第三話
海華のいない寂しい部屋。
燦々と春の陽射しが注ぐそこで、朱王は今日何度目かの大きな溜め息をついた。
海華がお縄になって、はや五日。
都筑や忠五郎らが毎日汗だくになって走り回り、情報収集に躍起になっているが、相変わらず海華が返ってくる気配はない。
奉公人毒殺の下手人が人形師朱王の妹、海華だと瓦版に載ってからパッタリ仕事もこなくなった。
朝起きて表に出てみると、部屋の戸口に『人殺し』と殴り書きされた紙が貼られていた時もあった。
幸い長屋の住人達は、海華が犯人ではないとの朱王の言い分を信じてくれ、食事の世話やら色々気を使ってくれる。
幸吉や、他の仕事関係の知り合いも朱王を心配してよく顔を出してくれていた。
心無い嫌がらせや誹謗中傷など、朱王にとっては大きな問題では無い。
ただ、牢に繋がれている海華の事だけが心配だった。
出て行けなんて言わなければよかった。
一度でも慎太郎に会って、どんな男か確かめていればよかった。
もっと妹の行動に関心を持っていればよかった……。
日々、津波のように襲いくる後悔に苛まれる。
朝飯を作る気も食う気も起こらず、ただ壁に寄りかかり宙を眺めだけだ。
と、ドンドンと戸を力強く叩く音と同時に、ガラリと戸口が開かれた。
日の光を背に受け、立っていたのは高橋と伽南だ。
珍しい組み合わせに、朱王は小首を傾げながら目を瞬かせる。
「早くにすまない、朱王殿」
「高橋様……先生……」
「朱王、貴方大丈夫ですか? 酷い顔色ですよ?」
きょとんとした朱王を覗き込みながら、伽南は案じるような表情を見せる。
確かに、海華がいなくなってから物も喉を通らなければ熟睡することも無い。
伽南の言う通り、自分は酷い顔をしているのだろう。
「私は……大丈夫です。それより妹は……」
「ああ、その事だ。実は朱王殿、海華殿が……今朝方倒れた」
部屋へ上がった二人、暗い顔をした高橋から告げられた事柄に、朱王の全身から音を立てて血の気が引いていく。
「倒れた……!? 海華が!? 高橋様ッ!それで、海華の具合は!?」
「大丈夫だ、大丈夫だ朱王殿。すぐに牢医にみせた所、過労だと言われた。あまり物も食べていないらしいから、少し休めばよくなると」
「そう……ですか、よかった……」
高橋の言葉を聞いた途端、ガクンと身体から力が抜ける。
ガックリと項垂れ、両手で顔を覆う朱王に伽南が静かに寄り添う。
後ろで束ねられた髪からは、微かに薬の匂いがした。
「朱王殿、海華殿は心配いらん。詳しくはまだ話せないが、事は着実に動いている。もう少しなのだ。今、都筑が薬屋に張り付いている、奴も今回の黒幕だ」
「薬屋……海華に、毒を売ったと申し出た男ですか?」
そうだ、と大きく頷く高橋。
きっと慎太郎と薬屋は、良からぬ糸で繋がっているのだ。
「海華が持っていた毒を私も拝見させて頂きました。あれは鼠取り用ではない、かなりの猛毒です」
「では、最初から奉公人を殺すために? ……問題は、なぜ海華の木箱に毒があったか、ですね」
朱王がポツリと呟く。
高橋が言うには、海華の目を盗んで誰かが入れたようだ。
しかし、それがわからぬ限り海華は解放されない。
「近いうちに決着を付けると桐野様が申しておられた。今日は、それを伝えに来たのだ」
そう言いながら、高橋は立ち上がる。
良い報告ができずに申し訳ない、と顔を歪めた高橋に、朱王は深々と頭を下げた。
一朝一夕で解決出来るなど、朱王とて思ってはいない。
伽南は、後で良く眠れる薬を出すので庵まで来て欲しいと言い残し、高橋より先に長屋を後にした。
奉行所に戻る高橋を見送るため、外へ出た朱王は、ふと何かを思い出したように高橋に向かい声を掛ける。
「そうだ……高橋様、海華に一つだけ、言伝てをお願いできますか?」
「言伝て? あぁ、勿論だ」
柔らかい笑みを浮かべた高橋に、つられて朱王も小さな笑みを見せる。
「俺は……お前が帰るのをずっと待っているから、何も心配するな、と……。身体だけは大事にするように、と、お伝え下さい……」
お願い致します。 と、再度頭を下げた朱王。
