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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第十八章 散り落ちた徒の花
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第四話

 「兄様、番屋で大暴れしたんだって?……高橋 様から聞いたわ」


 新しい浴衣を纏い、風呂道具を手にした海華が口を開く。

同じく浴衣姿の朱王は気まずそうに顔を背けながら、ああ、と一言返した。


 幾日かぶりに長屋へ戻った海華は、兄と共にすぐさま風呂屋へ直行した。

牢屋に囚われてから、一度も風呂に入っていない。

食べるより、寝るよりまずは熱い湯にゆっくり浸かりたかった。


 身体を擦るたびにボロボロと剥がれ落ちる大量の垢を見て、海華は思わず小さな悲鳴を上げてしまったのだ。

髪も綺麗に洗い、やっと人心地ついた海華彼女の足元からは、兄から貰った桐下駄が歩くたびにカラコロと軽やかな音色を響かせている。

慎太郎から貰った下駄は、風呂屋へ行く途中に朱王の手で川に捨てられた。


 「腰抜けそうになるくらい恐かったって」


 「あの時は、気が動転していたからな。……後で謝りに行こう」


 濡れた髪を掻き上げた朱王の上気した身体を暖かな風が優しく撫でる。

沢山の人々が行き交う賑やかな表通り、並んで歩く二人の横を、真っ赤な顔をした酔っ払いが千鳥足で通り過ぎて行った。


 「あとね、高橋様から兄様の言伝て聞いたの。ずっと待ってるって……凄く嬉しかった。本当はね、あたし、もう帰る場所無いと思ってたから……」


 そう呟きながら強く目元を擦る妹を自分の側に引き寄せ、濡れた髪を掻き混ぜる。


 「お前は、俺のたった一人の妹だ。見捨てられるわけ無いだろう」


 「ありがとう……本当に、本当に嬉しかった。でも、兄様の言った通りだったわね。あたしなんかに、女将が勤まるかって。騙されたのにも気が付かなくて、あたし大馬鹿よ……」


