第四章 第八話(2)『人外魔牛』
――逃走距離が勝負の分かれ目だ。
イーリオは父の言葉を思い出す。錬獣術師のムスタの言葉を。
逃走距離とは、野生動物の捕獲の際、猟師や錬獣術師が、動物に近づける距離感の事を言う。
牛であれば、彼我の距離が三フィート(約一メートル)程度まで近づければ捕獲は容易になる。一八フィート(約六メートル)にもなれば、もう怪しい。三〇フィート(約九メートル)にもなれば、対象は逃走してしまうだろう。だから、目標にどれだけ近づけるか、それが捕獲の正否の分かれ目になるという事だ。
今は野牛を相手にしているとはいえ、捕獲ではない。ましてや野生動物ではなく、超常の騎士、鎧獣騎士が相手の戦いである。捕獲の心得が役に立つとは到底思えない。
しかし、こんな事も思い出す。
彼我の距離とは生死の距離でもある。それ故に、野生動物は警戒のために離れ、一定の距離を保とうとする。だがその距離を縮める動物も少なからずいる。同種だろうが、近付くものと近付かないものがいるのだ。何故か。好奇心が勝るからだ。未知であれ既知であれ、「何だろう」という欲求は、時に死の恐怖にすら勝ってしまう。好奇心は猫をも殺すというアレだ。
猟師や神之眼持ちを捕獲するハンター、それに錬獣術師らはこの生物が持つ習性を利用する事がある。釣りの疑似餌しかり、捕獲の罠しかり。
そして今、目の前の人牛騎士は、ザイロウの驚異的な治癒能力に目を奪われている。あれは何であろうかと。
野生の牛は臆病な生き物だ。ヨーロッパバイソンは群れで行動し、己の巨躯もあって、そこまでではないが、だからと言って黒穴熊のような命知らずではない。
だが、相手はバイソンではない。バイソンを纏った人間。鎧獣騎士だ。それも相当な実力を持った。ならば、己の技前に自信を持っていてもおかしくはあるまい。
死を招く臆病を遥かに超える、己に対する自信を持っていたとしても。
イーリオ=ザイロウは、右手に下げた刀の授器〝ウルフバード〟をだらりと下げ、全身のバネを柔らかくした。同時にそれは、己が傷一つ負っていない事をアピールする格好にもなる。つまりは挑発。
果たしてラフ=クダンは、怒気を孕んだ呻き声を漏らした。
「ほ、ほ、ほ、ほう。き、き、効いてないと?」
戦鎚を大地に叩き付ける。分かり易い。いや、極端に短気とでもいうべきか。
「よ、よ、よ、よ、よかろう。ならば、な、な、何度でも砕いてやるのみよ」
クダンが、三度、跳躍をした。
勝機は一瞬。
相手の予測し難い動きは理解した。
つまり、〝予測は不可能〟だと。
だがそれでも、相手は豹やライオンではない。狼でもない。補食獣ではないのだ。いくら変転自在の動きであっても、攻撃の軌道は常に直線。曲線的に動く補食獣ではない。軌道は直角にはなるが、それが歪曲される事はない。ならば選択肢は限られる。狙い目はそこだ。
先ほど同様、ギリギリで初撃を躱すと、こちらは体が崩れ、敵は目にも止まらぬ二撃目を出す。今度はそれも何とか躱す事が出来たが、偶然に近いかろうじてだった。クダンは避けられた二撃目にとどまらず、更に体をグルリと反転、三撃目を出した。息も尽きせぬ連撃の波。しかも、一度目、二度目で感じた手応えから、絶対に当てられると確信した動き。
しかしそれが故の、大振りな挙動。
瞬きすらも及ばぬ速度であるが、それがイーリオの意図した絵図だった。引き出された直線的な動きに、イーリオはウルフバードを手放した。いや、わざと手放して敵の虚を衝き、相手を眩惑させる。そして崩したかに見えた体勢は、跳躍への助走。宙で身をひねると、己の牙に渾身の力をこめる。
獣の噛みつきを技にした、補食獣系の咬撃による渾身の一撃。
牙ごしに頸部へ食い込むのが伝わってくる。
――捕らえた。
己の無傷を誇示する事で、敵の動きを直線的に限定させる。相手が格上だからこそ可能にした、油断を衝いた攻撃だった。
しかし、イーリオは読み誤っていた。
ラフに油断はなかった。虚心もなかった。怒りはすれども戦いが雑になる事などない。
だからこその灰堂騎士団十三使徒。〝人外魔牛〟のラフ・ラーザだ。
食い込んだ牙は、しかし中の騎士であるラフにまでは届いてなかった。
〝瞬転機関〟によって頸部の鎧化のみを解除。首の筋肉を捻転させ、傷を浅く保つ。同時に、猛る雄牛そのものに、頭を振るい上げてザイロウを弾き飛ばした。
わずかそれだけの挙動で、である。
空中で体を捻り、何とか着地をするも、イーリオは狼狽を禁じ得ない。こんなにも実力差があるだなんて。
「お、お、お、お前、な、な、なかなかやるじゃないか。け、け、け、けど、その鎧獣とお前、あ、あ、あ、相性のいい、〝匂い〟をしてないなァ」
人牛の姿で、スンスンと鼻を鳴らすラフ=クダン。
僕とザイロウの、相性だって――?
