第四話
小屋の中は正に地獄絵図、ありとあらゆる物が業火に包まれ、熱く熱された空気が牙を剥き出しにして海華に襲い掛かる。
雨霰のように降り注ぐ火の粉が容赦無く頬や手足を叩き付け、弾かれるような痛みに苛まれた。
舞台は既に焼け落ち、奥に並ぶ部屋も、ほとんどは炎に舐め尽くされて運び出されることの無かった三味線や人形達が、バチバチと断末魔の悲鳴を上げて燃えていた。
「喜六さーんっ! 喜六さんどこなの……ッッ!?」
口と鼻を濡れた袖で押さえ、必死で喜六の姿を探して火の海を駆けずり回る海華。
びしょ濡れの着物は、すぐに燃えることは無いが、代わりに蒸し焼きにされるようにジワジワと熱が伝わり、海華はのぼせるような目眩を感じていた。
布や油の焼ける嫌な匂いを嗅ぎながら、小屋の一番奥、裏口に向かう廊下を曲がった時だった。
熱と煙に潤む海華の瞳に、廊下にバッタリと倒れ伏す二人の……いや、一体の人形と一人の男の姿が飛び込んできたのだ。
喜六さんっ! と叫んで飛び付くように駆け寄り、うつ伏せで倒れる喜六の顔を覗き込む。
頬や額にべったりと煤を貼り付かせ、脂汗を流しながら苦し気に呻く喜六を目にした海華の顔には、小さな歓喜が浮かんだ。
「生きてる……! 喜六さんしっかりして、逃げるわよっ!」
失神している喜六の頬を叩きながら、同時に背中へ覆い被さっている人形、清姫をどかそうと手を掛ける。
しかし、いくら力を入れて押しても引っ張っても、人形は喜六の背にぴったりとくっついたように、びくともしない。
そして、岩ででも造られたかのようにズシリと重いのだ。
「なんで……!? 離してっ! 喜六さんから離れなさいよっ!」
海華は力一杯人形を叩き揺さぶるが、人形は滑らかな顔を喜六に擦り寄せ、憂いのある眼差しを向けるばかり。
暴れ狂う炎に照らされ、影を作る牡丹の唇には、うっすらと笑みさえ見せているようだった。
後ろでは、天井の崩れ落ちる轟音が響く。
カッ! と眦をつり上げた海華は、業火に負けない勢いで無意識の咆哮を上げた。
「喜六さんはアンタのモンじゃぁないッッ! さっさと……離れろ――ッッ!!」
渾身の力を込めて、海華は人形の胴体に蹴りを叩き込む。
この一撃には人形も耐えられ無かったのか、バキッ! と嫌な音を立て、人形は壁へとぶち当たった。
そして、力無く人形が廊下に倒れた、その瞬間だった。
『ウォォォォォ――ッッ!!』
グワッ! と金色の眼を見開き、口を耳まで裂きながら人形は鬼の形相で海華を睨み、その口からは獣の如き叫びが迸った。
あり得ない出来事に頬を引き攣らせ、一杯に瞳を見開きながら海華はその場に固まる。
視線は、人形から離せなかった。
その刹那、海華の背後から火の粉を纏った人影が転がり込んでくる。
「見つけた……っ! おいっ、無事か!?」
癖のある髪から雫を滴らせ、煤で黒く顔を汚した志狼が肩で息をしながら海華に駆け寄る。
呆然と志狼の顔に目をやった海華、しかし一 瞬で呆けた瞳に光が戻った。
「志……狼さんっ! この人、まだ生きてるわ! お願い外まで運んでっ!」
今だ意識が戻らない喜六を指差し、必死に海華は叫ぶ。
わかった、と答えながら軽々と喜六の身体を背負った志狼は、チラリと後ろを振り向いた。
「あっちは火の海だ。どうする? 他に出口は無いのか?」
「この先に裏口があるわ、突き当たりよ」
そこまで言い、先に志狼を向かわせた海華は壁際に崩れる人形を抱き上げる。