 そんな台詞と共に瞳が潤みだし、海華の顔は徐々に伏せられる。

と、朱王の足がピタリと止まった。

そして突然彼女の手を引き、人気の無い小さな裏路地に入り込む。


 「あたしなんか、なんて言うな。なぁ、海華。 確かにあの男はとんでもない奴だ。だけどな、世の中の男が皆あんな奴とは限らない」


 ぐずぐず鼻を啜る妹の顔を身を屈めて覗き込む。


 「いつか、お前のこと本当に大事にしてくれる 男が出てくるさ。だから、あまり自分を卑下するな」


 その瞬間、うわぁっ! と声を上げて泣きじゃくりながら、 海華が朱王にしがみつく。

足元に転がる風呂道具、子供のように声を上げて泣く彼女を優しく抱き締め、朱王は無言のまま背中を擦り続けた。





 海華が無罪放免になった翌日から、二人はあちこちに礼を述べ、頭を下げて回った。

海華の無罪を信じてくれていた者達は皆、一様に喜んでくれ、瓦版には改めて慎太郎が真の下手人であることが書かれる。

しかし、これでめでたく一件落着とは行かなかった。

海華の様子が、どことなくおかしいのである。


 牢から出されてから二、三日で海華は仕事を再開した。

暫くゆっくり休めという朱王の言葉に、海華は仕事をしていた方が気が紛れるから、と言って毎日出掛けて行く。

普段の仕草や表情には、特に変わった所は無い。

しかし、部屋にいるときは急に無口になったり、ボンヤリ宙を眺めている事が多々あったのだ。


 事件前の海華からは、あまり見られない様子に朱王は内心心配していた。

しかし今、あの事件を蒸し返したくない。

海華の気持ちもまだ落ち着かないだろう、時がたてば前と同じに戻るはずだ。

単純にそう考えていた朱王だったが、留吉の口から海華が下橋屋の近く、慎太郎と出逢った橋の上で一人ぽつんと佇んでいたと聞いた時から、その考えは変わった。


 そしてある日、海華が昼間仕事に出掛けたのを見計らい、修一郎の元へと向かったのである。


 「……それで、海華はまだふさぎ込んでおるのか?」


 奉行所の邸宅、その自室で眉間に皺を寄せる修一郎へ、『はい』と顔を伏せがちにしながら朱王が答え る。

その場にちょうど居合わせた桐野は、難しい表情を張り付けたまま黙りこくっていた。


 「私や他の者の前では、努めて明るく振る舞っておりますが……」


 「まだ日もたっていない。あんな目に逢ったのだ。早々に忘れも出来んだろうな」


 腕組みをした桐野が発した言葉に、修一郎も大きく頷く。


 「私には、どう声を掛けてよいのかわかりません……今、私が何を言った所で、海華には安っぽい慰めにしか、聞こえないでしょう」


 情けないと思う、不甲斐ないと思う。

しかし、何をどう彼女に伝えればよいのか、わからないのだ。

風呂屋からの帰りに掛けた言葉すら、適当だったのか疑問に感じる。

だが、それは修一郎や桐野とて同じだった。


 沈黙の時が静かに過ぎ去る。

障子を隔てた庭から、賑やかな雀の鳴き声だけが聞こえた。

やがて、大きな溜め息と共に修一郎が口を開く。


 「もう仕方あるまい。こうなったら雪乃に一役かってもらうか……」


 「雪……乃様に、ですか?」


 伏せていた顔を上げ、幾度か瞬きを繰り返す朱王。

『おお、それがいい』と桐野が表情を綻ばせる。


 「女の気持ちは女が一番わかるだろう。いくら俺たちがここで雁首揃えて唸っていても、何も解決はせぬ」


 「そうだ。朱王、海華殿とて男の儂らには話し難い事もあろう。ここは奥方様にお任せしてはどうだ?」


 「しかし、雪乃様にご迷惑では……」


 おずおずと返す朱王に、些か怒ったように修一郎は顔を歪める。


 「なにが迷惑なものか! 雪乃も、海華をひどく案じていたのだぞ。雪乃には儂から話しをつけておく。どれ、少し待っていろ」


 そう言い残し、修一郎は早速妻の元へと向かった。

残された朱王は、どこか不安げに桐野に視線を向ける。

朱王の気持ちを読んだかのように、桐野が口を開いた。


 「なぁ朱王、いくら共に暮らす兄妹でも、海華は女だ。男のお前にだって気持ちの全てはわからぬ。……女心は複雑なのだ」


 ぽつんとこぼれた桐野らしからぬ台詞に、朱王はここへ来て初めての笑みを浮かべていた。





 朱王が修一郎宅を訪問した翌日も、海華はいつものように仕事に出ていた。

朝から数ヶ所の辻道に立ち、人形を操りながら義太夫を唄う。

それは、いつもと何ら変わらぬ海華の日課である。

長屋を出てから数刻がたち、時刻なもう昼過ぎを廻っていた。

穏やかに降り注ぐ太陽の光、顔の横をヒラヒラと白い蝶が舞い飛んでいく。


 人だかりも一段落し、そろそろ休もうかと思った海華は人形を木箱に仕舞い始めた、その時である。


 「あら、海華ちゃん?」


 突然背後から聞こえた涼やかな声に慌てて振り向くと、少し離れた場所に、にこやかな笑みを浮かべた雪乃が佇んでいる。

鮮やかな萌木色の着物が海華の目に眩しく映った。


