第一話
サラサラと澄んだ大川に花筏が流れる。
満開に咲き誇っていた桜花も徐々に花弁を落とし始める季節、夕暮れの道を鼻唄を歌いながら海華が帰路についていた。
桜が散り始める頃になっても、花見客は減る気配は無い。
人通りが多くなるのに比例し、海華の稼ぎも上がるのだ。
今日も、木箱から感じる金の重みで、すこぶる機嫌の良い海華は、いつもより少し上等な酒を兄の土産として買い求めた。
「兄様ー、ただいま!」
にこにこ顔で戸を開けた海華が、そのままの表 情、姿勢のまま一瞬にして固まった。
壁に向かって置かれた作業机の前で、兄と小柄な女が向かい合って座っている。
赤い振袖には色鮮やかな花ばなの刺繍が施され、絞めている帯にもふんだんに金糸銀糸が使われている。 ふくよかな頬の色白な娘、その蕾のような唇が夕日を浴びてやけに妖艶に見 た。
「ああ、お帰り。――なんだ、いつまで突っ立ってるんだ?」
顔を引き攣らせながら自分を凝視している妹へ、朱王は怪訝な目差しを向ける。
海華が乾いた唇を一舐めした。
「兄……様、その人、誰?」
「人? 馬鹿だな、これは人形だ。文楽に使うや人形だよ」
そう言った朱王が人形の肩を掴んで揺さぶると、カクカクと無く娘の頭が前後に揺れる。
「あ……人形、人形だったの」
ほっと息を吐きながら、海華はやっと部屋へ上がる。
恐る恐る娘の顔を覗き込めば、やはり表情の無い文楽人形だ。
幼児程の大きさがあるため、一瞬本物の人間と見間違えたのだ。
「どうしてこんな物がここにあるの? 修理でも 頼まれた?」
酒瓶を兄へ手渡し、海華が人間を突付く。
一見、顔にも汚れや傷は見られず手も身体も綺麗なものだ。
「修理……と言うか、もっと厄介な依頼をされたんだ」
酒瓶を手にしたまま、朱王は困ったように頭を掻く。
不思議そうに首を傾げる妹に、朱王は事の次第を話し始めた。
人形を持ち込んだのは、喜六という文楽の人形遣いだった。
やたらと深刻そうな顔の喜六は、朱王にガブを作り直してくれと切り出す。
ガブとは、いわゆる形相を変えることが出来る特集な首だ。 憎悪や怒りを表す際に用いられる文楽特有の仕掛けである。
「修理じゃなくて造り直し? ガブだけって珍しいわね」
「そうなんだ、もっと恐ろしく、もっと怨みを込めた表情にしてくれと言われた。なんでも、初めて主役を張る芝居に使うらしい。確か…… 日高川だったかな」
「日高川……日高川入相花王ね。なら、この人形は清姫か」
ポンと手を打つ海華、自分でも何度か辻で演じた事のある芝居である。
「そう、喜六さんは清姫を遣うんだ。だから本番までに急いでくれと」
「兄様だったら簡単な仕事じゃない、前にも何度か文楽人形の仕事受けたでしょ?」
なぜそんなに困っているのか海華にはわからなかった。
しかし、妹の言葉に朱王はますます眉を潜めてしまう。
「これのどこを作り直せばいいのか、俺にはさっぱりわからないんだ」
そう嘆息しながら人形の中に手を突っ込み、 仕掛けに手を掛ける。
カツン、と小さな響きを立てて形相を一変させた清姫、その表情を目にした途端に海華は息を飲み、思わず後ろへ飛び退いていた。
