼べそうな細長い姿態は、最も優美な犬科の動物だと言われている。
特徴的なのは、補食獣には極めて稀な、糸杉のように伸びた長い四肢であり、その美麗さは、まるでフラミンゴのような繊細さを感じさせるほど。そして長く伸びた美脚は、ただ美しいだけでなく、見た目以上に優れた力を有しており、イヌ科にして最速、陸上動物ではチーター類に劣らないほどの速度を生み出すのである。
最美にして最速。
大きな三角の耳と、タテガミの由来にもなった、項に長く逆立った毛並みなど、名前に反して狼のような力強い印象は薄く、実際、分類学上では狼よりもキツネ類に近縁の生物であると言われていた。
通常のタテガミオオカミならば、赤茶けた毛並みをしているのだが、このヴァナルガンドは特殊な個体であるらしく、全身が白金に近い、輝く金毛をしており、タテガミ部分など、一部のみが赤茶けた濃い金色の体毛をしている。そして、紅玉のような輝く赤で縁取られた、黄金色の授器。
一言で言えば派手。
同時に、嫌でも目につく存在感。
自分を気絶させたのが、この鎧獣なのだと思うと、王家鎧獣だというのも含めて悔しいやら納得するやら、イーリオは複雑な気分に捕われる。
白い雪道を、陽光を反射させつつ闊歩する姿は、まさに王侯貴族そのものといった感じ。
ライオンや虎と同等の体格を誇るザイロウに比べると、その華奢さも相まって、圧倒的に小さく見えてもおかしくないはずなのに、何故かザイロウよりも存在感があるように感じられた。
それは、補食獣特有の頭部を下げた歩き方ではなく、主のクリスティオの気質そのままに、胸を反らして傲岸と歩く姿から連想させられていたのかもしれない。
つまりイーリオは、単純にクリスティオが苦手――だった。




