第四章 第九話(終)『夕酒場』
陽気なフィドルが音曲を奏で、酔いのまわった男や女が、足を踏み鳴らしてリズムを刻む。冬場でも、食堂の中には人いきれの熱気と明るさが充満し、山々から吹き下ろす家鳴りの風も、忘れてしまいそうになるほどの暖かな空気がたちこめていた。次々と運ばれてくる料理は、決してご馳走というほどではなく、むしろ覇獣騎士団の騎士団堂で主席官が振る舞った夜食の方が高価であったが、久々に大勢の人間と供にする食事と、簡素だが家庭的な味付けと相まって、イーリオ達の匙は次々に進んでいった。その姿にヨハンは「いい食べっぷりだ」と喜色を浮かべ、更に追加の料理を注文する。同時に、あちこちのテーブルでも、同じように酒や料理を注文する声が飛び交った。
街道で知り合った獣狩猟士の内、ヨハンはひたすら酒を飲みつつ、イーリオらに話しかけ、ハンスは黙々と酒と料理を口に運んでいる。仏頂面で、この喧噪が気に喰わないかのような表情だが、ヨハンに言わせれば、これでも楽しんでいるのだそうだ。もう一人のロータルは、騒ぎ立てる音色に釣られたようで、近くの空樽を見つけ、即興のドラムを叩き始めている。
ここはイーリオ達が泊まる宿場町の酒場。
イーリオ達に感心した獣狩猟士の三人は、夕飯を驕ってやろうと言ってこの酒場に連れて来てくれたのだ。
食堂には旅人や、獣狩猟士の仲間が多くひしめき合い、皆、気の合う連中として夕飯を楽しんでいた。
「じゃあ何かい。兄ちゃんらは、この先のフェルトベルクの山麓にある、バンベルグ村に二人だけで行こうってのかい? こんな季節だってのに」
頬を朱色に染め、何杯目かわからない麦酒を呷りつつ、ヨハンがテーブルの向かいに座ったイーリオとシャルロッタに尋ねた。イーリオも葡萄酒を口につけてはいたが、傍らのシャルロッタは、飲み物などそっちのけで、これまた何杯目か分からない野ウサギのシチューをかきこんだかと思うと、もう 種なしパンにかぶりついている。相変わらずの底なしな健啖家っぷりだ。
「はい。二人、と言っても、僕らには鎧獣がありますし、それほど怖い旅じゃありませんよ」
「ははっ、その年で大したモンだよ。でも、んな辺鄙な場所にある、聞いた事ねえ村に、一体何の用があるんだい?」
一瞬、イーリオはどう答えようかとも思ったが、仮にこれを〝敵〟に知られたとて、大事になるような情報ではあるまいと思い、そこは嘘偽りなく話した。
「その村に、ホーラーって錬獣術師がいるんです。その人に会いに行くのが目的で」
「ホーラー……? ホーラーって、もしかして〝工聖〟ホーラー卿か?」
「え、あ、はい」
「あんた、ホーラー卿の知り合いなのか?」
驚きが音量に上乗せされ、ヨハンの声は酒場中に響き渡った。皆も一斉にこちらを向く。
「いや……僕じゃなく、僕の父が知り合いでして……」
「へえ。あんたの父さんも錬獣術師って言ってたな。それでか」
「はい。ホーラー卿のように有名ではないですから、ご存知ないかと思いますが――、ムスタ・ヴェクセルバルグといいます」
今度は、ハンスまで、こちらを驚いた目で見つめた。酒場に居る、他の獣狩猟士達も、一斉にざわめく。
「ムスタって、〝熊名工〟のムスタ卿か? カリストとか、アルカスとか、ビョルン、それにボルソルンなんかを作った、あのムスタ卿が、あんたの親父さんだって?」
勢い込んだ剣幕と、静まり返った酒場の空気に呑まれ、イーリオはただただ「はい」と頷くしかなかった。小さくなったフィドルの演奏を除けば、一人、シャルロッタの咀嚼音だけが、音をたてている。
「そりゃすげえ! まさかこんな所で、名錬獣術師の息子さんと出会えるなんて!」
まるでそれが合図かのように、酒場は再び盛り上がりの声に包まれた。一体何がそんなに凄いのか、当のイーリオにはいまいちピンとこなかったので、カスタードを頬張りながら言う「イーリオのお父さん、凄い人なんだね」というシャルロッタの言葉にも、ただただ「みたいだね」と返すしかなかった。
ヨハンはというと、驚きと喜びに目を輝かせて、更に勢い込んでくる。
「俺ぁな、まだ駆け出しだった頃、ムスタ様に世話になった事があるんだ。そん時は白猟旅団にも入ってなくてよ、いつか大物を捕まえるんだ、って意気込んでた若造の頃よ。懐かしいなぁ。いやぁ、懐かしい名前を聞いたぜ」