「これ……下手に弄らない方が、いいんじゃない?」
人形の顔を穴の開くほど見詰めながら海華が呻く。
そうだろ?と返した朱王は、人形を自分の方へと向けた。
世間からは稀代の天才人形師と称される朱王ですら息を飲むほど、その首は素晴らしい出来だったのだ。
特に、怒りを表す表情は絶品だ。
カッと裂けんばかりに見開かれた両目には金箔が使われ、 爛々と妖しい光を放つ。
耳まで裂ける口は今にも朱王に食い付かんばかり、ズラリと並んだ歯を剥き出し、髪をほどけば、さぞかし恐ろしい形相で観客を魅力するだろう。
執念、怨念を漂わせる人形に、思わず海華は生唾を飲み込んでいた。
「それで……その人形遣いは、これのどこが気に食わないって言ってるの?」
「そこなんだよ。迫力が無いとさ。もっと恐ろしくて迫力のある物にして欲しいと。他の人形師には軒並み断られたらしい」
「だから最後の最後に兄様の所へ来たわけね? で、引き受けたの?」
そろそろと兄に近寄りながら海華が首を傾げる。
朱王は、ますます困ったように眉間へ皺を寄せた。
「一度は断ったんだ。俺が手を加えるまでもない、素晴らしい首だと言ってな。でも、なかなか納得して貰えなかったよ」
何でも、酷く切羽詰まった表情で後生だから受けてくれ、と散々頭を下げて頼まれたそうだ。
仕方無く、少し考えさせてくれとだけ言って人形は預かった。
「おかしな人形遣いねぇ、これで迫力が無いってんじゃ、あたしの人形は猫の子も驚かせられないわよ」
苦笑いしながら人形を凝視する海華。
自慢じゃないが、自分だって人形遣いの端くれ、人形の良し悪しはわかる。
年代物だが綺麗に手入れされ、状態も良いそれは、どこか手を付けてはいけないような不思議な雰囲気を醸し出していた。
「やっぱり、お前もこのままがいいと思うか?」
「当たり前じゃない。こんな凄い人形、手を加えるなんて勿体ないわ。兄様だって人形師なら、これの良さなんてすぐにわかるでしょう?」
あたしに聞くまでも無いじゃない? と、海華が白い歯を見せる。
すると朱王は人形を机の脇に置き、埃避けの布を被せた。
「俺はな、人形遣いとしてのお前の意見が欲しかったんだ」
「人形遣いとして? そうねぇ、あたしはこの人形遣った事は無いから……でもね、お客に迫力を感じさせるのは、何も人形の顔だけじゃないのよ? 遣い手の腕と、心次第なんだから」
真顔で言った海華は、おもむろに木箱を取り出して自分の人形を引っ張り出す。
朱王の処女作であるそれは、今の朱王が作る作品から見れば天と地の差があった。
「この人形はね、それからしたら迫力なんて微々たるもんよ。 でも、仕掛けを使えば皆怖がるし、使わなくても生きてるみたいだって言われるわ。 人形を生かすのが人形遣いの役割なのよ」
妹の力説を腕組みしながら聞き入る朱王。
決して喜六の腕が悪いなどとは思わない。
何しろ、主役に抜擢されるような遣い手なのだ。
人形にも遣い手にも不足は無いとしたなら、一体何が足りないのだろう……?
