第五章 第一話(終)『宿運』
責を負って、しばらくは東方での任に専念する事。
それが、ジュリア市の旧サン・トリエステ大聖堂に戻ったファウストに下された命令であった。
さすがに、反論の余地はなかった。予測不能の事とはいえ、結果として、あの銀狼の子供を仕留め損ねたのは事実だ。大口を叩いて、この始末――。
歯噛みするような思いではあったが、結果こそが全て。
子供の周りには、引き続き配下の者を潜ませているものの、ここから先はモニカが単独で引き継ぐ事になる。フランコは、報告だけを終えるとそのままメルヴィグに戻って内偵を。ファウストのみが灰堂騎士団総長ゴーダンの裁定を受ける事となった。
「よもや、フェルディナンドのあの王子と出くわすとはな……」
苦々しい顔で、ファウストは頷いた。
「何故、フェルディナンドの者が、あそこに――?」
ゴーダンは首を左右に振った。
あの王子の事だ。振る舞いが予測不能なのは今にはじまった事ではない。
短く嘆息をして、ゴーダンは続けた。
「不慮の事とはわかっている。だがな、これもあの口煩い大司教に対しての処置だと理解してくれ」
「わかっております」
ゴーダンの言葉に嘘はないだろう。だが一方で、それだけではない事も分かっていた。レオポルト王の密書が百獣王宛だと分かった以上、ファウストが先んじて動く必要が出たという事だ。仮にあの密書を阻止した所で、あの小賢しいレオポルトの事。第二第三の手を打っている事は容易に想像ができた。であれば、計らずともこれにより、お互いが狙っているものが同じだという事が明確になったとも言える。
即ち、漆号獣隊・主席官。
カイ・アレクサンドル王子。
ひと思いに始末出来れば良いが、そこはさすがに名にしおう覇獣騎士団の主席官。そう容易くはいくはずもない。
予定を繰り上げる事になったが、〝次の段階〟のため、ファウストは東方へと向かう事となった。
「その前に、メギスティに寄って参れ」
ゴーダンの命に、ファウストは首を傾げた。
メギスティとは、メギスティ黒灰院の事。黒母教の総本山だ。
「何故、本山に?」
「実はその事については、私も知らんのだ。神女様が直々にお前をお呼びだそうだ」
「神女様が?」
神女ヘスティアは、黒母教の大巫女。
代々その名を受け継いだ、女神の現し身。
宗派系列を問わず、全黒母教の信者にとって、最も尊崇すべき人物である。
その神女が、直々にファウストを召喚するとは――。
大司教の差し金は有り得ない。いかな大司教でも、神女に直接関与する事は不可能。謁見し、神意を問えるのは教皇のみ。もしくは目の前に居る男爵髭の男――灰堂騎士団総長ゴーダン・オラルか。
如何なる理由であるかは分からぬが、黒母教の身であるなら、神女に声掛けを貰えるなど、本来は名誉以外の何者でもない。しかし、そこに何やらきな臭いものを感じとってしまうのは、決してファウストが用心深いからだけというわけではあるまい。
この状況での呼び出し。それも、我が身一人だけの。
警戒をしても何らおかしくはないと思えた。
だが、少なくとも表面的には、喜びこそすれ拒む理由もないだけに、ファウストは一切の内面を浮かばせずに、恭しくその令を受けた。
すぐさま出立し、彼は数日後、メギスティへと到着した。
真冬の黒灰院は、荘厳さを通り越して一種の不気味さがある。
ファウストは黒母教でありながら、この不気味さが嫌であった。
まるで自分の見たくない内面に踏み込んでいくかのようで、不快さが募っていく。
到着後、すぐさま神女の住まう奥院へと赴いたファウストは、来訪の意を告げると、謁見を賜る事となった。
黒の極薄の紗幕が幾重にも重ねられた、奥院最奥の祭壇の間。
紗幕の向こう。
さらなる奥。
ロウソクの火が影のようにゆらめくそここそが、黒母教教義の最深部。
神女ヘスティアの座す場。
しきたりに習い、椅子などは設けておらず、階段状になった祭壇の一番上に毛氈がひかれ、そこに足を組む形で、神女は座っていた。
ファウストが、神女に会うのはこれで三度目。
決して少ない方ではないとはいえ、十三使徒でも緊張をしてしまうのは、致し方のない事。
大司教でさえ歯牙にもかけない傲岸不遜なファウストでさえ、それは同じであった。
