第四章 第九話(3)『大型犬』
太陽が沈むよりも、まだ少し間がある。
だが、冬の陽は短い。
乾いた空気は冷気だけでなく厳しさを伴い、トウヒの枝も、北風に揺さぶられ、葉ずれの音を響かせる。こういう時、木枯らしの向かい風は、足を遅くさせるばかりで苛立たしいだけだ。もっと早くとイーリオの気は急くが、二人の人間と二人分の荷を乗せた馬の足では、ザイロウのようには進めない。とはいえ、積雪がないぶんだけ、幸いというべきなのであろうが。この季節ともなれば、イーリオが住んでいたブリッゲンの山々などは、すっかり雪に覆われているに違いなかった。だがここはメルヴィグ。それも南部域の近くだ。遠くにはこの季節特有の、ヒースのピンク色の花弁が揺らめいている。しかし今は、そんな景色に目を奪われている時ではなかった。
急いでいるのは、陽が落ちつつあるからばかりではなかった。
――気配がする。
尾行されていた。それも数人。気配は最初、気のせいかと思うほど微かなものであったが、今ははっきりと感じとれる。しかも不思議な事に、人々が行き交う、獣路も備えた歴とした国の街道であるにも関わらず、何故か自分達以外、誰も姿が見えない。午前中は幾度となく旅人とすれ違い、追い抜いたりもしたのだが、今は誰もいない。その事にイーリオが気付いたとき、自分達を尾ける気配が、明瞭になりだしたのだ。
隠す必要がなくなったという事か。
味方の覇獣騎士団であろうか。いや、この雰囲気はそんなものではない。気配と共に濃厚になるのは、敵意。それも明らかな害意。
姿が露となったなら、その時は否応もなく戦闘にならざるを得ないような襲撃の意思だ。
同時に、いずれこうなる事は予想もしていた。
灰堂騎士団なる連中は、メルヴィグ王朝内、または覇獣騎士団内に内通者を持っている。それが何人で、どのくらいの規模なのかは不明だ。とはいえ、イーリオとゴート帝国皇太子ハーラルとの私闘ですら知っている連中だ。その〝根〟は、メルヴィグ国内のかなり深い所にまではっていると考えてしかるべきであろう。となれば、先の〝怪物〟騒ぎの時のように、密書を持つイーリオを狙ってくるのは当然だ。
だが、だからと言って、いくら覇獣騎士団の人々が助成してくれていても、それには限界がある。となれば、己が道は己で切り開くしかないし、その自信がイーリオにはあった。
クダンなるヨーロッパバイソンの鎧獣騎士との戦いで目覚めた、ザイロウの力。そして、立て続けの連戦で養われつつある自分の実力。
そこらの敵になど、そうそう遅れはとらないぞ――。
だが、それでいながら道を急いでいるのは、自分の身が一つではないからであった。戦うとなれば、当然、シャルロッタを庇いながらになる。彼女を庇うにしても、可能な限り、こちらが有利になるような状況である事が好ましかった。であれば、この街道は良くない。身を隠す場所はなく、見晴らしが良すぎる。
せめて市街であれば――。
出来れば人を巻き込むのも避けたい所ではあったが、同時に、人の多い場所であれば、敵も安易には襲撃をかけてきたりはしないだろう、という目算があった。
向かい風が勢いを強くした。
フードなどとっくの昔にはずれ、イーリオの緑金色の髪が、防寒用のローブごと、風に引っ張られているようだ。
そこへ、向かいの方から、人影が見えた。こちらへやって来る、久々の通行者のようだった。または敵の一味かもしれないと思い、警戒心を強める。
影は、二つ。
背の小さい、子供のような背丈と、もう一つは、犬。奇妙なのは、二つの影の形。
――犬の方は鎧獣……。けど、あれは本当に犬なのか……?
遠目に分かるシルエットでは、あの動き、犬科動物である事は間違いない。だが背には、騎馬よろしく、子供の背丈のようなその人影が跨がっている。
人間が犬を騎乗とするだって? 子供の騎士?
だとしても、犬の大きさは、狼並みの大きなもの。ゆうに四フィート(約一・二メートル)以上はある。しかも授器を身に着けての騎乗である。相当体力がなければ、子供かそれに近い身長であっても、人間を乗せて進み続けるなど出来るはずがない。
距離が縮まるにつれ、イーリオは、警戒心を更に一段階上げた。人影は何とも知れないが、犬の鎧獣が纏う授器の色、それは灰堂騎士団同様の黒灰色をしていたからだ。
「ザイロウ」
短く呼びかけると、さすがに心得たもので、ザイロウも自然な仕草で既に警戒をしていた。尻尾も自然体、口吻も引き締まる事なくごく自然にしており、見た目は警戒している風ではないが、さりげなく耳を持ち上げ、体を揺らす授器も、わずかに音がたたないようにしている。
こういう所は、臈長けた歴戦の士であるかのように、頼もしい。
彼我の距離がごく間近にまで迫った。
全身が毛むくじゃらに覆われ、タテガミのような首周りの体毛は、さながらライオンのような、そんな犬の鎧獣。
イーリオは、かつて父の書斎で見た〝万獣の庭園〟を思い出し、この犬種が何だったかを記憶から呼び起こそうとする。
鎧獣に出来る犬は、大きさの制限から、大型犬でもごくわずか。こいつはその中でもとびきりの――。
チベタン・マスティフ――。
ライオンのようなタテガミで、思い出した。
そう。西方の遥か彼方が原産の、牧羊犬。気性が荒く、獰猛で、〝虎殺し〟の異名を持つほど、強力な犬種。個体の平均的な大きさは、三フィートにも満たないほどのはずだが、種の中には鎧獣に錬成出来るほどの、このような大型のものもある。おそらくこのチベタン・マスティフは、大型なうえに神之眼持ちだったという、稀な一体なのだろう。
ごく自然な動作ですれ違う。広い広い街道には、自分達と、この大型犬の鎧獣持ちのみ。他は誰もいない。襲撃にはまさにうってつけだろう。
イーリオとザイロウに、緊張が走る。
だが、何も起こらなかった。
ザイロウは耳をひくひくと軽く動かし、微かにチラと視線を送ったが、それだけだった。やがて後方へと遠ざかっていく。
イーリオは、息を吐いた。体格から言っても、ザイロウが負けるとは思えないが、自分達を尾けている気配がある以上、油断は出来ない。いくら経験を積んだといっても、それはほんの僅かばかりのもの。戦闘そのものに対しては、まだまだ未熟と自覚する自分がいる事を、イーリオは熟知していた。それ故、挟撃でもされてしまえば、自分はともかくシャルロッタに累が及ばぬとも限らない。
そこでふと気付く。
尾けていた気配がない――。
さっきまで、あれほど明瞭に気配を醸し出していたというのに、今は微塵も感じなかった。いや、気のせいなどではない。父とともに山野で育ち、獣狩猟士紛いの事も幾度となく行ってきた自分だ。気配を察する事には多少なりとも自信があった。
――諦めたのか……? それとも……?
理由は見当もつかないが、警戒を怠る事はせず、兎に角、今夜の宿にまで、足を緩める事はなかった。