先ほど感じた重みが嘘のように、人形はスッポリと彼女の胸に納まった。
その鬼のような顔を睨みながら、海華は呟く。
「もう、おかしな真似はしないで。助けるのは……今度だけよ」
「何してる! 早く来いっ! 焼け死にてぇのかっ!?」
ダンダンと激しく壁を叩く音、バリバリッッ! と木の裂ける響きと共に志狼の怒号が耳に届く。
人形を抱えて脱兎の如くに走る海華、ひたすら煙渦巻く廊下を駆け抜けて志狼がぶち壊したと思われる裏口から転げるように外へと身を投げた。
志狼と海華が命からがら脱出した直後、文楽小屋は轟音を立てながら、あっと言う間に焼け崩れた。
自分が昨日まで通っていた場所が瓦礫と化していく様を、人形を抱き締めたまま呆然と海華は眺め続け、志狼に担ぎ出された喜六は泣き叫ぶ新太と仲間達の手により、直ぐさま医者の元へと運ばれて行った。
野次馬達を蹴散らし、土煙をあげながら朱王が現場に姿を現したのは、喜六が運ばれたすぐ後だった。
全身びしょ濡れのうえ煤まみれの妹と志狼を見るなり、その顔は真っ青に変わり、何があったのだと噛み付かんばかりの勢いで妹を問い詰める。
渋々といったように海華は事の次第を話し出す。
全てを聞き終わった後、朱王は怒髪天を突く勢いで『この大馬鹿野郎ッッ!』と彼女を怒鳴り付けたのだ。
「無茶苦茶なことやりやがって! 志狼さんまで危ない目に逢わせたんだぞっ!?」
「だって、喜六さんがまだ中にいるって聞いたから……」
「そう怒るなよ朱王さん、焼け死にそうな人間を助けたんだ、立派なもんだぜ?」
焼け跡からの帰り道、肩をいからせて前を歩く朱王の後ろを濡れ鼠の海華がしょんぼりと続く。
朱王の横では、結った髪の先からポタポタ雫を滴らす苦笑いの志狼が、今だ怒りの治まらない朱王を宥め続けていた。
「全く……志狼さんがいなかったら、今頃お前は丸焦げだ! 万が一志狼さんにまで何かあったら、俺はどんな顔して桐野様に謝ればいいんだ!?」
「――そうよね、志狼さん、助けてくれてありがとう。あと……ごめんなさい」
「何も謝る必要はねぇよ。俺はただ、裏口蹴破っただけだからな。まぁ、旦那様も褒めて下さるだろうぜ」
汚れた鼻の下を擦りながら、志狼は照れ臭そうな笑みを見せる。
それにつられたのか、海華も煤けた頬を緩めた。
「それより海華、その人形どうする気だ?」
志狼は海華の胸に抱かれた、ぼろキレのような人形に目を向ける。
現場は狂乱状態だったため、小屋の者に返すのを忘れたのだ。
「後から返しに行くわ、使えるかどうかはわからないけど……」
歩くたびに力無く腕を揺らす人形を見ながら、 海華は小さな溜め息をついた。
外に逃げ出してから気付いたのだが、人形の顔には真ん中に大きな亀裂が入っていたのだ。
蹴り飛ばした時に付いたのかはわからない。
衣装もあちこち裂け、焼け焦げ、無残な状態になった清姫は、小屋で感じた鬼気迫る迫力は微塵も感じられない。
燃え盛る地獄の業火の中で、確かにこの人形は生きていた。
そう海華は確信している。
あの重みは人形ではなく、完全に人の重みだったのだ。
「――恋の炎は夜叉鬼神……か」
「ん? なんだそれ」
ポツリとこぼれ落ちた海華の呟きに、志狼は不思議そうに首を傾げる。
何でも無いの、と曖昧な笑みを見せた海華は、ゆっくりと人形の割れた顔を撫でた。
「なんとなくね、火元がわかったような気がしただけ」
