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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第十九章 炎上、日高川
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第三話

 「海華さん、新太から聞いたのかい?」


 練習の間の小休止、人形を壁際に置いた喜六がぽつりと呟いた。

何を? と聞かないでもわかる海華は、ええ、とだけ答える。

太陽が頭上高く昇る時刻になっても、小さな明かり取り窓しかない舞台裏の小部屋は薄暗く、自分から離れた喜六がどんな表情をしているのかはわからない。


 「どう……思った? その、俺達のこと聞いて、よ」


 そろそろと顔をこちらへ向けた喜六。

顔の右半分は黒い影に塗られ、左半分から伺える感情は海華の返答に対する恐れ、不安と幾ばくかの哀しみが混じりあった複雑なものだった。


 「そうね、気持ち悪い……」


 人形の髪を整えながら何事も無いかのように答える海華の耳に、ヒュッと鋭く息を飲む音が聞こえる。 チラリと横目で喜六の様子を伺うと、張り裂けんばかりに目を見開き、キリキリと唇を噛み締めた喜六の姿がある。

膝の上で握り締められた両手は、ワナワナと震えていた。


 「なーんてね、そんな事思ってたら、今ここにいる訳無いじゃない」


 ニヤッと悪戯な笑みを向けた海華に対し、呆気に取られたように喜六の口がポカンと開く。

人形を大切そうに膝に乗せたまま、海華は先ほど新太が運んできた茶を啜った。


 「新太さんにも言ったけど、人様の色恋に口出すほど偉くないのよね。好きな相手が男でも女でも、別に構わないじゃない」


 「本気で……言ってんのかい?」


 恐る恐るといった感じで、喜六がこちらににじり寄る。

コクコク頷きながら海華は湯飲みを置く。


 「本気よ。好きならいいじゃない。まぁ……なんやかんや言う人らはいると思うけど、でも、二人が好きあってれば、いいじゃないの」


 頑張ってよ、そう言いながらまるで勇気付けるように喜六の肩を軽く叩く。

ありがとな、と喜六の僅かに膨らみが戻った頬が小さな微笑みを浮かべた、その時だ。


 ガタ――――ンッッッ!


 床を揺らす程の衝撃が二人を包み、空気がクラリと揺れる。

弾かれるように顔を上げた二人は、揃って振動の根源へと振り向いた。

そこに倒れていたのは、喜六の人形。

壁にきちんと立て掛けてあったはずが、何の弾みか前のめりに倒れている。


 「あっ! いけねぇっ!」


 慌てて喜六が飛び付くように人形に駆け寄り抱え起こす。

くったりと喜六の胸に寄り掛かる清姫人形。

くい、とその白い顔が海華へと向けられた瞬間、カツン……と小さな響きと共に、人形の表情が一変する。


 人形の変化に喜六は気付いていないようだ。

勿論、彼は動かしてなどはいない、しかし人形のガブは動いたのだ。

耳まで裂けた赤い口、ギラギラとのぞく牙……。

爛々と光る眼に睨み付けられる錯覚に陥り、海華は無意識に生唾を飲み込んでいた。


 本番も三日後に迫り喜六らは通し稽古に没頭していた。


 海華は源吉と共に客席から喜六の演技を最終確認していたが、いつもは仏頂面の源吉が僅かだが表情を緩め、弟子の演技を見詰める様子を伺い、もう大丈夫だろうと胸を撫で下ろす。

喜六の隣には勿論新太が黒子として付いている。

新太が支えになっていれば、もう何の心配も無い。

海華の役目は無事に終わったのだ。


 稽古も終わり、今日は喜六と新太、二人揃って道の途中まで見送ってくれた。


 「本番は、ぜひ朱王さんとご一緒にいらして下さい」


 にこにこと笑顔を見せる新太にそう言われた時は本当に嬉しく感じ、寄り添いながら帰る二人の後ろ姿を眺めながら海華は不覚にも、羨ましいなどと思ってしまった。

ただ一つ、心の隅に引っ掛かっているのは、先日あった人形の異変だ。

それほど重くもない人形が倒れたくらいで、あれほど大きな音が出るのだろうか?

