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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第二十章 鬼面牡丹
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第一話

 真昼の一点の曇りもない夏の青空に山のような入道雲が立ち上る。

天空で今が盛りとばかりに輝く太陽は地上のありとあらゆるものを焼き付くさんばかりにギラギラと燃えていた。

道を行く人々は皆日陰を探し求め大汗を流して足早に過ぎ去り、舌をダラリと垂らした野良犬はガクリと頭を下げ、赤黒い舌先から涎を垂らしてフラフラと道を横切る。


 海華とて例外では無く、突き刺さる日射しとあちこちから響く蝉の大合唱に辟易しながら、ある場所へと向かっていた。

背中にいつもの木箱は無い。

この焦げるようなきつい日射しと茹だる熱さの中、道端に立ち止まって悠長に傀儡芝居など見物する者は皆無だ。


 客がいないのに立っていても仕方が無いし、 何より自分が倒れてしまう。

そう判断した海華は、暑さが和らぐ夕刻辺りに仕事の時間をずらしていた。

今、ダラダラと滝の汗を流して表を歩いているのは、ちょっとした私用のためである。

暑い暑いと呟きながら、海華は覚束無い足取りである店の暖簾を潜った。

一歩店内に足を踏み入れた途端、ヒヤリと肌を撫でる冷たい空気に思わず溜め息が漏れた。


 次いで感じるのは、香ばしさと古臭さが混じり合った複雑な香り。

目の前には干した椎茸や昆布、煮干しなどの乾物が山と置かれていた。

すぐに店の奥から顔を出した丁稚らしき少年に、女将さんはいる? と尋ねると、お待ち下さい、と言い残し、少年は再び中へと消えていった。


 上がり框に腰を下ろし、流れる汗を拭いながら何気無く乾物の山を眺める海華、暫くすると、奥から小さな足音が聞こえ、ふっくらと腹の膨らんだ女が姿を現した。


 「あら、海華ちゃん! 久し振りねぇ。暑かったでしょう?」


 「お仙さんこんにちは! 本当に暑いですねぇ!」


 框から腰を上げ、ペコンと一礼した海華の前に、重たそうな腹を庇いながらゆっくりとした動きでお仙が座った。

帯と薄い水色の着物のなだらかに突き出した場所へ目を遣り、大きくなりましたね、と海華はにっこり笑う。

お仙も笑窪を作り、頷いた。


 乾物屋、井崎屋の女将であるお仙は、以前朱王と海華が盗賊の引き込み役から足を洗わせた女であり、お仙の兄、惣太郎は伽南の実家である薬種問屋で働いている。

お仙は乾物問屋で働いていたが、そこの番頭、三太と所帯を持ち暖簾分けをしてもらって、この井崎屋を営むこととなった。

そして今、お仙のお腹には新たな命が宿っているのだ。


 「もう半年たったから、だいぶ目立ってきたでしょう?」


 動くのも大変なのよ、と困ったように笑うお仙。

だが、その手は愛し気に膨らみを撫で擦る。

『お仙に子供が出来た!』と、興奮気味に惣太郎が自分達の部屋に飛び込んできて、もう半年もたつのかと海華はしみじみ感じていた。


 自分には何も変わったことの無い半年だ、しかし腹の子供は見違える程に成長し、あと少しで産まれてくるのだ。


 「惣太郎さんが、早く男か女か知りたいって。女の子だったら、うちの兄様に遊び人形頼むからって、昨日長屋に来て言ってましたよ」


 奉公人が出してくれた麦茶を飲みながら海華が言い、それを聞いたお仙はコロコロと笑う。


 「兄さんもせっかちねぇ、産まれてからでないとわからないのに。それに、人形遊びが出来るのは、まだずっと先のことよ」


 「楽しみなんでしょうね、きっと」


 ニコニコと返す海華も、実は密かに楽しみにしているのだ。

男か、女か、顔はどちらに似ているか、性格は……等々、自分が産む訳では無いのに、まるで宝の詰まった箱を開けるように楽しみだ。

何より無事元気で産まれて欲しい、そう願っていた。


 暫くの間お仙とお喋りを楽しんだ海華は、干し椎茸とかんぴょうを買い求め、再び熱の籠る表道を歩き出す。

口から出るのは暑い暑いと繰り返される文句ばかり。

かくりと肩の落ちた、その小さな後ろ姿を建物の陰に隠れ、じっと見詰める数人の人影があるのを、海華は全く気付いていなかった。





 「ちょいと、お姉さん。……そうあんただよ」

 

