第五章 第一話(1)『山小屋』
目覚めると、そこは見た事のない部屋だった。
防寒性の高い白漆喰の壁をした部屋には、湯煎の音が響き渡ると共に、若干の獣臭さの混じった、煮込み料理のような、ふくよかな香りがたちこめていた。同時に、自分がひどい空腹だという事に気付いたイーリオは、額に乗せられている水気の失せた手巾を枕元に置き、痛む後頭部を抑えつつ、寝台から体を起こした。
衣服は寝間着に改められている。
寝台の真横には、寄り添うように白銀の体毛をした巨大な狼――絶滅種の大狼、その鎧獣であるザイロウが、四肢をおろしていた。
状況を理解しようと、窓際に近付いて外を見る。
それに気付いたザイロウが、耳を小刻みに動かし、鼻をならした。動いて大丈夫かと、問いかけてくれているのだ。その気遣いに、大丈夫だと笑みを返すと、「あっ、そう」とそっけないと言わんばかりに、再び目を閉じて前足に顎を乗せた。
それはそれで薄情だと鼻白むが、まぁ、ザイロウだし……と思い直して、再び窓を見た。
蒸気で曇った窓をこすって、最初に目に飛び込んだ景色に、イーリオは思わず息を呑んだ。
そこは、一面の銀世界。
「これは……」
白雪が陽光を反射し、眩い光の粒子が、きらきらと世界を彩っていた。
呆気にとられていると、銀世界の中、白い毛皮を覆った銀髪の少女が、重そうに水桶を運ぶ姿が目に入った。
――シャルロッタだ。
シャルロッタがいる。
自分以上に無事な彼女の姿を認め、ほっと胸を撫で下ろすと、まるでその油断が伝わったかのように、彼女が雪に足を取られ、転びそうになった。
あっ! と思って思わず目を瞑るが、予想に反し、彼女は転んでいなかった。
ゆっくりと目を開くと、水桶は中身をまき散らしていたが、彼女の体はしっかりと支えられていた。
見た事のない男に。
背の高い、黒髪の男。
男が咄嗟に、彼女を支えたのだ。
しかも腹立たしい事に、不必要なまでに馴れ馴れしい。彼女の裾を丁寧に払い、朗らかな笑みを浮かべている。彼女も彼女で、ありがとうと笑っている。
――何?
シャルロッタに社交性はない。
警戒心の強い幼子のように、基本、人に積極的に笑いかけたりなどしない――はずなのに。
けれども、目の前の二人は、まるで見知った間柄、いや、それ以上に仲の良い二人のように、親しげに微笑みあっている。
推し量ったようなタイミングで、後頭部の鈍痛が鐘を打ったような痛みを響かせ、思わずイーリオの口から呻き声が漏れる。
――何だよ、もう。
痛みに対する悪態のつもりだが、心中、むくむくと苛立ちに似た感情が沸き上がってくるのは、何も鈍く痛む後頭部のせいばかりではないようだった。
見れば、二人は連れ立ってこちらに向かって来ている。
別にやましい事もなければ、臆する事もないはずなのに、何故だかイーリオは、二人を見ていた事にいたたまれない気分になって、急いで寝台へと戻っていった。毛布を被ると、もやもやとした思いが、沈殿していくのがわかる。
それがまた、たまらなく嫌だった。
やがて外に通じる部屋の扉が開かれると、屋内まで白く染めそうなほどの冷気と共に、二人が部屋に入って来た。
体を起こしたイーリオが、二人を見る。
シャルロッタはこちらを見て、飛び出さんばかりに目を開けると、手にした水桶を足元に落とし、そのまま「イーリオ!」と言って、駆け寄って来た。
飛び込むように抱きつくシャルロッタ。
ああ、良かった。彼女だ。
妙な安心感に包まれながら、イーリオは彼女の温もりを感じとっていた。
シャルロッタは、イーリオの顔を覗き込んで言った。
「大丈夫? もう平気?」
「うん。大丈夫。まだ、頭は痛むけど……。ところで、ここは何処?」
言葉の終わりと共に、再び外への扉が開き、今度は厚手の毛皮を纏った別の女性が入室してきた。
「この人たちは……?」
男の方が、長い両腕を無造作に広げると、後から入室した女性が、恭しく彼のコートを脱がしていった。コートを脱いだ男は、これまた長い両の足を投げ出すように、近くの椅子に腰を下ろす。
二人は、主人と従者そのものだった。
しかも二人とも、絵に描いたように整った容姿をしている。
特に男の方。柔らかそうな黒髪は、黒絹のように艶やかで、長い睫毛は天鵞絨色の瞳を濡れたように覆い隠している。健康的に焼けた褐色の肌と、瘦身気味に引き締まった体躯。だが、何より目を惹くのが、女性ならば誰もがうっとりとなり、男までもが惚れ惚れとする、彼の端正な顔立ちだ。そしてその身を包む絹製の服も、高級なアムブローシュ絹で出来た一級品。長く立てた襟に、腰には一風変わった腰布を巻いている。