なぜ、ガブが動いたのか……。

自分を射るように見ていた人形の目付きが、忘れられなかった。


 そんなこんなを考えながら、海華の足は長屋へと向かう。

地面に伸びる長い影を引き連れ、夕日に赤く染まった戸口をガラリと開くと見覚えのある背中が目に飛び込んできた。


 「あら、志狼さんじゃないの!」


 「おう、邪魔してるぞ」


 黒く日焼けした彼の引き締まった顔が振り向いて唇から白い歯が覗く。

濃茶の着流しを粋に着こなした男を目の前にし、海華の顔にも笑みが浮かんだ。

志狼の前に座した兄に、ただいまと一言、木箱を降ろして壁際に押し付け、ストンと兄の横へ腰を下ろす。


 「どうしたの? 志狼さんがここに来るなんて珍しいわね」


 「ああ、ちょっと渡したいもんがあってな」


 そう言った志狼の視線が、朱王の前に置かれた深緑色の風呂敷包みに移る。


 「志狼さんに頂いた。饅頭だってさ、よかったな」


 横から聞こえた兄の言葉に、パッと海華の顔が輝く。

甘味は彼女の大好物なのだ。


 「隣の奥方からの貰い物だ。折角だが、旦那様も俺も甘味はあまり得意じゃないんでな。よかったら食べてくれ」


 朱王の出した茶を啜り、志狼は口を開く。

傷ませるのも勿体無い、海華殿の所へ持って行け、と桐野に言われたのだ。

ありがとう! と満面の笑みで礼を述べた海華はおもむろに立ち上がり、兄の作業机の下から酒瓶を引っ張り出し、茶碗を二つ携えて戻ってくる。


 「お茶より、こっちの方がいいでしょ?」


 「そうだな、なら一杯だけ」


 口角を上げた志狼に、なみなみと酒を注いだ茶碗を渡して兄の分も用意する。

旨そうに酒を一口含んだ志狼は、何かを思い出したように海華の顔を見た。


 「朱王さんから聞いたが、文楽の人形遣いに稽古付けてるんだって? 大したもんだな」


 「そんなんじゃないわよ。ただ、芝居を少し見てるだけ。それも今日で終わりだしね」


 「そうか、喜六さんは上手く遣えるようになったのか」


 どこか安堵したように朱王は呟く。

朱王なりに喜六の様子を心配していたのだ。


 「うん、源吉師匠も、腕を上げたって喜んでたわ。本番には兄様と一緒に見にきてくれって」


 海華の言葉に、嬉しそうに朱王は頷く。


 「やっと、人形に清姫の魂が移ったか」


 「そうね、人形に惚れられるくらいじゃないと……」


 そこまで言いかけた海華の唇が、ピタリと止まる。

人形に惚れ、惚れられなければ一人前とは言えない、それは海華の持論だった。

しかし、清姫は恋に狂った女、愛憎の炎で愛した男を焼き殺した女なのだ。

己を睨み付けていた、あの金色に輝く瞳が脳裏に甦る。

あれは、あれは嫉妬に狂った眼差しのように感じられた。


 「そんな……まさか、ね……」


 夕日に染まる畳の一点を見詰めたまま、何かを口の中で呟く海華の様子に、志狼は小さく眉を寄せた。


 「海華? ――おい?海華!」


 「あ……!? あ、ごめんなさい、なに……?」


 「何って、いきなりボーッとしてどうしたんだ?」


 もっともな志狼の問い掛けに、海華は一瞬戸惑う。

今、自分はとんでもなく馬鹿馬鹿しいことを考えていた。


 「まだ喜六さんのこと心配してるのか?」


 くすくす笑う兄に肩を小突かれ、まぁね、と曖昧な返事を返す。

朱王も志狼も、どうやら納得したようだ。

酒を舐めながら談笑する二人を横目に、海華は小さな溜め息をつく。

いくら魂だ命だと言っても、相手は人が作った人形だ。

何を恐れているのか、と自嘲するものの、胸の中にポツリと留まる言い様の無い不安は、いつまでも海華の中に居座り続けていた。


 翌日、海華は久々に辻に立った。

桜の盛りも過ぎ、以前より人の集まりは悪いが、それでも一日分の米を買えるだけの稼ぎにはなる。

柔らかな春風が黒髪を揺らして吹き抜けるたび、どこかの桜から散った白い花弁が晴れ渡る空を舞っていった。


 そろそろ次の場所に移ろうか、と人形を片付けながら海華が考えていた時、後ろからポンと肩を叩かれ、振り向くと、昨日会ったばかりの志狼が立っている。


 「あら、志狼さん」


 「早速やってるな? 人だかりが出来ていたから、覗いてみた」


 そう言いながら散り始めた人々を小さく指差す志狼。

見ててくれたの? と嬉しそうに顔を綻ばせた海華が、木箱を背負った時だった。


 カーン……カーン……カーン……


 遠くから鳴り響く半鐘の音が二人の鼓膜を震わせた。


 「嫌だ、火事かしら?」


 「そうらしいな……ああ、あそこだ」


 不安そうな表情を見せる海華の後ろを差し、志狼は眉を寄せる。

志狼の視線の先では、雲一つ無い青空にもうもうと真っ黒な煙が立ち上ぼり、風に揺られて空に広がっている。


 「あの方向なら、日本橋の近くだなぁ」


 そう志狼の隣で煙を眺めていた中年の男が呟いた。

日本橋、と聞いた途端、海華の背中に冷たいものが流れ、妙な胸騒ぎを覚えた。


