第四章 第十話(2)『婚約』
夜と朝が融けあっている。
蒼白い景色に街が染まっているような時刻に、イーリオ達は出立した。
街の辻や足元には、乳色の靄が薄く這っており、日が昇る前の先触れを見せている。その下には、冬の山間部なだけに、夜露が霜となって降り、地面の雑草を白く光らせていた。
本来であれば、マテューの連れている豹などにとっては、このような寒さは耐えられるものではないのだが、彼の連れているのはただの飼い豹ではない。鎧を身に着け、額に輝く宝石を持った人造の猛獣、鎧獣である。体内をネクタルが循環する鎧獣にとって、寒さ暑さはさほど苦ではない。
乗馬の蹄鉄が、霜で凍り付いた地面を踏みしめる。その音が耳朶をうち、吐く息の白さが気温の低さを物語っているが、鎧獣達は平然としたもの。
マテューは部下の騎士二騎と共に、イーリオらを囲む形で歩みを始めた。
マテューと会うのは、王都レーヴェンラントで別れて以来である。
イーリオにとっては馴染みのある一人であり、昨日のような事があった翌日とあっては、歴戦の猛者たる覇獣騎士団の仲間がいる事は、とても心強いものであった。
そもそも何故、弐号獣隊の騎兵長であるマテューがここにいるのか。
無論それは、王陛下たるレオポルトと、弐号獣隊の隊長、ジルヴェスターの命によるものである。
王都にいながらも、陸号獣隊 ら神速の諜報部隊による報せにより、いち早く百獣王がオルペ領を発ったと知ったレオポルトは、早馬でイーリオらの増援を出すように指令をだしたのであった。大国の王が、一介の少年騎士風情に、ここまで微細な手配りをしてくれるという事自体、非常に異例中の異例であるが、それによって主力騎士団が部隊を派遣するという事も、本来有り得べからざる事でもあった。
「それは主席官が、貴方を気に入ってるからですよ」
にこやかに答えるマテューには、さすがリッキーのお守役(と言えば、本人もリッキーも嫌がるのだが)らしく、穏やかで信頼のおける頼もしさがあった。
弐号獣隊の主席官ジルヴェスターが、いつかは入隊をして欲しいというまでに、いたくイーリオの事を気に入っている事を指しての発言である。イーリオは苦笑すべきか嬉しがるべきか、はたまた恐れながらと辞去すべきか判断に困るところであったが、マテューにはそれも分かっているらしい。
「まぁ、主席官の発言は、そう気にしないで良いですよ」
と、続けた。
寒空を苦ともしないイーリオとシャルロッタに、ほんの少し感心の声をあげた騎士達だが、それ以上に、イーリオの鎧獣ザイロウの巨躯と優美さに、彼らの目は奪われた。
成る程。他国の、しかもどこの馬の骨とも分からぬような子供に、このような任を与えるなど、騎士達にとってはむしろ反感を招くような事なのだが、ザイロウの雄々しさと、見た目だけでも充分伝わってくる高性能は、それだけで納得させてしまう説得力があった。彼らも一流の騎士である故に、思わず興味を覚えたのであろう。無論、先んじてマテューが二名の騎士に説明をしていたのではあるが、それでもザイロウを見れば「成る程なぁ」と感心と感嘆が入り交じった声を漏らさざるを得なかった。
「この鎧獣は、やはり特級ですか? 作はどなたのもので?」
エックハルトと名乗る騎士が、興味深げに尋ねた。
答えたいところではあるが、イーリオ自身、ザイロウの出自は分かっていない。記憶を少し取り戻したというシャルロッタにしても、「さあ」と言わんばかりに肩をすくめるのみ。
「多分……特級だと思います。以前、僕の旅仲間がそうだと言ってましたし。でも、手がけられた錬獣術師が誰なのかは、僕も知らないんです」
その答えに不思議そうな顔をするエックハルトともう一人、デトレフという騎士。
ザイロウもそうだが、そもそもイーリオ自身のこれまでが、込み入った旅であった事は確かだ。長々と話をする時間はあったが、不審がられても困ると判断したのか、マテューが話の流れを変えるように言った。
「仲間と言うと、レレケさんですか? 彼女の事、聞きましたよ」
その言葉に、イーリオとシャルロッタが視線を向ける。
「はい……。今は、マルガさんらに任せるしかないですが……、何て言うか、複雑な気持ちです。出来ればすぐにでも駆けつけたいところですけど……」
落胆気味に答えるイーリオだったが、マテューは予期せぬ意外な事を口走った。
「どうでしょうね……。今回のレレケさんが捕まったのって、本当に捕まったんでしょうか?」
「――どういう意味ですか?」
「疑うとかそういうのではないんですが、叫び声一つ上げず、彼女の特技の獣使術を使って知らせも送らず易々と捕まるなんて……、何て言うか、彼女らしくないですよね」
「わざと捕まった、と?」
「分かりません。彼女が灰堂騎士団に通じてるとは考え難いですが、何やら事情はありそうですよね」
疑っていないと言いながらも、疑念の残る口ぶりに、イーリオは少しムっとした。内通者がいるのではと疑っているのはイーリオ自身だが、レレケがそうであるはずがない。もしそうなら、ここに至る旅程で、これほどまでにイーリオ達に骨を折ってくれるはずがない。確かに怪しげな身なりではあるし、出自も良くない意味で、覇獣騎士団と縁浅からぬ間柄である事は事実だ。しかし、イーリオはレレケを信頼していた。モンセブールの街で、ドグが言ったように、彼女は無条件で信頼出来る。そんな〝仲間〟なのだから。
同時に、先ほどのやり取りで、昨日は聞きそびれてしまったある事を、イーリオは思い出していた。
「そう言えばシャルロッタ、少し思い出したって、昨日言ってたよね」
その声が耳に入ったのだろう、マテューも興味深げな顔をする。
「うん」
「それってその……僕の事はともかく、他にはどんな事を思い出したの? 例えば君の名前とか、出身とか?」
小首を傾げ、暫く吟味するような顔つきをしていたシャルロッタだったが、やがておもむろに、
「わかんない」
「何にも?」
「うん。思い出したのは、イーリオのお嫁さんになる事だけ」
少し驚いた顔で、マテューがこちらに振り向いた。イーリオは顔を真っ赤にして「それは思い出したとは違うんじゃあ」と、口をもごもごさせながら狼狽する。
「ううん。思い出したの。あたしは、イーリオとケッコンするんだ。そうなるように決まってるから」
「決まってる……?」
「うん。あの水槽の中で、あたし、ずっと待ってたの。でも、待ってるのをやめてザイロウと〝外〟に出たら、見つけたの。イーリオを」
「だから、結婚?」
まるで支離滅裂で、何を言ってるのか理解出来ない。水槽って何だ? そもそも君は、何処から来たんだ? 頭を色々な言葉が駆け巡り、結局イーリオは口ごもってしまう。照れのせいだとは、決して認めまいが。
さて、そんな会話をしつつも、一行は、順調に旅を進めていた。
昨日感じたような気配もなければ、あのチベタン・マスティフの鎧獣を連れた少女も見ない。ただの通りすがりであったか。気配も、考え過ぎだったのか。
日は既に短い昼の終わりを告げる傾きを見せ、足取りは既にバンベルグ村のあるクレーベ公領に入っていた。あと一晩宿をとり、明日には目的の村に着くだろう。
そうすればいよいよ、あの生きた伝説、〝百獣王〟と邂逅する事になる。
一足早く、イーリオは堅い緊張を感じつつあった。