 「雪乃様! ご無沙汰しておりました」


 ペコリと頭を下げた海華に向かって軽やかな足取りで雪乃が駆け寄ってきた。


 「暫くねぇ、もうお勤めはおわりなの?」


 「いえ、夕方まで続けます。今は……少し休もうと思って」


 照れながら俯く海華、その頭上から鈴を転がすような声が響く。


 「あら、それならウチにいらっしゃい。ちょうど美味しいお菓子を頂いたところなの」


 「でも……よろしいんですか?」


 「勿論よ、今は私しか居ないから退屈してたの。海華ちゃんさえ良ければ」


 「ありがとうございます!」


 雪乃に会えた嬉しさか、はたまた菓子につられたのか、白い歯を見せて海華が微笑む。

邸宅へ向かい、仲睦まじく並び歩く二人を少し離れて追い掛ける人影があることを雪乃は勿論、海華も気付くことは無かった。






 「――ところで海華ちゃん、あれから少しは落ち着いた?」


 手に白磁の湯飲みを持ったまた、些か心配そうに雪乃が訪ねてくる。

邸宅に着いてから、二人は茶菓を前に他愛ないお喋りに花を咲かせていた。

雪乃の問い掛けに、一瞬哀しげな表情を見せた海華だが、すぐにニコリと笑みを見せて『はい』と返す。 あれから、とは間違いなく毒殺事件の事を指しているのだろう。


 「修一郎様は勿論ですが、雪乃様にまでご心配をお掛けしてしまって……」


 申し訳御座いません。

深く一礼する海華に、雪乃は慌てて首を横に振る。


 「いいのよ、そんな事……。私は何も出来なかったもの。あのね、その事で海華ちゃんに聞きたいことがあるの」


 「はい、どのような事を……?」


 困ったような笑みを見せる雪乃に、海華はちょこんと小首を傾げた。


 「ええ、もし……もしも嫌だったら答えなくてもいいの、気に障ったならごめんなさいね」


 一度言葉を切った雪乃を不思議そうな面持ちで彼女を見詰める海華に、思いもよらない問いが投げ掛けられた。


 「海華ちゃん貴女……その慎太郎という人と、本気で一緒になりたかったのかしら……?」


 ポカン、と海華の口が開く。

が、次の瞬間、膝に乗せていた手をギュッと握り締め、顔を伏せてしまった。

雪乃は焦る。

海華が今にも泣き出しそうに見えたからだ。


 しかし、再びゆっくりと顔を上げた海華の目に涙は無い

ただただ、黒い瞳を真っ直ぐ雪乃に向けていた。


 「私……、本当はよくわからないんです。慎太郎さんを好きだったのか、今でもわからないんです……」


 ポツリと呟かれた台詞に、雪乃は息を飲む。

だが、海華の言葉に驚いていたのは、雪乃だけでは無かった。

雪乃と海華が居る客間、その襖一枚隔てた隣の部屋で、耳をそばだてながら二人の話しを盗み聞きする男三人の姿があった。

修一郎に桐野、そして下駄を抱えた朱王だ。


 雪乃からは、海華と二人だけで話しをする、と 言われていた修一郎。

しかし、どうも気になって仕方ない、それは桐野も朱王も同じである。

ことに朱王は、朝から仕事に出掛けた海華の後をずっと着いて回り、今に至るのだ。


 すぐ後ろに兄がいるとは露知らず、海華はポツポツと口を開き始める。


 「確かに、一緒になりたいって言われた時は、嬉しかった……。今までそんなこと言ってくれる人なんて、いませんでしたから。でも、本当は凄く戸惑いました」


 「戸惑うって……どうして?」


 遠慮がちに雪乃が問う。

今度は、海華が困ったような笑みを見せた。


 「私、今まで男の人を好いたことは無いんです。慎太郎さんは、話していれば楽しかったし、一緒に居ても嫌ではありませんでした。でも、一緒になりたいくらい好きなのかわかりませんでした」


 海華の話しを固唾を飲んで聞き入っていた朱王。

次に出た海華の言葉を聞いた瞬間、思わずハッと息を飲む。


 「最初に考えたのは、兄様のことでした。反対するのはわかりきっていましたし、私も……兄様を独り残してで置いて行くのは、嫌だったんです」


無意識に襖へ伸びる朱王の手を引き留めたのは、隣に座した修一郎の大きく厚い手のひらだった。


「堪えろ朱王! 今出て行けば、これ以上何も聞けんぞ!」


蚊の鳴くような声量で修一郎が朱王を止める。

はっとしたように手を引っ込めた朱王は、己の肩を掴む修一郎に申し訳御座いません、とでも言うように頭を下げた。

その横では、二人を見遣りながらホッと胸を撫で下ろした様子の桐野がいる。

襖の向こうでは、淡々と海華が話しを進めていた。


 「兄様には、騙されてるって怒られました。頭ごなしに言われたら、何だか反発したくなって……それに、お伸さんに子供がいるって知った時も、絶対嘘だって思いたかった……だから……」


 「直接会いに行ったのね?」


 「はい。お伸さんの口から、慎太郎さんの子を孕んでるって聞いた時、吃驚して、悲しかったけれど……正直ホッとしてもいたんです。 申し出を断る理由が出来たし、兄様にもちゃんと謝って、仲直りしようと。でも、いきなりあんな事に……」