齢にして二〇〇歳を超える、今代で三代目の〝ヘスティア〟。
代々神女に選ばれた巫女は、その時から長命となり、五〇〇歳以上という信じられない齢を持つという。しかも、死ぬその間際まで、少女のような姿を保ったままであるとも言われていた。
幾重にも重ねられた紗幕でその姿は影としか見えないが、十代の少女のような声は、まさにその事実を裏付けていた。
「よく来た。ファウスト・ゼラーティ」
低頭し、思わず声も出せない。
生ける神の代理が、こんな間近にいるのだから――。
「はるばるとご苦労であった」
「滅相もございません。して、本日はいかな思し召しでございましょうか?」
絞り出すように返答をする。何故だ。自分が何故、ここまで畏れを抱くのか。ファウスト自身にも理解出来ぬ感情が渦巻いていた。
「ゴーダンより報告を受けた。その方は過日、銀狼の鎧獣と、銀髪の少女を見たそうですね」
思わず顔を上げる。両脇に侍る巫女が不快に眉をしかめるも、それに気付く事さえなかった。
「は……。我らが目的のため、排除せんと――」
「ならぬ」
「は……?」
「その者らを手にかけてはならぬ」
「それは一体?」
疑問を口にしたファウストを、今度は遠慮なく、左右の巫女が叱責した。
「ファウスト卿! 神女様を疑うのか!」
鈴を鳴らすような音が堂内で響き、巫女達の声を遮った。
神女が手を動かしたようだ。おそらく装身具の音であろう。
「よい。ファウストの申す疑念、もっともである。詳しくは申せぬが、これは女神オプスの神託である」
言葉の最後を力強く言うと、巫女達は恭しく「ははっ」と頭を垂れた。ファウストも条件反射でそれに倣う。
「彼の者らを弑してはならぬ。狼は捕えよ。少女はここに連れて参れ」
「しかし神女様。既に我ら十三使徒の者が、少年らを狙っております。そのような思し召しなれば、すぐさま知らせねば――」
「それはよい」
「……?」
「彼の者らは、お前と再びまみえるであろう。必ず。その時、彼の者らを捕まえればよいだけの事」
「十三使徒が、破れると……?」
「あれを害せるのは、その方だけ。その方が害さなければ、あれが死ぬ事はない」
百獣王への密書を持ち、レオポルトの密使となった少年。
ゴート帝国の皇太子、ハーラルとその鎧獣ティンガル・ザ・コーネを退けたという事実は大したものだが、それほどまでに、あの鎧獣は、重要だというのか。たかが鎧獣一体に過ぎないのに。それに、少年よりも連れの少女が大事だという。これは一体、如何なる意味であろうか。
「もしや神女様……、あの狼の鎧獣、ウルフバードを持つとでも……。それは有り得ません。ウルフバードはイーヴォ師が作り出している最中です。本物は、既に我らの手にございますれば、あれはおそらく紛い物」
ファウストの反論に、左右の巫女が再び叱責を飛ばした。
「ファウスト卿!」
しかし、当の神女が動じる事はなかった。
「その方が疑念を挟む事ではない。これはイーヴォも存じておる事ゆえ」
――イーヴォ師が? 一体何が起こっている?
「近いうち、その方は必ず彼の者と再びまみえる。これは定められた宿運と心得よ。よいな、しかと命じたぞ」
奥の院を出たファウストは、同じこの黒灰院にいる、イーヴォの居室へと向かった。しかし、珍しく彼は出かけており、その真意を確かめる事は出来なかった。
――宿運だと……?
目に見えぬ力は信じぬ。
教義に身を置く今であっても、ファウストは実利的なものしか信じてはいなかった。宿命だの運命だの、そんなものは現実を己で切り拓けぬ、弱者の言い訳でしかない。
人事を尽くさぬ者に、未来などあろうものか――
図らずも、離れた地にいるイーリオも、ファウストと同じような決意を胸に抱き、一歩を踏み出さんとしていた。
ならばこれこそまさに、人智の知れぬ宿運と言えたであろう。
しかし、そんな事は、神のみぞしか知る事が出来なかった。
そう。
同じ頃、彼ら二人も知り得ぬ遠く離れた地で、もう一人の運命が、同じような事を考えていた事など……。
黒灰院のあるウンタースベルク山に、吹雪が起き始めていた。
今日はここに泊まるしかないであろう。そう思うと、いささか暗鬱な思いにとらわれるファウストであった。