 「日本橋の近く……? まさか……」


 「おい、どうしたんだ? 顔が青い……」


 怪訝そうな顔をしながら、志狼は海華を覗き込む。

その瞬間、海華は志狼の問いに一切答えず、脱兎の如く地を蹴り駆け出した。

驚いたのは志狼である。

待てっ!、どこへ行く!? と叫びながら、そのまま海華の後を追って走り出した。


 ガタガタと激しく揺れ、時々後頭部に当たる木箱も気に止めず海華は一心不乱に火事場を目指す。

昨日から胸に居座り続けていた黒く澱む不安、それが今、高々と立ち上ぼる煙に合わせるように、胸を覆っていくのをはっきりと感じる。


 後ろで自分の名を叫びながら追い掛けてくる志狼のことも気にしている暇は無かった。

頭に浮かぶのは、喜六と新太、そして射殺すような眼差しで自分を見据えていた人形の顔だけだ。

間違いであって欲しい、そう切実に願う海華の気持ちは見事裏切られることとなる。


 道を行く人波を掻い潜り、汗だくになりながら文楽小屋に駆け付けた海華。

その目の前では、大量の黒煙と紅蓮の炎を噴き上げながら、文楽小屋が燃えていた。

悲鳴や怒号を上げながら、ごった返す野次馬達。

慌ただしく走り回る火消し連中に混じって、中から急ぎ運び出した荷物を抱えて逃げ回る文楽小屋の者らの姿があった。


 何よりも海華の目を釘付けにした光景、それは今にも燃え盛る小屋に飛び込まんとし、火消しの男や黒子仲間に押さえ付けられて狂ったように『喜六さん、喜六さん!』と泣き叫ぶ、真っ黒な煤にまみれた新太の姿だった。


 「新太さんッッ! 新太さんどうしたの!? 喜六さんはどこ!?」


 血相を変えた海華が暴れ狂う新太に駆け寄り、 その胸ぐらを掴み上げた。

煤にまみれた真っ黒な顔は流れる涙と鼻水でぐちゃぐちゃになり、黒子衣装は所々焦げている。


 「海華さぁん……喜六さんが、人形を持ってくるって……まだ中に……ッッ!」


 泣き叫ぶようにそう告げると、新太はワァァッ! と大声を上げてその場に崩れ落ちる。

側にいた黒子仲間は、悲痛そうな面持ちでただ、その場に立ち尽くしていた。

彼の言葉を聞いて、顔色を真っ青に変えた海華は音を立てて燃え盛る小屋へ視線を向けると、おもむろに木箱をその場に降ろして走り出し、近くに置いてある火消しに使うであろう桶の水を、頭からひっ被った。


 「海華さん!? 何する……」


 「喜六さん助けに行くっ! 絶対まだ間に合うからっ!」


 頭から爪先までビッショリと濡れた海華は、新太や周りが止める声も聞かず、黒煙の吹き出す玄関へと突進しその姿は、あっと言う間に煙にまかれて見えなくなった。

海華が小屋に飛び込む所を目撃した志狼は思わず、やめろっ! と絶叫する。

全速力で駆けてきたにも関わらず、彼は後一歩の所で海華に追い付けなかったのだ。


 中に人がいる、女が飛び込んだと、大騒ぎする火消しや野次馬を押し退けて小屋に駆け付けるが、必死の消火作業も関わらず、火の勢いは益々強くなるばかり。

部分的に抜け落ちた屋根や窓からは紅蓮の焔が吹き出し、バキバキと嫌な音を立てて小屋は燃え落ちていく。

様々な物が焼ける匂いと、凄まじい煙のため息をするのも苦しいくらいだった。


 「あの馬鹿野郎――ッッ!」


 カッと目を見開き、喉を破らんばかりの怒号を上げた志狼は、突如側で小屋が焼けるさまを呆けたように眺める黒子衣装の男に掴み掛かった。


 「おいっ! 中西長屋にいる朱王って人形師を呼んでこいっ!」


 目を白黒させ、はぁ? と気の抜けた返事を返す男を、志狼は前後にガクガクと揺さぶった。


 「はぁ、じゃないっ! さっさとここへ呼んでこいッッ! いいか、中西長屋の『スオウ』だ、わかったなっ!?」


 こめかみに青筋を浮かべ、今にも殴り掛かってきそうな勢いの志狼に圧倒されたのか、男は怯えたように顔を歪めてガクガク頷く。

乱暴に突き飛ばせば、男は足元を縺れさせながら中西長屋の方向へと走り去って行った。


 男が去ったのを確認した志狼は、自分の横を水の入った桶を持ち、よたよた駆ける火消しを呼び止めて、その手から桶をひったくった。


 「おいっ! おめぇ何しやがるんだっ!」


 眉をつり上げ、怒りの表情を見せる火消しを横目に志狼は海華同様、ザッ! とばかりに水を頭から被り、空の桶を火消しに押し付ける。

そのさまを見ていた火消しの顔から、見る間に血の気が引いていった。


 「アンタまさか中に入る気か!? 止めとけッッ! 死んじまうぞッッ!」


 「女が飛び込んだだろう!? 見殺しにできるかっ!」


 「もう手遅れでぃっ! 中は火の海だ! 生きちゃいねぇよっ!」


 必死に自分を止める火消しを、黙れッッ! と一喝、思い切り跳ね飛ばした志狼は、そのまま息を詰まらせる黒煙と、地獄の業火にも感じる灼熱の炎の中にずぶ濡れのまま飛び込んでいった。

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