対して女性の方も身のこなしに隙がない。
眼鏡をかけた顔立ちは、多少険の強い、無機質さを漂わせているも、明らかに美女と言われる部類の容姿は、こちらも男性にひけをとらない。ただし、団子状にまとめた黒髪や、色気の少ないアクティウム様式の衣服は、動きに制限を持たせないためとはいえ、華やかな男に対して、積極的に控えめにしているかのようであった。
「あの人はクリス。あっちがミケーラ」
男性と女性を交互に指差し、シャルロッタが説明をする。
で? と思わず問いかけ直したくなるが、シャルロッタからすれば、充分な説明を果たしたつもりだろう事は、言わずとも察せられた。
二人を見て、改めて礼を言おうと口を開きかけるイーリオに、男が片手を上げて、それを制した。
「俺をクリスと呼んでいいのは、美しい女性だけだ。男はちゃんと、敬意を払ってクリスティオ様と呼んでくれ」
文字通り、空いた口が塞がらない状態で固まったイーリオは、続け様にクリスティオなる青年の言葉を聞いてしまうはめになる。
「しかしまぁ、君は何とも長い間寝ていたものだ。それだけ寝ていればもう大丈夫だろう。……早速で悪いが君、薪をとってきてくれたまえ」
「……え?」
「聞こえなかったのか。薪だよ。暖炉にくべる木片だ。ここは寒くてかなわん。薪をきらせて火種が消えては凍えてしまうぞ。さ、早く行くんだ」
イーリオは二の句が継げずに、何だ? 何を言ってるんだ? と頭の中を疑問符で一杯にした。
イーリオが黙っていると、クリスティオは不快げに眉をしかめ、
「何を惚けている。それとも何か? まだ頭の中は充分ではないのか?」
と、続けた。
「いや……何で僕が、薪を……?」
「馬鹿か君は。シャルロッタ嬢は乙女だぞ。彼女にそんな事をさせるとでも言うのかね?」
シャルロッタ嬢だって? 何だそりゃ? それにその言い草。
イーリオは沸々とむかっ腹が立つ自分を意識していた。
「だから、何で僕が?」
イーリオの返答に、心底呆れた表情をするクリスティオ。整った顔なだけに、相手を侮蔑した表情には、一段と小憎らしさが浮かんでいる。それもまた、イーリオには腹立たしかった。
「君以外に誰がいるというんだね? いちいち口答えするものじゃないぞ。さ、早くしろ」
――いや、自分で行けばいいだろう。何なんだ、この人は?
どういう身分かはわからないが、心底鼻持ちならない尊大な態度に、イーリオが睨んでいると、クリスティオの傍らに控えていたミケーラという女性が、彼に耳打ちをした。
「若様。この者は、若様の付き人ではない、そう言っておられるのでは」
ひっそりと告げるような音量ではない。露骨にイーリオにも聞こえてくる。
「ああ……、そうか。そういう事か。――ならそうだな、ミケーラ、金貨を」
そう言って、片方の手の平を差し出すと、ミケーラがそこへ金貨を数枚置いた。
クリスティオはその内の一枚を手に取ると、イーリオの座している寝台の上に、無造作に放り投げた。
「これで薪を取って来てくれ。ここは暖房が切れると寒くてかなわんのだ。急いでくれよ」
「何、これ……? 一体、何の真似?」
「駄賃だよ、薪運びのな。薪運びで金貨一枚だ。とんでもない額の報酬だぞ。まさか不服とは言うまい?」
呆れるのを通り越して、怒りしか湧いてこない。
ここまで人を侮辱した男も珍しい。
「貴方は一体、さっきから、何を言ってるんですか。どうして僕が、見ず知らずの人のために、何かすると思うんですか? それもいきなり表れて」
さすがに、イーリオが怒りを見せている事に気付いたのだろう。だがそれでも、尊大な態度は何も変わらない。クリスティオは、わざとらしく、おやおやと言って立ち上がった。
「大した言い草だな。俺は君の命の恩人だぞ。薪運びの一つや二つで噛み付くんじゃないよ。それとも君もあれかな? 体で躾けられなければ分からないクチかな?」
寝台に近付くクリスティオに、咄嗟に「離れて」とシャルロッタに言って、飛び降りるイーリオ。同時に、彼の目の前には、視界を塞ぐように、長身が立っていた。
片腕が無造作に掴まれる。
手首を捻ってこれを振りほどき、そのまま当て身を食らわす挙動に移るも――
それは出来なかった。
掴まれた腕を基点に、全身が大地に縫い付けられたように制止がかかり、イーリオは何一つ体を動かせなかった。
――?! この力?