「ほう、舞台裏の焼け方が酷いと聞いたがな。 火の気のない場所が、いきなり燃え出したらしい」
「そうか、おかしな事もあるもんだ」
朱王の言葉に、志狼は首を傾げている。
火元はこの人形だ、そう告げようとした唇を海華はキュッとつぐむ。
馬鹿な事を言うなと笑われるだけだろう。
ただ、この人形、清姫は喜六のことを愛してしまった。
誰にも渡したくなかったのだ。
そう考えると、ひどく切ない哀しい気持ちになる。
人形をしっかりと抱え直し、海華は小さな小さな溜め息をつく。
二人の男に聞こえない程の嘆息は、晴れ渡る春空に溶けて消えた。
文楽小屋の火事騒ぎから七日余りが過ぎ、この日は新太が海華に礼を述べに長屋を訪れていた。
新太の話しによると、喜六は火傷や怪我こそ負ってはいなかったが多量の煙を吸い込み、今だ臥せっており、師匠の源吉も軽い火傷で療養中だと言う。
「海華さんには、重ね重ねお世話になりました。本当に、本当にありがとうございました!」
畳に額を擦り付け、涙ながらに何度も礼を述べる新太へ照れ臭そうに笑いながら、海華は顔を上げて下さい、と声を掛ける。
「あたしも訳わかんないままで飛び込んじゃったけど、とにかく喜六さんが無事でよかったわ」
人形は壊れちゃったけどね、そう付け加えて海華はあの人形を壁際から引き寄せる。
新太は涙で濡れる目元を袖口で拭い、泣き笑いのような表情を浮かべた。
「喜六さんや仲間が生きていただけで、もう充分です。人形は……直せばまた使えますから」
「その、人形のことなんだがな新太さん」
海華の隣で新太と妹の話しを黙って聞いていた朱王が、ポツリと口を開いた。
なんでしょうか、と新太が目を瞬かせながら首を傾げる。
朱王は妹から人形を受け取り、その頭をスポンと外した。
「この人形、俺でよければ直させて貰えないかな」
突然の朱王の申し出に、新太は口を大きく開いたまま穴の開くほど朱王の顔を見詰める。
それは海華も同じだった。
「本当、に!? 直して頂けるのですか!?」
「そちらが承諾をして下さるなら、お受けします。私の腕で前と同じに戻せるかはわかりませんが……精一杯やらせて頂きます」
すっ、と一礼した朱王は、顔を上げると新太へ向かって微かな笑みを見せる。
ありがとうございます、と再びペコペコと頭を下げ、嬉し涙を流す新太。
よかったわね、と繰り返し、新太の震える肩を叩く海華も心底嬉しそうに顔を綻ばせていた。
もう一人の方、つまり志狼にも礼を言いに行くと言い残して新太は長屋を後にした。
見送りを終え、部屋に戻った海華が目にしたのは、早速人形の修理作業を開始している兄の姿だった。
「まさか、兄様が人形の修理しますなんて言うと思わなかったわ」
うふふ、と笑いながら兄の後ろに回り、作業の様子を海華が覗き込む。
「俺は人形師だからな。壊れた人形の修理だって立派な仕事だ。……ただ、自分のやるべき仕事を受けたまでさ」
ぶっきらぼうに言いながら人形を撫で回し、これは造り直ししかないな、等と呟いている。
「何か手伝うことがあれば、なんでも言ってね」
「ああ、その時は頼んだぞ」
そう答えたまま、作業に熱中し出す兄を頼もしげに眺めながら、海華はあることを思っていた。
もう少ししたら、喜六の見舞いに行こう、と。
兄の直した人形を遣い、再び喜六と新太が共に舞台に立てる日を、海華は心から待ちわびていた。
終




