第四章 第九話(2)『野心』
イーリオらが二人旅を始める前日――。
今や黒母教の拠点となった、アクティウム王国北端のジュリア市。その大部分を占める、かつては荘厳且つ巨大であった大聖堂の内、破壊されずに残された中央堂で、ファウストは、豪奢な刺繍の施された、黒灰色のローブをまとう、太り肉の中年男の前で、かしずいていた。
かれこれ小一時間も、中年男は叱責を重ねている。口角泡を飛ばすとは正にこの事で、よくもこれだけ非難めいた単語が思いつくものだと、内心、溜め息をついていた。
「聞いているのか! ファウスト卿!」
「は」
いくら責めを問うとも、どこ吹く風のファウストに、中年男は苛立ちを隠せない。
「二名もの使徒を失い、あまつさえ、レオポルトの密書も奪えぬとは、いかなる手際か! 何か言ったらどうだ?」
「ですから何度も申し上げているとおり、それは過ぎた事。痛手は私めら灰堂騎士団も同様にございます」
「な、何が、同様だ! 十三使徒は、〝神女〟様より賜りし、神の尖兵ぞ! 貴様如き新参の余所者が、どうこう出来るものではないわ!」
「私とて、その使徒なのですが」
「この期に及んで、まだ口答えをするか!」
大司教とは肩書きばかりの、どうにも俗物めいたこの中年を、ファウストはただただ毛嫌いしていた。それが態度に出てしまうのは、ファウストの青臭い所というべきだろうが、どうにも口がすべってしまう。
大司教は、聖堂の中央壇上で、顔を赤く青く変化させて口を上下に開閉させていた。
「そもそも十三使徒とは、黒母オプスの巫女たる〝神女〟様に仕える衆の事。ゆえに〝使徒〟なのだ。それを貴様のようなカディスの片田舎に住んでおった田舎貴族ごときが采配をふるうなど、考え違いも甚だしい! 本来であれば、分不相応と己から辞去すべきところを、貴様はのうのうと序列第四に居座っている。此度の失態は良い折ぞ。これを機に使徒の席を返上するがよい!」
よく喋る豚だな。
ただの豚なら家畜にもなろうが、こいつは人語を解する分だけ、質が悪い。
そういう思いが顔に出たのだろう。ファウストの瞳に射竦められる形で、「な、何じゃ」と、口ごもってしまう。こういう所も俗物すぎる。いや、愚物と言ってよいだろう。本来というのであれば、本来なら、このような低俗な豚は、自分に意見出来るような立場にないはずなのだ。そう、本来の自分であれば。
不毛な尋問を見かねたわけではないが、中央壇上より離れた位置の席に座る男が、終わりの見えない滑稽劇めいたやりとりに、助け舟を出した。
「もう、その辺にしておけばよろしいのでは、大司教」
男は、三つボタンの黒衣を、隙なく着こなし、長い両手足を持て余すかのように組みつつ、体を大きく預ける形で、深々と座席に腰を下ろしていた。黒髪は撫で付けられ、口元だけの濃い黒髭は、整えられて先端がはねている。席の傍らには、黒い肌をした少年と、反対側に金髪碧眼の少年が控えていた。共に年齢は十代半ばといったところか。二人とも、まるで少女のように、美しい顔立ちをしている。
「ゴーダン総長、そもそも貴方が、このような無頼の輩を重用なさるから、かくも愚かな失態を犯してしまうのですぞ!」
灰堂騎士団総長、ゴーダン・オラルは、金髪の少年に手振りで合図しており、大司教の言葉を聞き流していた。
「ゴーダン総長!」
「ああ。何でしたか。失態、ですかな」
金髪の少年は、グラスに入ったワインを盆の上に乗せて持ってくると、無言で主に手渡した。大司教の荒い鼻息などどこ吹く風。ゴーダンは、悠然とワイングラスを揺らしていた。
その尊大な仕草だけで誰もが理解する。
ああ、この男は格が違う、と。
「ご案じめさるな。一つや二つの失態など、大局にさして影響もありませぬよ。それよりも、東部域での布教、いかがなっておられます? そちらの進捗具合の方が、喫緊の課題ですぞ」