「その喜六って人、文楽座にいるんでしょ?」
突然の問い掛けに、朱王は無言で頷く。
と、海華の顔がパッと明るくなった。
「なら、明日人形を持って行って、遣う所見せてもらえば? それなら、何が足りないかわかるじゃない。 あたしも勉強になるわ!」
「なんだ、お前もついて来る気か?」
「勿論! なかなか舞台の裏なんか見せてもらえないんだから。ねぇ、連れて行ってよ」
いいでしょ? と甘えるように上目遣いで自分を見上げる妹へ、邪魔だけはするな、と朱王が釘を刺す。うん!と嬉しそうに返事を返した海華は、微かな笑みを浮かべる兄の横でいそいそと自らの人形を手入れし始めた。
翌日、朱王と海華は預かった人形を手に依頼人である喜六の元へと向かう。
場所は日本橋近くにある文楽の芝居小屋、海華は文楽座と呼んでいるが、実際の文楽座は上方にある。
文楽は上方で発祥した芸であり、そこから江戸へ下ってきた者らが集まって小さな芝居小屋を立ち上げた。
勿論、本家とは比べものにならない小規模な物だが、それなりに腕の良い人形遣いや太夫らが芸を披露している。
店の前に立つと、中から微かに三味線の音が聞こえ、演目の名が書かれた木札や風雨に掠れた舞台幕が風に揺れていた。
まだ芝居が始まるには早すぎる時間帯のため、小屋には客の姿は見えない。
御免下さい、と奥に向かって朱王が声を掛けると、すぐに黒子衣装に身を包んだ若い男が姿を現した。
「早くに申し訳ありません。私、人形師の朱王と申します。喜六さんはいらっしゃいますか?」
はい、少々お待ち下さい。
そう返して奥に引っ込む男、その口調に僅かな上方訛りに海華は仄かな懐かしさを感じた。
黒子の男が中へ入って暫くすると、黒い着物に縦縞模様の袴を纏った、これまた若い男が覚束無い足取りで姿を現す。
背丈は朱王程は無く、細身の男は病み上がりのようにふらつき、頬は痩けて目には光が無い。
これが喜六とか言う人形遣いなのか? と海華は小さく首を傾げていた。
「これは……朱王さん! よくおいで下さいました!」
朱王の顔を見た途端、喜六の痩せた頬にサッと血の気がさす。
「突然お邪魔して申し訳ありません。……ああ、これは妹で、海華と言います」
「はあ、妹さんですか]
ペコリと頭を下げる海華を見ながら、喜六が呟いた。
朱王は早速話を切り出す。
この人形を遣い、一度日高川を見せて貰えないかと……。
喜六に案内され二人が通されたのは芝居小屋の観客席。
喜六は朱王の申し出を快く受けてくれたのだ。
真ん中に座る二人の横には体格の良い初老の男が一人、喜六の師匠である源吉だ。
弟子とは対称的なでっぷりとした肉付きの源吉は、真っ白な頭髪が申し訳程度に頭へ張り付き、着流しを押し上げる腹は狸のように突き出ている。
朱王らの訪問に嫌な顔一つせず迎えてくれたのだが、今は睨み付けるような目付きで舞台に立つ弟子を眺めていた。
例の人形を手にした喜六と黒子数人が大きな舞台上に立ち、小屋の右手側にはズラリと三味線や太夫らが並ぶ。
一度だけ上方で見た文楽芝居を思い出し、海華の胸は高鳴った。
舞台上の小道具は、「日高川」と墨字で書かれ た木製の柱と、川を現した波の模様が水色描かれた舞台一杯に広がる布だけ。
ピンと張り詰めた空気、耳が痛くなる程の静寂を打ち破ったのは、力強い三味線の響きだった。
小屋全体を震わすように打ち鳴らされる三味線。
太夫がすぅっと息を吸い込む。
朱王も海華も、膝の上に揃えた手を無意識に握っていた。
『ここは紀の国、日高川――っ』
鳴り響く三味に負けない声量で、太夫の低い声が飛ぶ。
舞台では、赤い振袖をひらひら舞わせながら、人形に命が宿り出していた。
「清き流れも清姫が……女心の一筋に脛もあらわにようようと……」
太夫に合わせるように海華の唇が声は出さずに静かに動き出す。