 井崎屋から少し離れた稲荷の近くで、海華は背後から呼び止められた。

振り向くと、お狐様を祀る社の前に年の頃四十程の女が一人立ち、薄い笑みを浮かべながら海華を見ている。

臙脂えんじ色の着物を纏い、綺麗に白粉で化粧した丸顔の年増女だ。

海華を捉えた両目はスッ……と細まり、紅色の唇は片方だけが上げられ、笑みを形作っている。


 「お姉さん、乾物屋の女将と知り合いかい?」


 「そう……ですけど。どちら様です?」


 ツカツカと近寄ってきた女に見下ろされながら、海華は険しい表情を見せる。

『この女は危険だ』と、海華の本能が叫びを上げた。

ジロリとねめつけられた瞬間、鳥肌が立つような感覚に陥る。


 「あの女将のことで話があるのさ。お姉さん、悪いけど顔貸しちゃくれないかねぇ?」


 穏やかな、しかし有無を言わせぬ口調で女は社の奥、鬱蒼と青葉が茂る森を指差した。

人目につかない所で、と言うことなのだろう。

いくら昼間とは言え、寂れた稲荷は殆ど人気ひとけが無い。


 「――ここじゃ出来ない話しなんですか?」


 乾物の入った袋を胸に抱き締め睨むような視線を送る海華に、女は益々唇をつり上げた。


 「人に聞かれたら、女将もアンタもマズイことになるよ? それでもいいなら、ここで話そうか?」


 「――わかりました。行きます」


 キュッと唇を噛み締め、海華が頷く。

この道を一本逸れれば人気ひとけの無い暗い森、無事に帰れる保証の無いまま海華は女の後につき、社の向こうへと消えていった。


 「大野屋の押し込み事件、アンタ覚えているかい?」


 社の奥、少し開けた草地で女が唐突に口を開く。

辺りは木々が生い茂り、骨まで震わす蝉時雨が二人を包んだ。

湿った土と立ち上る草いきれ、ザワザワ揺れる木の葉の響きの中、海華は思い切り眉を潜めた。


 「覚えてますよ。……奉公人まで皆殺しだった、酷い事件でしたね」


 女から少し離れた後ろに立ち、返した返事は蝉の声に掻き消されそうだ。

と、海華に背中を向けていた女がくるりと振り返る。

白い顔が、新緑に浮いて見えた。


 「その下手人の一人が、あの女将さ。引き込みのお仙。……なんだい、アンタ驚かないんだねぇ」


 ニヤリと笑う女の顔が、やたらと恐ろしく感じる。


 「あの女将さんが引き込み女? まさか、引き込みのお仙は、鬼熊の平八と一緒に死んだって、瓦版に……」


 努めて冷静を装う海華、しかしその心臓は爆発せんばかりに脈打っていた。

いきなり現れたこの女は、なぜあんな昔の話しを蒸し返すのか? なぜ、お仙の過去を知っているのか……。

お仙は死んだ、そう聞いた瞬間、初めて女の顔に怒りの表情が現れた。

同時に海華は一本後ずさる。


 「お仙は死んでなんざいないさ。死んだのは、弟だけだ」


 「お、とうと……!?」


 女の吐き捨てた言葉に、海華は顔を引き攣らせる。

射殺すような目付きで、女がこちらを睨み付けた。


 「そうだよ、弟さ。鬼熊の平八はあたしの弟だよ。お仙の奴が裏切ったせいで、弟だけが殺されたんだ」


 蛇に睨まれた蛙よろしく動けない海華を見る女、その唇が再び綺麗な弧を描く。

驚いたかい?と呟かれた一言は、木々のざわめきと蝉時雨に掻き消され、海華の耳には届かなかった。