 そう言いつつ海華は両手で顔を覆った。

口や鼻から血を吹き出し、自分へ倒れ込んできたお伸の姿をきっと忘れることは無いだろう。


 「私が……私が馬鹿だったんです。ちょっと優しくされたから、浮き足立って。……ひと月も見てきたはずなのに、騙されてるのも気付かなかった……」


 顔を覆った手を離し、自嘲気味に呟く海華。

雪乃にも、襖越しに聞いていた三人にも酷く哀しげに感じる声色だ。

余りにも海華が哀れだ、と呻くように桐野が小声で呟く。


 するとすぐに、『海華ちゃん』と雪乃が静かに口を開いた。


 「たったひと月で、相手の全てはわからないわ。 一緒になろうと言われて、迷うのは当たり前なのよ。それに……」


 襖にぴったりと耳を当て、どうにか話しを聞き取ろうとする三人。

ミシミシと微かに襖が軋んだ。


 「私だって、あの人と一緒になるのに二年もかかったのよ」


 驚いたように顔を上げ、瞬きを繰り返す海華。

一方、襖越しの修一郎の顔がサッと青ざめる。


 「二年も……ですか?」


 不思議そうに首を捻る海華に、ニコニコしながら雪乃が頷いた。


 「ええ、あの人とはお見合いで会ったの。その時なんて、ずっと下を向いたまま私の顔なんてちっとも見なかったわ。何を聞いても、はい、か、いいえだけよ」


 自分の事が気に入らないのだろう、そう考えてこの話は断ろうとした雪乃、しかし、その日から修一郎は暇があるたびに雪乃の家を訪れたそうだ。


 「お菓子を持ってきたり、お芝居に誘われたり……。そうこうしていたら、いつの間にか二年たっていたわ」


 着物の袖を口元に当て、コロコロと笑う雪乃。

何の事は無い、修一郎は雪乃に惚れていたのだ。

しかし、海華が修一郎から聞いていた二人の馴れ初めは、全く逆だった。


 雪乃は俺にベタ惚れだった、だから一緒になってやった。

と、酒に酔うたびに聞かされていたのだ。

あの人、いつもそう言ってるのよ、と雪乃は困ったように言った。

さぁ、襖の向こうは大変だ。


 「なんだ、お主の言う事と逆ではないか」

 

 呆れたように桐野が呟き、朱王はポカンと修一 郎を見詰める。

湯気が立たんばかりに真っ赤な顔をした修一郎は、おもむろに襖へ手を伸ばした。


 「あいつ、何もそんな事まで喋らんでも……!」


 「修一郎様! 堪えて下さい!」


 朱王と桐野が慌てて引き止める。

男の人って、面倒ですねぇ。

海華の溜め息が混じった声が響いた。


 「でも、兄様も面倒ですよ。きっと私がお嫁に行ったら、一人じゃなんにも出来ませんから」


 「あら、でも朱王さんは器用な人でしょう? 家事くらいは……」


 全然出来ないんです! との答えが海華の口から飛び出すと、修一郎をなだめていた朱王が思い切り顔をしかめた。


 「器用なのは人形作りだけなんです。料理だってお鍋は焦がすしご飯も満足に炊けませんし、作らせれば作らせたで、胡瓜の煮付けだの、不気味な物ばかりだし……お掃除だってろくにしません。洗濯させれば、布地が破れるくらいに擦るんです。……兄様にいいお嫁さんが来てくれるまで、私どこにも行けませんね」