「父さんの? じゃあ、ヨハンさんはゴートの出身?」
「そうだぜ。昔は流しの獣狩猟士をやってて、あちこちの獣猟団を渡り歩いてたんだ。そこで、あんたの父さんと会って、捕猟のイロハを教えてもらったんだよ。あんたの親父さんは、錬獣術師としてもスゲぇだろうが、俺達からすると、猟師、いや獣狩猟士としても一流の腕前を持ってたよ。何せ、たった一人で熊を捕まえるなんざ、普通の猟師に出来る事じゃねえからな」
実際、熊を捕獲する際には、衆を頼んで人数を増やす事が多かったのだが、稀に、罠を仕掛けて一人で捕まえる事もあったという。ヨハンが言ってるのはその話だろうと、イーリオは察しをつけた。しかしそれにしても、まさか、こんなメルヴィグの片田舎で、父の名を聞こうとは思いもよらなかっただけに、何だかこそばゆいような、嬉しいような気持ちになってくるイーリオだった。しかも、皆が皆、自分や自分の父の存在、その功績を歓迎してくれているというのが、何より誇らしい。
「て事はアレか、ムスタ卿の用事でホーラー卿に会いに行くってワケだ。成る程なぁ」
勝手に推測して結論づけてくれたので、イーリオも特に否定はせず、
「そんなところです」
と、曖昧に頷く。
「すると、あんたの、あの銀狼の鎧獣、あれもムスタ卿の作なのか? すげえなぁ、さすが名うての錬獣術師だ。あんな立派な鎧獣も手がけるなんて、大したもんだよ」
勿論、ザイロウと父は何の関係もないのだが、それも否定すればややこしくなるので、イーリオは曖昧に返事をするだけだった。
「俺ぁ、あんな鎧獣見た事ねえぜ」「ありゃあ、何て種類の狼なんだい?」「すげえ神之眼だよな。等級は何?」
今度は、別の 方々から、イーリオに向かって次々と質問が飛ぶ。まさか自分が、人々の輪の中心になって、こんなに注目される事などなかっただけに、思わずどう答えていいのやら、返答に窮してしまう。
「おめえら、そう一斉に聞くんじゃねえよ。兄ちゃんが困ってんじゃねえか」
場を取り仕切るように、ヨハンが遮らなければ、イーリオは気恥ずかしさで席を立っていただろう。
ちなみにこの町では、獣屋が設置されておらず、代わりに各宿屋に備え付けの鎧獣厩舎があり、ザイロウはそこに預ける形になっていた。
何だかこのまま質問責めにあうのも、窮屈になると思い、イーリオは話題を変える事にした。
「僕の方こそ光栄です。まさかあの、白猟旅団の方々に会えるなんて。それに昼間見た、捕獲の鮮やかさ! 最後の網なんて、びっくりしました。まさかオオヤマネコに投網するなんて、思いもよりません」
「へへ、そうかい。昼にも言ったが、ハンスの網は、神業ってヤツさ。豹にも投網して捕まえた事があるんだぜ」
「本当ですか!」
「獣狩猟士としちゃあ、下手に傷物にするといけねえからな。そういう意味じゃあ、ハンスの技は、まさにうってつけなんだよ」
獣狩猟士とは、簡単に言えば、神之眼持ちの野生動物を捕獲する動物ハンターの事である。イーリオの父、ムスタのように、自ら動物を捕獲する錬獣術師もいるが、どちらかというとそれは稀な方で、大抵は、専門の業者である獣狩猟士に捕獲を依頼したり、獣狩猟士の組合が、捕獲した動物を管理しているので、そちらを通じて神之眼持ちを入手する錬獣術師がほとんどだった。
ヨハンやハンスらは、国家の専属である狩猟団、国家直属獣猟団に所属しており、メルヴィグの専属狩猟団を、白猟旅団と言った。出会った折に見せた指輪は、認可を受けた獣狩猟士の認可証であり、白水晶の指輪は、白猟旅団の証であった。尚、国家に所属せず、組合にのみ認可を受けただけの狩猟団は、獣猟団と呼ばれている。
イーリオからすれば、ヨハンら獣狩猟士は、かつての憧れの存在でもあった。父の事も尊敬していたが、たまに父が獣猟団と組んで仕事をした時などは、その手並みの良さや、動物のあしらい、狩猟の心得などを教えてもらう事が、何よりわくわくした事を覚えている。
「皆さんはその……ムスペル大陸には渡らないんですか? 白猟旅団の方々は、ムスペルの方に渡られる方が多いと聞きましたが」