敵の言葉に心が揺さぶられる。
そんなはずない。ザイロウは僕を選んでくれた。初めて会った時、白銀大狼の声が聞こえた気がしたんだ。
――けど、最近はどうだろう。ティンガルとの戦い以降、ザイロウの声はしただろうか。ザイロウは僕に語りかけてくれただろうか。
「ま、ま、まァ、見た所、つ、つ、つ、付け焼き刃のへ、へ、弊害と、いったところか」
付け焼き刃? 何がだ? いや、惑わされるな。実力差があっても、僕はコイツに肉迫し、牙をたてたんだ。こちらを揺さぶり、動揺を誘い出そうとしているとしてもおかしくはない。
――けど。
「お、お、お、お前は、レ、レ、レーヴェン流向きじゃあないな。いいモノは、も、も、も、持ってるんだがな」
僕がレーヴェン流に向いてないだって……?
そんな馬鹿な。巫山戯るな。
胸の奥に、何かがチラリと火の粉を上げる。
「まぁ、ど、ど、ど、どちらにしても、ここでオレにや、や、や、やられち、ち、ちまう事に、か、か、か、変わりはないがな」
やられる? は? 何? やられるだなんて、そんなのわかるかよ。畜生。
心の声とは裏腹に、体の細胞が訴えている。逃げろ。今直ぐ逃げろ、と。今の攻防が垣間見せた「死」という未来図に、両足が小刻みに蠕動する。違う。恐怖じゃない。怖れてなんかない。
胸の奥の火の粉が爆ぜた。イーリオの中にある、感情の揺らめきが、赫い光彩を放ち出し、それは種火となる。
――死ぬもんか。
※※※
暗夜の森を必死に掻き分け、まるで行く手に灯火が見えるかのように、迷い無くシャルロッタは進んだ。彼女の本能が訴える。この先にイーリオがいると。ザイロウがいると。見えない行く手が、まるで彼女のために開かれるように、迷いもせず、躓く事さえなく、彼女は足早に歩を進めた。
彼女の胸裏にある不安は、時が経つごとに膨れ上がっていた。
駄目だ。ザイロウはまだ戦えない。
イーリオに授けていないからだ。鍵は開いたが、その中には入れない。何故ならイーリオには、〝扉〟そのものが見えていないからだ。見える訳がない。だから彼女がいる。扉へと導く、巫女たる自分が。
それがどういう意味か、彼女はよくわかっていなかった。けれども頻りに本能が急き立てる。
音が聞こえた。
硬質の何かがぶつかり合う音。
肉の音。金属の音。近い。そう、彼女は確信した。
音は激しさを増しながら、やがて痛みを伴い出した。
音に痛みがのったのではない。彼女の頭部が疼き出したのだ。シャルロッタ自身は気付いていないが、彼女の額には、かつて見せた、神之眼に似た輝きが光り出していた。その光が足元を照らし、より彼女の足は速くなる。
何かが、彼女の脳裏で首をもたげた。いや、彼女のものではない。
――イーリオ?
イーリオの感情が、彼女にも流れ込んで来たのだ。
怒り。憤り。苦しみ。
感情はまるで暗闇の中の燠き火のように炯々と輝きを増す。それと共に、彼女の神之眼も、光を強くした。
イーリオ、貴方はやっぱり……。
やっぱり何だろう。次の言葉が出てこない。けれでもシャルロッタにはわかっていた。彼は予想通り、〝資格〟を持ったのだと。
森の一角が開けた。
素手の銀狼騎士と、巨躯を持った人牛騎士が対峙していた。
「イーリオ!」
あらん限りの声で、シャルロッタは叫ぶ。
同時に、彼女の脳裏には、イーリオの感情が、形となって閃く。種火は既に炎となり、形作っていた。
狼の形を。