朱王は表情一つ変えずに人形の動きを目だけで追い、隣の師匠は相変わらず苦虫を噛み潰したような顔で弟子を見詰めていた。
日高川と書かれた白木の柱にしがみついていた人形が跳ねるように飛びすさり、何かを追うかの如く川に向かって一杯に片腕を伸ばす。
喜六の顎から、一筋の汗が滴り落ちた。
『女は一度我が夫と思い込んだら魔王でも、たとへ鬼の変化でも……焦がれ焦がるる恋人に……恋の呵責に砕かれてッッ!』
叫ぶような太夫の響きに合わせ、人形の結わえ髪がバサリと音を立ててほどけ散る。
次がいよいよ山場、ドロドロとおどろおどろしい太鼓の響きが鼓膜を打つ。
しかし、その太鼓の音に合わせるように海華の眉が寄りだし、眉間には深い皺を刻み込む。傍らの師匠は 徐々に視線を落としていった。
そして、カッとばかりに人形が金色に輝く眼を見開き、口が耳まで裂けた瞬間、師匠の顔は完全に伏せられてしまう。
「そこまでっ!」
突如、三味の音を遮るような嗄れ声が小屋に響いた。
今までに黙りを決め込んでいた源吉が、初めて口を開いたのだ。
ピタリと時が止まったように全ての音が止み、 シンとした静けさが辺りを包む。
舞台では、人形を持ったままの喜六が石のように固まり、朱王と海華も手に汗握りながら、次に源吉から出る言葉を待っていた。
ゴホン、と小さな咳払いを一つ、でっぷりとした身体が立ち上がる。
その視線は、舞台の弟子から朱王らに向かって移っていた。
「朱王さんとやら、ご覧の通りです。あれでもまだ、ガブを作り直しますかな?」
「……いえ、その必要は無いでしょう。あれは、完璧な人形です」
人形に釘付けになったまま、朱王が呟く。
その頬から、一筋の汗が顎まで伝った。
朱王の呟きが聞こえたのか、喜六の顔色が苦しそうに歪む。
その台詞を聞いた源吉は小さく頷いた。
「貴方様なら、そう仰ると思うておりました。 ところで……海華さん、でしたかな?」
いきなり名を呼ばれた海華は、飛び上がらんばかりに驚いた。
はい!? と間の抜けた返事を返しながら、ギクシャクと源吉へ顔を向ける。
「あんたが辻で傀儡廻しをしておる所を、儂もよく見ておる。そこでだ、今の芝居に足らないモノを言うてみてくださらんか」
海華の背中に冷たいものが流れる。
源吉に仕事を見られていたのにも驚いたが、たかが大道芸人の自分に意見を求めてくるなど、思ってもみなかった。
「そんな、私なんかの……」
「構わん、傀儡廻しも儂らと同じような人形遣いに違いはなかろう。遠慮無く言うてくれ」
そう言いながら、源吉は喜六へこっちに来るよう促す。
フラフラした足取りで歩く喜六は海華の前に来た時、その目は僅かに血走っていた。
助けを求めるように兄を見上げるが、朱王はただ小さく頷くだけ。
言え、と言いたいようだ。
フゥッ、と海華の口から溜め息が漏れる。
「では……僭越ながら、今のお芝居……遣い手の動きは無駄が無く、流れるような動きが素晴らしいと思いました。でも……」
一度言葉を切り、自分を見詰める男らをグルリと見渡す。
特に、強く唇を噛み締めている喜六の視線が突き刺さるのを痛い程に感じ、自然と顔が伏せがちになった。
出来れば言いたくない、しかし、ここまで来たなら言わなければならない……。
海華は覚悟を決めた。
「でも、人形の……清姫の心が何も伝わってきませんでした……」
消え入るような声、それを聞いた瞬間、喜六の表情が引き攣り、源吉は片方の眉を僅かに上げた。
海華は更に続ける。
「清姫の恋した女の愁いや、安珍に対する強い怒りや哀しみが、何も伝わってきませんでした。何といえばいいか、その……迫力が無いのも、人形に、ガブに頼り過ぎなのかと」
「つまりだ、人形に血が通うとらん。生きてはおらんと」
源吉の問いに、はい、小さく頷いた海華。
チラリと喜六の様子を伺うと、顔色は真っ青、身震いするかのようにワナワナと全身が戦慄いていた。