覇獣騎士団のリッキーに、獣騎術の手ほどきを受け、実戦でも経験を積んできた自分だ。まだまだ素人武術とはいえ、まさかこんな風に軽いあしらいをされるなんて……!
狼狽えていたのも瞬きほどの寸暇。
突如、イーリオの視界がグルリと廻り、体が宙に浮く。
驚くべき事に、そのまま全身が風車のように一回転した。
跳ね上げられた全身が元の位置に着地すると、掴まれた腕が捩じ上げられた格好になっていた。
激痛で体をよじらせると、クリスティオが耳元で囁いた。
「さ、これ以上痛い目に合わない内に、薪を取って来るんだ。男に優しく出来るのは、一度までだぞ」
そう言って、掴んだ腕を離すと、突き飛ばされる格好でベッドの上にイーリオは倒れ込んだ。
傍若無人で尊大極まりない態度の男。
それと仲良くするシャルロッタ。
イーリオの頭が混乱の極みに達しそうになっていたその時。
外に通じるのとは別の部屋の扉が、勢い良く開かれた。
イーリオが条件反射でそちらを見れば、同時に新たな闖入者が駆け込んでくる。
闖入者は、色の派手な帽子を被り、手には液体を張った盥のようなものを抱えて、慌ただしく目の前を通り過ぎていった。そのまま暖炉に近付き、湯煎のされている鍋のようなものを覗き込んだ。
盥と鍋を交互に見比べ、何かをぶつぶつと呟いていたかと思えば、鍋の火元である暖炉を睨みつけ、大仰に独り言を放つ。
「何じゃこりゃ。消えかかっとるがな。殺す気か」
次から次に表れる見知らぬ状況に、イーリオが反応出来ずにいると、新たな闖入者はぐるりと周囲を見て、イーリオを目に止める。
思わずイーリオも身構える。
「おい、薪を取ってこい」
無造作に、派手な帽子の男は言った。
「は?」
今度はこのじいさんまで、同じ事を言ってる。何なんだ……。
「早くしろ。殺す気か、コイツを」
思考の追いつかないイーリオは、鸚鵡返しで「コイツ……?」とだけ呟いた。
「授器の〝骨〟だ。湯が冷めたら、ただの出汁殻になってしまうだろうが。早くせんか」
一方的に早口でまくしたてる男は、高齢の割に、矍鑠どころか有無を言わせぬ迫力さえあった。
年齢は父・ムスタと同じぐらいだろうか。髭は薄く、鷲鼻が印象的な顔立ち。何より目を惹いたのは、出で立ちの珍妙さだった。防寒のための一式だろうが、帽子は原色があしらわれた、派手な色。衣類は錬獣術師然としたものだが、色遣いがこれまた赤に黄色と目に刺さる。まるで旅芸人でもあるかのような派手さは、どこかイーリオの既知に触れるものを感じさせた。
「ええい、何をモタモタしておる。さっさと動け」
半ばその迫力に押される形で、イーリオは尻を蹴られるように戸外へ薪を取りに行った。
「何で僕が……」
自然と不平が口をついて出るが、これは不平というより理不尽の内だろう。大体、ここがどこだかも分からないのに、薪を取って来いだなんて――。
寝間着のまま外に出たので、寒さに身を奮わせて、周囲を見ていると、その身にふわりとした毛皮がかけられた。
振り向くと、さっきのクリスティオの傍らで控えていた女性、ミケーラが、肩に毛皮をかけてくれたのだ。
「あ……ありがとうございます……」
クリスティオがかなりの長身だから分からなかったが、女性にしては背が高く、イーリオよりも上背がある。華やかさの代わりに、凛然とした近寄り難い高潔さが全身から漂っていた。
「あちらです」
「え?」
ミケーラが指差す方に、木造の小屋があった。
「それでは」
短く告げた後、彼女は再び屋内へと帰って行った。
――手伝ってくれるんじゃないんだ。
だがそれでも、毛皮をくれて場所を教えてくれただけ、マシというものかもしれない。イーリオは長い嘆息と共にそう思い直し、全く気乗りのしない足を引きずるように、薪のある小屋へと向かった。




