第零話 『幼年期』
不規則に弧を描いた血風は、白雪の大地に前衛的な形の花模様を咲かせた。
生物の血にしてはやたら光を反射しているのは、雪林から覗く陽の光のせいばかりではない。人を超えた人ならざる異形の騎士――鎧獣騎士の血だから光っているのだ。
苦悶の呻きをあげて仰向けに倒れる巨躯。それを目の前にし、幼いイーリオは処理しきれない恐怖と衝撃に、体を硬直させていた。
初めて見る、人獣の騎士。
そしてその戦い。
父に連れられて〝捕獲場〟まで来たのはいいが、迷子になったところで巨大なヒグマに出くわした。いや、ヒグマではなくヒグマの人獣。
人造の獣を纏った鎧獣騎士が、人気のない林の中に、忽然と姿を見せたのだ。父の元で鎧獣は幾体も見ている。まだ八歳になったばかりでも、見た目だけで鎧獣を怖がるような育ちはしていなかった。
けれども、それが破壊と暴力の結晶となった姿を目にするのは、生まれて初めての事だ。
ましてやそのヒグマの鎧獣騎士が、悪意も露に自分を襲おうとするなど、夢にも思っていなかった。
恐ろしく隆起した人型の筋肉が怒張し、ヒグマの口吻から「退けっ」と叫ばれると、次にはもう、粉々の肉片と化すはずだったイーリオだが――そうはならなかった。
あまりの速度に恐怖すらも追い付かず、具体的に何がどう起きたのかもその時にはわからなかった。しかし後から思い出すに、イーリオに向けた敵意は、振り下ろされる前に別の暴威が行く手を阻んだのであった。
最初に斬り落とされたのが振りかぶった巨腕。
次にその衝撃で仰け反った背中が、深々と斬り裂かれた。
そうして今、文字通り自分の目の前に、人型のヒグマの巨体が、薄い雪煙に巻かれて屍になろうとしている。
いや、雪だけでなく、巨体の全身から白い蒸気のようなものが漏れ出しているようだ。
ほどなくこれは、一対の人と獣に戻るであろう。
「大丈夫か、坊主」
何が起きたのかまるで分からないまま、イーリオは視線をヒグマの向こう側に移すと、そこには別の人獣騎士が立っていた。
――狼。
黒と灰褐色の毛並み。
ハイイロオオカミを思い出したが、それにしては大きい。
何だろう?
まだ知識に乏しいイーリオには分からない。
体を僅かに装甲した特徴的な鎧は、青の迷彩柄をしている。濃い部分は紫に近く、まるで迷彩模様のタンザナイトのようだった。
右手には、刃先の大きい長物の武器、薙刀。
そして、鎧獣騎士としては極めて稀な、眼帯をした片目と、残ったもう一つの青い瞳。
ヒグマと比べても遜色のない、とても大きな人狼の騎士が、刃先に付いた血を振り落として、こちらを見ていた。
視線は向けられたものの、声を忘れたように何も言えないイーリオは、さぞかし肝を潰した顔をしていたのだろう。
「済まねえな、坊主。ビビらせるつもりはなかったんだがよ」
と言って、人狼騎士は自らの武装を解いて、害意のない事を示してくれた。
人狼の騎士が白煙をあげると、中から巨大な狼と人が姿を見せる。人獣の状態を解いたのだ。
「あ……、あぁ……」
思わずかすれた音で喉からこぼれたのは、そんな感情の搾りカスのような声だった。
「その様子……鎧獣騎士を見んのは初めてか? 坊主はこの近くの子供か?」
男は、狼同様、片目に眼帯をしていた。年齢はいかばかりだろう。世間的に言うお兄さんとおじさんの間ぐらい――イーリオにはそう思えたが、実際、当たらずとも遠からずというところだった。
蓬髪は無造作だったが、それは精悍さに等しく、無精髭もだらしなさと言うより、長い戦暮らしによる戦いの錆のようなものに見える。そんな男。
問われた内容に引き攣った頭が追い付かないままでいると、今度は別の声がイーリオの耳を打った。
「イーリオ! イーリオ! どこだ?!」
叢をかきわけて髭面の顔が姿を見せる。
途端、停止していた感情が、堰を切って溢れ出した。
「父さん!」
声に反応した父ムスタが、目の前の惨状に驚きを見せつつも、息子の元に一目散に駆け寄り、抱きしめる。
「大丈夫か? 何があった?」
防寒用のふっくらとした厚手の生地の心地に体を埋もらせながら、イーリオは泣き出した己に自分自身で驚きながら、父の応えに頷いて返した。
その様子に、片目の男が答える。
「ムスタ卿? ムスタ卿ですよね?」
ムスタは息子を抱いたまま、男を見つめる。
「お前……」
「いや、こりゃあ失礼しました。中央から抜けて辺境に行ったとは聞いてましたが、まさかここで会うとは」
「何があったんだ?」
父の声音がいつもより固い事に気付いたイーリオだが、同時に、父の警戒が薄らいでいく事も感じ取れた。
「一人、取り逃がしてしまいましてね。俺が先行して片付けたってわけです。なに、戦ってほどのモンじゃないですよ。小競り合い程度のものです」
「こんな処でか? ……それか、随分と離れたところだったのを、こんな山の中にまで逃げられたと?」
「面目ない。戦場はここから二十五マイル(約四〇キロ)ほども離れたところですよ。――ほんと、ムスタ卿のお子さんにゃあ随分怖い思いをさせちまったかな」
「いや、助けてくれたのだろう。ありがとう」
その後、父と男は何か会話を交わしたが、自分は離れていたのと難しそうな内容だったので、何を言ったのかは覚えていない。
多分、提供する鎧獣の事なんかを話していたのだろうという事は推察出来るが、その時のイーリオにはどうでも良かった。むしろ、初めて目にした、鎧獣騎士の戦い。その事が鮮烈に焼き付いて、頭から離れなかった。
「怖かったか?」
後で父にそう聞かれると、イーリオは小さくそれを認めた。けれど、怖いだけ――ではないように思う。
絶対的な死を与えようとしたのがあの人獣の騎士達ならば、それからいとも容易く救ってくれたのも、同じ人獣の騎士。
あまりにも圧倒的で、その隔絶感を形容する言葉が浮かんでこない。
「お前も、騎士になりたいか?」
イーリオの心中を察したのだろう。ムスタは見透かすように尋ねたが、幼い彼は否定した。
「ううん。僕は父さんみたいな錬獣術師になる」
息子の真っ直ぐな答えに、髭面の父は優しく微笑んで、頭を撫でてくれた。
その答えは本心だった。
嘘ではない。幼い頃からそう育ってきたし、今も疑いなどしない。
でも、どうだろう。
あの時見た、人狼騎士の凄まじい動き、佇まい。
思い出す度、胸の動悸が高まる。
そのくせ、瞼を閉じたら忘れる事なく浮かんで来る姿に、憧れを抱いてないと言えるだろうか。
分からない。
分からないけど、分かっているのは、この時イーリオは、初めて自分の心に対し偽りを覚えたという事だった。
そうして彼は、自分の幼年期に終わりを告げた。
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