彫りの深い目で大司教を射竦めた後、ワインを一口つけた。
「ふ、ふん! それなら心配はいらん! 順調に下々にまで広がっておる」
ゴーダンは彫りの深い眉をしかめた。
「下々などどうでもよろしいのですよ。肝心なのは城の中、です」
「それは、その……、あそこの家宰とか申す爺が邪魔をして……」
「いけませんな」
ゴーダンの声が一段階、低くなった。大司教はびくり、と体を奮わす。
「神女様の思し召しは、彼の者を籠絡できるかにかかっておるのですぞ。今、事を起こしても、我々の目的は達せられません。まぁ、だからこそのファウストなのですがね。それはわかっていただきたい」
自身の痛い所を突かれては、話がはぐらかされたと声をあげる事も出来ないのだろう。俗物らしく顔を歪め、大司教は押し黙ってしまった。
第一、ファウストの事をとやかく言うまでもなく、その大司教自身が、事を上手く運べてないのは周知の事実である。にも関わらず、無駄に文句を聞いてやっているのは、この俗物が、教団内で無視出来ぬ影響力を持っているからに他ならない。なので、ゴーダンもファウストも、このような無為な言動に付き合っているのであって、たまにこうやってガス抜きをさせてやりさえすれば、後はどうとでも御せる男だ。
そのまま具体的な事は何も言い返せず、大司教は、「ともかくわかっておるな、ファウスト卿」と、意味のない捨て台詞を残して、足音を強くたて、一方的にその場から去っていった。呼び出したのは己であるにも関わらず。
いずれ斬り捨てるのすら、馬鹿馬鹿しいほどの屑め――。
心中で吐き捨てると、去った大司教に、やれやれと感想を示すのも愚かに思え、まるで最前のやりとりなどなかったかのような素振りで、ファウストはゴーダンの側に寄っていった。
「で、如何する?」
尊大な姿勢のまま、ゴーダンは視線の分からぬ顔で問いかけた。
「私が直接」
ほう、と眉を開くゴーダン。
「ラフ、ベネデットがしくじったとあっては、安易に人員を割くのも無策。ここは私が出向き、敵の芽を潰します。それで如何でしょうか」
「大司教任せの工作も、はかどってないしな……。だが東方はどうする? お前の替えというわけにはいくまい?」
「任務を終えたばかりですが、〝第七〟と〝第八〟の使徒を、つなぎに出します」
「ガエタノか……。なるほど、あの老人なら、策を弄してくれるかもしれんな。アンドレアは?」
「彼奴は保険です。いかなとは言え、相手はそれでも覇獣騎士団。油断はなりませんからな」
なるほど、と声に出さずに頷くゴーダン。この間、ゴーダンの両隣にいる少年達は、人形のように、身じろぎ一つせず立っている。
表情は完璧に取り繕いながら――気色悪い――と、心の内で呟く。
ファウストは、この男を尊敬している。灰堂騎士団を束ねる総長として、また一個の騎士としても、それに値する人物だ。だが、この趣味ばかりは、辟易するものしか感じなかった。ファウスト自身、女性と間違えられるほどの整った容姿をしているだけに、何だかうそ寒いものを感じずにはおれない。ただ、噂によれば、ある一定の年齢からは、興味がないとも聞くが、果たしてどうやら……。
「よかろう。肝心の標的は捉えているな?」
「密書は例のティンガル・ザ・コーネを退けた子供が持っているとの事です。ラフを倒したのも、この子供と、大狼の鎧獣だとか」
「大狼……」
「何か?」
「確か、ゴート帝国に、〝不用の帝家鎧獣〟が存在すると聞いたことがある。それが、白銀の大狼だとか」
「ああ。でしたらまさにそれでしょう。確かハーラル皇子がティンガルを使って追いかけたのも、その帝家鎧獣を取り戻すためだったとか。しかし、〝不用〟とはどういう意味でしょう?」
「私もさして詳しくはないのだが――、何でも建国以来、眠り続けている鎧獣で、駆り手となれた者が、一人もおらんとか。だがその反面、これを駆り手となす者は、大帝国を復活させ得る者になるという――そんな伝承が残っていると聞く」