 「お仙の奴にいらぬ知恵を付けた挙げ句に、弟をぶち殺した輩を、あたしは探しに来たんだよ」


 深く腕を組み、ニヤリと嫌な笑みを浮かべた女が海華ににじり寄る。

ガサッ、と草が踏み締められるに合わせて、海華からは暑さのせいではない汗が噴き出した。

海華の横にピタリと並んだ女に、ポン、と肩へ手を置かれた瞬間、電流が走ったように身体が痺れ、全身の毛が逆立つ錯覚に襲われる。

ジンジンと五月蝿いばかりに響く蝉時雨も、もはや海華の耳には届いていなかった。


 「お仙に伝えておくれ。あんたに悪知恵を付けた奴を連れて来いって、鬼牡丹が言っていたとさ……」


 女の長めに切られた爪が、ギリギリ肩に食い込む。

その痛さも感じないまま、海華は首を軋ませてやっと女へ顔を向けた。


 「な、んで……? なんで、あたしに……」


 「あんたがあの店によく出入りするのを見てい たからさ……。いいね、必ず伝えな。無事にガキを産みたいんなら、五日後の戌の刻、ここへ来いと」


 そう言うなり、強か肩を突き飛ばされた海華が派手によろめく。

そのまま女を振り返ること無く、海華は脱兎の如くに森から逃げ出した。

下駄で踏み千切られた草が舞い、足は縺れて今にも転びそうな有り様だ。


 袂には、武器になる組紐が忍ばせてあった。

一瞬、このまま女を永久に黙らせよう、との考えが頭を掠めたのも事実。

しかし、海華にはそれが出来なかった。


 なぜならば、姿こそは見えないが、自分と女を取り囲む無数の視線を感じていたのである。

肌にグサグサ突き刺さる、鋭く憎しみの籠った視線……。

きっと女か、平八の手下だったのだろう。

もし、女に危害を加えていたなら、その瞬間に海華の命も散っていただろう。


 皺だらけになった乾物入りの袋を抱き締め、灼熱の日差しの中を必死で、一目散に長屋へ走る。

ダラダラ流れる汗が目に入り、ひどくしみるが、そんなものを気にしている余裕などは無かった。


 息が続く限りに走りに走り、長屋に辿り着いた時には、全身水を浴びたように汗にまみれ、顔は茹でたように真っ赤だった。

切羽詰まった表情で長屋門を潜る海華を見た井戸端の女達は、何があったのかと目を丸くし、部屋に飛び込む海華を眺めていた。


 「お、前、どうしたんだ?」


 弾き飛ばすように戸口を開き、中へ転がり込んできた妹に人形の仮彫りをしていた朱王は思わずポカンと口を開けた。

上がり框に手を着き、苦しそうに何度も咳き込む海華。

ガクリと俯いた顔、垂れ下がる髪からは汗の雫が畳へ滴り落ちている。


 その様子に異常を感じた朱王は慌てて妹に駆け寄り、抱き上げるように畳へと引き上げる。

乾物の入った袋が、乾いた音を立てて土間へと落ちた。


 朱王が水の入った湯飲みを目の前に差し出すと、震える手でそれを受け取り、海華はガブガブと喉を鳴らして飲み干した。

今だに息が整わない妹の背中を擦る朱王。


 「一体どうした? 何があったんだ!?」


 伏せられた顔を覗き込みながら、朱王は些か強めに問い掛ける。

真っ赤に染まった顔をゆるりと上げた海華の乾いた唇が戦慄き、掠れた声がこぼれる。


 大変な事になった……お仙さんが危ない……!