 おかしそうな笑い声が漏れる部屋、海華の後ろでは確実に襖がメリメリとしなっていた。


 「あいつ! そこまで兄貴の恥をさらさなくても……!」


 「待て! 朱王押すな……! おい! 危な……! うぉぉぉっ!?」


 バリバリバリバリッと紙が破け、木枠のへし折れる音と同時に襖がぶち破られ、悲鳴も上げられないままに修一郎ら三人が客間に転がり込んできた。

降って沸いた珍客に、キャーッ! とけたたましい叫びを上げながら、海華は雪乃の側へと飛びすさる。


 「あらまぁ! あなた!」


 「兄様っ!? 桐野様も! どうして!?」


 すっとんきょうな叫びを上げ、畳に転がる夫と兄を凝視する二人。

桐野はと言えば、何事も無かったようにニコニコとした表情で、お邪魔致しております、と一礼した。


 「あなたっ! まさか、盗み聞きなさっていたのですか!?」


 「い、や……俺はその……」


 「兄様もなの!? 桐野様まで巻き込んで!」


 「俺はな、お前が心配で……」


 柳眉を逆立てる女達に、しどろもどろで二人が答える。

桐野はなんとかなだめようとしたが、雪乃と海華には効き目が無かった。


 『ちょっとそこへ座って下さいッッ!!』


 二人揃ってそう声を張り上げつつ、ビシリ! と二人は畳を指差す。

なすすべも無く、修一郎と朱王はうつ向き並んで妻と妹の前に正座した。

そこからは怒涛の如き説教の時間。

盗み聞きなどみっともない、なぜコソコソ尾行ついてきたのか、等々……、済まない、申し訳ない、と繰り返す男二人を目の当たりにした桐野は、女は怖いものだ、と内心で呟いていた。






 「長々とお邪魔致しました」


 修一郎宅の玄関先で丁寧に礼を述べ、海華がペコリと頭を下げる。

その隣には些か意気消沈気味の朱王と、苦笑いを浮かべた桐野が同じく頭を下げていた。


 「いいのよ、朱王さんも海華ちゃんも、また遊びにいらっしゃい。桐野様、ご迷惑をお掛けして申し訳御座いません」


 恐縮したように一礼する雪乃の隣では、大きな体躯を縮ませた修一郎が所在なげに立っていた。

雪乃の言葉に桐野はカラカラと笑う。


 「いえいえとんでもない。私としては、少々面白いものを見せて頂きましたので」


 北町奉行ともあろう者が、妻にどやされて小さくなっているところなど他の者が見れば腰を抜かすに違いない。

玄関を出ようとする三人の後ろから、『責任持って襖を直して下さいませ!』と、夫に向けたであろう雪乃の一喝が響いていた。







 「朝から付いて来てたなんて信じられない!」


 沸き上がる怒りも露に、海華は道端に転がる石ころを蹴飛ばす。

桐野と途中で別れ、二人は真っ直ぐ長屋へ向かっていた。

太陽はだいぶ西へ傾き、もう少しで夕餉の支度をする時間だ。


 「だから、お前のことが気掛かりで……尾行つけて来たのは悪かったと言っただろう?」


 歩を進めるたびにガタガタ揺れる木箱を見ながら、朱王は必死に弁解を続けていた。

すると、海華の歩みがピタリと止まり、兄の方へ振り返る。


 「心配してくれたのは嬉しいわ。ありがとう。兄様、あたしね……」


 もう吹っ切れたわ。

そう言いながら、海華はニコリと微笑んだ。

その表情に嘘や迷いは見られない。


 「そうか……。本当に、大丈夫なんだな?」


 「うん。雪乃様の話し聞いてたら、気持ちの整理がついちゃった。もう、悩むのなんて止めたわ」


 朱王に向けられた笑顔は、いつもの海華のものだった。

これで朱王も一安心だ。


 「そうだそうだ、あんな野郎のことなんざ悩むだけ時間の無駄だ。さっさと忘れろ」


 クシャクシャと妹の髪を掻き回し、朱王は口角を上げた。


 「そうよね! もう忘れるわ! もっと、ずっといい人見つけて修一郎様達みたいな夫婦になるんだから!」


 修一郎らのような夫婦……そう聞いて、確かに修一郎のような男になら安心して海華を嫁がせられるな、と朱王は思った。

それと同時に、そんな男があまりり早く自分達の前に現れないで欲しいとも思っていた。


 「お前の亭主になる奴は大変だな。尻に敷かれるのが決まってるようなもんだ」


 あら、嫌だ。と海華は頬を膨らませる。

再びクルリと兄に背を向け、スタスタと歩き出す。

朱王もその横に付いて歩いた。


 「あたし旦那様には優しくするわよ! その前に、兄様にいいお嫁さん探してあげるから楽しみにしててね」


 突然の言葉に、朱王の足がよろける。

なぜ、そんな発想になるのか彼には全くわからない。


 「あのな、俺は嫁なんか貰う気は……」

 

 「お嫁さんが来なきゃ、あたしがお嫁に行けないじゃない! でも、いい人が見つかるまではあたしが一緒にいてあげるわ」


 「フン……なら、まだ暫くは世話になるか」


 「あたしも、お世話になります」


 ふにゃりと笑みをこぼす妹につられて、朱王の口からも微かな笑いが声が漏れる。

寄り添うように歩く二人の足元から、カラコロと軽やかな下駄の音が響いていた。










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