「建国から眠っている、ですか? 本当に?」
呆れ気味にファウストが問うと、
「伝承、伝説の類いよ。だが、伝承の部分はともかく、真実、件の子供が、その帝家鎧獣の騎士なのだとしたら、油断出来ぬのは間違いなかろう。事実、あのラフとクダンを倒したほどだしな」
「は。そこは肝に銘じております。追跡にはモニカも同行させますれば」
「まぁ、お前の事だ。万が一にも仕損じはあるまいが――」
「はい。このようなところでまごついてるゆとりは、我々にない事は百も承知。我々が真に恐るべきは、覇獣騎士団。そして僣王レオポルトです。片翼たる〝ガルグリム〟のクラウスを捥いだとはいえ、未だもう片翼たる〝ファフネイル〟のカイがおります。一つ一つ、彼奴らの〝芽〟を摘んでいけば、悲願達成は自ずとなりましょう」
僣王とは、一国の王に相応しくない、偽者の王という意味である。
「それはお前の悲願だろう?」
頬を歪めたゴーダンの真意は分からない。嘲っているのか。同情しているのか。あるいは――。
「は。出過ぎた言葉でした。申し訳ござりません」
ゴーダンとて、私に取っては部外者も同じ――。
無論それは、相手にとっても同じであろう事も、ファウストは十二分に理解している。
「気にするな。私は大司教ではないし、神女様でもない。お前の悲願は、我ら黒母教ナーデ教団の目指すべき道の一つであるのは間違いないのだからな、ファウスト王子よ」
呼びかけられた〝名〟に、ファウストは何も答えなかった。眉一つ動かさない鉄面皮の顔は、彼が過ごしてきた半生の努力が齎したものである。無闇に心を見せるな。誰も信じるな。信ずるべきは、己と己の鎧獣のみ――。
ゴーダンは、フっと、笑うと、ワインを翳した。
「行くが良い、第四使徒ファウスト・ゼラーティよ。貴様と貴様の鎧獣、〝ノイズヘッグ〟に黒き母の加護があらん事を」
祝福めいた言葉を終えると、ゴーダンは一口でワインを飲み干し、傍らの少年の持つ盆の上に置いた。
ファウストは「はっ」と言った後、頭を下げて聖堂を後にする。
いずれ大陸全土のエール教というエール教の聖堂が、このサン・トリエステ大聖堂同様、黒母教の聖堂――黒灰堂――に変えられるであろう。
それは即ち、この大陸を黒母教が統べたという証であり、その時は決して遠くない、己の目の黒い内であるだろうと、ファウストは確信をもっていた。何故なら、灰堂騎士団にはその実力があるからだ。だがそれを叶えられるかどうかを決めるのは、灰堂騎士団の連中ではない。無論、メルヴィグの奴らでも、黒母教の人間でもない――。
全てはこの己次第だ。
深海より汲み取ったかのような、深い碧味のある瞳には、人知れず炎がゆらめいていた。それは、彼の心中深くで育まれた魔物、その吐く息吹が、形となって表れたものであった。
魔物の名を野心という。
揺らめく野心の炎は、彼に語りかける。メルヴィグは俺が貰う。そして、この大陸全ても、本来の持ち主である、俺が手にする――と。
気が付けば、何時、何処からともなく、漆黒の猛獣が側を歩いていた。メルヴィグ王国王都レーヴェンラントでのリッペ卿邸宅でイーリオ達が目撃した、黒灰色の授器を身に纏う、あの黒き鎧獣である。
ファウストには分かっていた。銀狼の鎧獣であろうが、ティンガル・ザ・コーネであろうが、または覇獣騎士団であったとしても、己の敵ではない事を。
――己には、こやつがいる。
ライオンでもなく、ヒョウでもなく、トラでもない。
そしてそのどれとも似ている、大型猫科の黒き獣。
そしてもう一つ。己自身の〝実力〟。およそ鎧獣騎士戦で、己が敗北するなど、到底有り得ぬ事。驕りではなく、絶対的で強烈なまでの矜持。
何せ自分に獣騎術を教えたのは、先代百獣王その人――。
その実力は、当代の百獣王にも決して劣るものではないと、彼は自負していた。