「ああ。ライオンや豹、チーターなんかは、あっちにいるのがほとんどだからな。でも、ニフィルヘムにも、ヨーロッパライオンやオオヤマネコがいるからよ。こっちだって、俺らの猟場なんだ」
なるほど、と頷くイーリオ。
白猟旅団は、メルヴィグの国家公認とはいえ、獣狩猟士自体が、組合にさえ認可されていれば、国の垣根を越えて通行出来るため、どこの国にも渡れるのだ。そのため、獣狩猟士や獣猟団にいる連中は、様々な国際情勢に通じている事が多く、間者紛いの事をしている者も少なからずいるという。
イーリオはその事を思い出し、ふと、思いついた事を尋ねてみた。
「皆さんはその……黒母教について、何かご存知ですか?」
「黒母教? 何だ? それがどうしたっていうんだ?」
「いえ、その……最近よく見かけるじゃないですか、黒っぽいローブをまとった人たち。僕の知り合いが、その連中に襲われたって言ってたもんですから。何でも、過激な宗派に入っているとかで」
「それなら聞いた事あるぜ。ナーデ教団だろ」
今まで貝のように口をつぐんでいたハンスが、突然話に割って入ってきたので、イーリオは思わず驚きを顔に浮かべてしまう。
「ほら、ジュリアの大聖堂」
「ああ、サン・トリエステ大聖堂の話か」
「何ですか、それ?」
ヨハンとハンス、二人のやり取りの意味が分からず、イーリオが尋ねる。
「アクティウム王国にある大聖堂が、黒母教の過激派集団に襲われて、町ごと乗っ取られたって話だよ。知らんのか? その過激派組織ってのがナーデ教団ってんだ。この街道沿いでもちらほら聞くぜ。そいつらが無理矢理な改宗を迫って、あちこちで諍いが起きてるって。兄ちゃんの知り合いってのも、それじゃねえのか?」
確か、覇獣騎士団のリッキーの部下、マテュー騎兵長もその名前を言ってたな――。記憶を思い出し、イーリオは「ええ、そうです」と頷き返す。
「何だっけ、黒母オプスだっけ、奴らの奉ってる女神さんの名前」
「ああ、そうだ」
オプス――。その名前が出た瞬間、今まで黙々と食事に耽っていたシャルロッタが、何故か体をびくり、と反応させた。
彼女自身、理由は分かっていない。だが、その名前、以前耳にした際には、何も思わなかったが、何だろう。今は心がざわつくような、いてもたってもいられないような気持ちに駆られる。
だが、喧噪と夜の酒場の熱気にあてられ、イーリオは彼女の反応に気付いていなかった。
「こっちへ来る時も、一人、それらしい人間とすれ違いましたよ。黒っぽいローブを頭から被ってる、背の小さい人。犬の鎧獣を連れてたんで、騎士だろうと思いますけど。皆さんは会いませんでしたか?」
ヨハンは、「さぁ?」と言って首を傾げる。他の面々も同様だが、別のテーブルの人間が声をあげた。
「それなら、俺も見たぜ。あんたの言う通り、ありゃ黒母教の信徒だな。あの独特のお祈りをしてんのを見たから間違いねえよ」
「どんな人でした?」
「それがよ、鎧獣を連れてんのに、まだ子供みてえな見た目の、可愛らしい嬢ちゃんだったんだよ。あんたや、そっちの銀髪の嬢ちゃんよりも下に見えたなぁ。でもなんつうか、どことなく不気味な風に見えたな。声をかけようとしたら、ゾっとするような目で睨まれちまってよ。やっぱあれだな。狂信者っつうのかな。あの連中は、何考えてるかわからねえや」
やっぱり、黒母教の人間だったか。
だとすれば、待ち伏せか、それとも――。
昼間にすれ違った人物を思い出し、イーリオは嫌な予感に駆られる。
何とも言えないが、とにかく油断は禁物だ。明日は早くにここを出て、なるべく先を急ごう。そう、心に決めた所で、そろそろ酒場を出ようと、シャルロッタに声をかけた。
宿に戻ろうとするイーリオに、出来上がった大人達が引き止めようとするも、それを丁寧に固辞していたら、宵もたけなわの最中、酒場のドアが、数人の来訪者によって突如開かれた。
人数の多さより、その出で立ちに、酒場に居る全員が思わず息を呑んだ。
「イーリオ君、ここに居ましたか」
金縁のついた白い詰め襟の隊服。
この国にいる人間で知らぬ者はないその姿は、国家騎士団のもの。
「マテューさん!」
かつてマクデブルク砦から王都に向かう際、旅を供にし、王都では、レレケ救出を手伝ってくれた、あのマテュー・ヨアヒムが、そこにいた。