 息も絶え絶えの状態で放たれた言葉に、みるみる朱王の表情が曇り出す。

詳しく話せ、そう低い声で囁かれた海華は滝の汗を流したまま、かくんと小さく頷いた。

そして稲荷前であった女と森の中での話を洗いざらい兄に話したのだ。

妹の話しを驚愕の表情で聞き入っていた朱王は、眉間に深い皺を寄せたまま、何かを考えて込むように黙ってしまう。


 「ねぇ兄様どうしよう、このままじゃ、お仙さんもお腹の子供も……ヘタすれば三太さんや惣太郎さんだって危ないわ」


 オロオロ声で兄の膝に手を掛け、強く揺さぶる海華、しかしドカリと胡座をかいたままの朱王は、相変わらず難しい表情を崩さないまま、 無言を貫いた。

閃光のように様々な考えが頭の中を駆け巡る。

惣太郎やお仙らだけが危険なのはわかりきっている。

それと同じくらい、自分達の身も危ないのだ。


 「――その女、お仙さんの協力者は俺達だと知っているんだ。だからお前に声を掛けたんだろうな。……この場所も、もうバレているだろう」


 「そんなぁ……なら、なんであたしに会った時に殺さなかったのかしら?」


 「お仙さん自身に俺達を売らせたいんだろうぜ」


 お仙にとって朱王と海華は汚れ仕事から足を洗わせ、兄まで自由の身にしてくれた恩人なのだ。

簡単に引き渡すことなど出来ないのを見越しての要求だろう。

これにはさすがの海華も怒り心頭だ。


 「やっと堅気に戻れたってのに! そこまでお仙さんを苦しめたいの!? 許せない!」


 と、怒ってはみたものの、今の海華にはこれからどうしたらいいのか全くわからない。

自分と兄の顔は、既に相手には割れているだろう。

ヘタに動けば必ずお仙らに危害が及ぶのはわかっていたし、猶予は五日しかないのだ。


 暑さが籠る部屋の中、じっとりと汗を浮かべながら二人は必死で考える。

今度ばかりは番屋の親分や桐野らも頼ることは出来ない。

なぜなら、お仙の過去がすっかりわかってしまうからだ。


 万が一、お縄になったあの女が全て喋ってしまっては、お仙ばかりか平八を殺めた朱王達とて無事では済まない。

戸口一枚隔てた表からは、長屋の女達が喋り散らす声が響き、ジリジリ射し込む強い日射しは朱王の膝頭を白く染めた。


 ふぅっ、と大きな溜め息を一つつき、朱王はささくれた畳へゴロリと寝転ぶ。

ぼんやり天井を眺めるその視界に今だ頬を紅潮させた妹の顔が、ひょいと飛び込んできた。


 「兄様、何かいいこと思い付いた?」


 「全然。ただ、今夜の内に惣太郎とお仙さんには話しをしないとな。まずはその鬼牡丹とやらが本当に平八の姉貴なのかを確かめなきゃならない」


 「お仙さんに話すの? 子供に響かなきゃいいけど……」


 ひどく心配そうに海華は顔を歪める。

それは朱王も気になってはいるのだが、何しろ盗賊一味の情報を持っているのはお仙だけ、聞かない訳にはいかないのだ。


 「何かあったら……そうだ、伽南先生にも立ち会ってもらおう。 亭主は言わないでおこうか」


 「そうね、お仙さんの過去を知ってるのかわからないしね。 なら、あたし一っ走り惣太郎さんとお仙さんの所に行ってくるわ」


 「俺は伽南先生の所に行く。いいか、どこから見張られてるかわからん、充分気を付けろよ」


 そう言いながら身を起こす兄に、わかってるわ、と小さく微笑む海華。

袂に仕舞い込んだ組紐の感触を何度も確かめながら、再びお仙の店へ向かうべく、暑い日射しの中を駆け出して行った。

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