第四章 第九話(1)『二人旅』
別に意識したわけじゃない。
ただ、何となく喉の渇きを覚えたから、腰に吊るした革の水袋を手にしただけだ。
誰に気兼ねするでもないのに、言い訳めいた答えで己を納得させた後、イーリオは革袋の水を口にした。水を喉に流し込んでから、先般、モンセブールの街での〝毒〟の事を思い出し、思わず顔を顰めるも、この水は紛れもなく大丈夫なものである事は分かっている。とはいえ、もともと〝敵〟の使った〝毒〟なるものは、人体には何の影響も及ぼさないらしいのだが。
水袋を馬の背の後ろに乗るシャルロッタに翳すと、シャルロッタは「ううん」と断った。
乗馬は駆け足に近い早足気味で、冬晴れの街道を進んでいる。
馬に並走して、白銀の毛並みをした、ライオン並みの巨躯を持った狼――絶滅したと噂される大狼。その鎧獣であるザイロウが付き従っていた。
他には誰もいない。
イーリオとシャルロッタ、それにザイロウのみである。
この三者だけになるのは、旅をはじめた当初以来である。あれからまだ半年も経っていないのに、それがとても以前の事のように、イーリオには感じられた。
リッキーとドグは、鎧獣が動けないのもあり、そのままモンセブールで鎧獣の治療に付き合う事となった。そう促したのは、鎧獣の治療にあたる、錬獣術師や覇獣騎士団四番目の部隊、肆号獣隊 の研究員達であった。モンセブールは、領内的にはオルペ公領であり、伍号獣隊の管轄だが、軍事に関する研究を専らとする肆号獣隊 の西方が近いのもあって、彼らの力を借りる事になったのである。
結果、百獣王のいるホーラー・ブクのもとへは、イーリオとシャルロッタのみで向かう事となった。
今度の〝怪物〟騒ぎで、灰堂騎士団なる集団との内通者がいる可能性が浮き彫りになり、且つレオポルト王より密使の任を受けたイーリオらを狙っている事も懸念された。悠長に回復を待ってはいられないのである。
鎧獣の治療が済み次第、リッキーとドグも後を追う事にはなっていたが、仕方ないとはいえ、イーリオとシャルロッタの二人だけという状況に、ドグなどは、不平で顔を真っ赤にしていたものだが。
同時に、このような重要な任務を、年端もいかぬ少年と少女に託すのは如何なものかとの意見もあったが、途中で表れた陸号獣隊・次席官マルガ曰く、
「彼ら二人で大丈夫」
というのが、レオポルト王の言葉らしい。
二人だけになるのが分かっていたのか。それとも、そもそもどこまでが国王の思惑どおりなのか。余人にはまるで計り知れぬところであったが、話を聞いた伍号獣隊の主席官ルドルフなどは、「さすが陛下」と、その深慮(というべきかは不明だが)に感心しきりであった。
とはいえど、本当に二人に全てを委ねるという意味でもないらしく、マルガが言うには、王都より勅命を受けた別の部隊が、イーリオらと合流するため、既に手配をすませているらしい。そこまで手抜かりはない上での、彼ら二人で大丈夫という、レオポルトの言葉であったのだろう。
ともかく、レレケの奪還は隠密部隊であるマルガ達、陸号獣隊を信頼し、イーリオとシャルロッタは、名工と名高い錬獣術師ホーラーのいるバンベルグ村へと足を早めた。
まさか、こんな形でホーラー卿のもとに向かう事になるだなんて――。複雑な思いに駆られる事、頻りなイーリオであったが、こればかりは自分でどうこうなるものでもない。
いや、ペンダントを黒騎士に奪われさえしなければ、同時に、旅の目的も達成するはずだったのだ。それこそ繰り言である事は、イーリオも分かっていた。分かっていたが、そんな詮無い事まで考えずにはいられない。何故なら――。
間が保たない。
からであった。
シャルロッタと二人きりの旅をするだなんて、今のイーリオには考え辛かった。それほど、ドグやレレケ、リッキーの存在が頼もしくもあり、当たり前になりつつあったからだ。一方、シャルロッタはと言うと、イーリオと二人だけの旅路という事も、まるで気にならないらしい。
今日の宿泊先をどうしようか、などと、馬の背に揺られながら、イーリオは地図を広げた。
モンセブールの街からバンベルグのあるクレーベ公領まで、通常は数日から一週間程度はかかる旅程だが、今は国王の密使という火急の任を負い、先を急いでいる。このままのペースで順当に進めば、二泊ほどで目的のバンベルグ村に着くはずだ。
が、問題はそこではない。果たしてシャルロッタを一人部屋に泊めて良いのやら……。かといって、イーリオとの相部屋は、それはいけないような気にもなるし……。悶々とした考えが頭の中をグルグルと駆け回り、再び水袋を手にする。
それを情けないような目で、ザイロウが凝と見つめていた。
「何だよ」
と、イーリオが呟くと、ザイロウは何も答えずにぷい、とそっぽを向く。
灰堂騎士団の使徒なる人牛の騎士、ラフ=クダンとの戦いを経て、イーリオは前よりもっと、ザイロウとの繋がりを感じるようになったが、どうにも主従というより、対等の相棒のように思われているらしい。まぁ、それはそれで間違いではないのだが。
「何? どうしたの、イーリオ?」
イーリオの呟きに反応したのは、シャルロッタだった。
「何でもないよ。ただの独り言」
「ザイロウに言ってたよ。何? 何なの?」
シャルロッタの「何で」がはじまると、イーリオは出来るだけそれに答えようとするのだが、こればかりはどう返事すればいいかわからない。
何度も問いつめられていく内、イーリオは半ば自棄のような気持ちになって、思わず口をついて出た言葉は、
「シャルロッタはさ、僕の事、好き?」
言った後、しまった、とすぐに後悔するも、時既に遅し。だが、あにはからんや、彼女は即座に、
「好き」
と返す。
思わず振り返ると、鼻先スレスレの所までシャルロッタの顔が近付いているのに、勢いよく動揺してしまうイーリオ。落馬しそうになるのを何とか持ち堪えると、彼女が「大丈夫?」と声をかけてきた。
「そ。その、その好きっていうのは、アレ? 僕の事も、ドグの事も、レレケの事も、みんな大好きとかっていう、よくあるお決まりの――」
けれどもシャルロッタは、別の方向に思いを馳せてしまい、不安げに表情を曇らせた。
「レレケ、大丈夫かなぁ……」
話の飛躍はいつもの事。ああそうか。レレケって名前を出したからか、とイーリオは気付いた。
「あ、ああ……。そうだね。確かに」
そう答えざるを得ないのも、イーリオの心情だった。
何だかはぐらかされたような気持ちだが、それはそれで安心したような……。
「心配だなぁ……」
「うん」
「みんなもすぐ来るかなぁ」
「ああ」
「みんな、今頃何してるだろ」
「そうだね」
「イーリオが、一番大好きだよ」
「うん。……って、ええ?!!」
鐙を踏み外しそうになるイーリオ。
そこへ追い打ちをかけるように、シャルロッタが言った。
「あたし、一個思い出したの。あたしは、イーリオのお嫁さんになるんだよ」
今度こそイーリオは、動揺を隠せずに落馬した。
思わずザイロウが両目を瞑る。
大仰に落ちたイーリオだったが、打ち所は良く、怪我はなかった。だが、心の打ち所ばかりはどうしようもなく、真っ白に混乱するしかなかった。
そんな相棒に、ザイロウはやれやれと言わんばかりに、鼻を鳴らして呆れていた。