わかった、必ず伝える。そう返事をした高橋は突き抜けるような青空の下、奉行所へと急ぎ帰って行った。
高橋の言葉通り、事件は翌日大きな動きを見せる事になったのだ。
「朱王ッッ! 朱王邪魔するぞっ!」
とっぷりと日が暮れた長屋に、男の緊迫した叫びが響き渡った。
ガバリと畳に立ち上がった朱王の前で戸口が弾け飛び、桐野と忠五郎が駆けずり込んでくる。
「朱王さん、あの薬屋とうとう吐きやがったゼッ!」
上がり框に両手を着き、ゼェハァと息を切らしながら親分が叫ぶ。
慌てて二人に駆け寄った朱王は、突然の出来事に返す言葉が出ない。
汗を滴らせながら桐野が語り始めたのは、以下のような話しだった。
海華に毒薬を渡したと証言した薬屋を、都筑と高橋はずっと尾行していた。
そして今日の昼、ある神社裏で慎太郎と薬屋が密かに会っているのを見つける。
薬屋は慎太郎から何やら包みを受け取り、そそくさとその場を後にした。
そこを捕まえた都筑らは、早速薬屋を番屋に連れ込み、徹底的に締め上げたのだ。
厳しい責めに耐えきれなくなった薬屋は、とうとう洗いざらい喋り始めたのである。
「あの薬屋が毒薬を渡したのは海華殿ではなく、慎太郎の方だった。奴め、賭場で大負けしてかなりの借金があったと。その金を慎太郎に肩代わりしてもらう代わりに、毒薬を渡したと申しておる」
険しい表情を崩さず、桐野が深く腕組みをする。
反対に、朱王の顔には希望の色が見て取れた。
「なら、やはり女を殺したのは慎太郎なのですね!? 海華は、妹は無罪だ!」
「そうだ、しかし慎太郎をお縄にせんことには海華も解放できぬ。朱王、これから共に来てくれ。……決着を付けに行くぞ」
桐野の眼光が鋭くなる。
なぜ自分が? と不思議そうな表情を浮かべる朱王の肩を、浅黒い手が力強く叩いた。
「お主とて、奴に恨み言の一つもぶつけたいだろう。……まさかとは思うが、一応だ。刀も持ってこい」
親分には聞こえないよう、耳元で小さく囁かれた台詞に朱王の目が驚きに見開かれる。
「ただし、殺すな。……よいな?」
「承知、致しました……」
おずおずと頷く朱王へ、桐野はニッ、と白い歯を見せた。
長持ちから引っ張り出した刀を手に、桐野と親分、そして朱王は満天の星空の下を駆ける。
都筑と高橋が見張る場所、慎太郎の元へと急いだ。
辻行灯が桜の花をボンヤリと照らす。
街中から少し離れた場所に店を構える一軒の料亭、その道を挟んだ向かい側、青葉を繁らせる林の中に都筑と高橋は身を潜めていた。
ちょうど店の入り口が見える場所だ。
一刻程前、慎太郎は一人の女を従えて店の暖簾を潜っていた。
海華が捕まってからまだ、ひと月もたってはいない。
なのに、へらへらと笑いながら女の肩を抱き、店へ入る慎太郎を目の当たりにした二人は腸が煮えくり返るほど憤慨していた。
許されるならば、その場で二、三発ぶん殴ってやりたいくらいだ。
店を睨み付けながら監視する二人の耳に、ガサガサと下草を掻き分ける音が届く。
「桐野様! 忠五郎に……おお! 朱王も!」
「二人共ご苦労だ、慎太郎の様子はどうだ?」
振り返った都筑と高橋に、桐野が片手を上げて答える。
気付かれぬよう、朱王は持参した提灯の灯りを吹き消した。
「都筑様、高橋様、慎太郎は……?」
「店に入ったままだ。その……女と二人で」
言いにくそうな高橋の声に刀を握る朱王の手にギリギリと力が入る。
もう、他の女に手を出したのか、海華はただ、いいように利用されゴミのように捨てられたのか……?
射殺すような視線が店に向けられる。
朱王らが見張りを始めて暫くたった頃だった。
店の入り口に現れた一つの人影、慎太郎だ。
連れの女は置き去りにしたのか、顔を赤らめ上機嫌に鼻歌を歌いながら暖簾を潜る。
千鳥足で行灯の下を行く慎太郎の後ろを、音も無く追い掛ける五つの影があった。
気の早い桜が頭上で花を揺らす。
新月の夜、辻行灯の灯りだけを頼りに慎太郎は家を目指していた。
暖かな春風が全身を包む、心地の良い夜だ。
楊枝を口にくわえたまま、覚束無い足取りの慎太郎。
その背後からおい、と自分を呼び止める低い声が響く。
あぁ?と剣呑な返事を返し、振り返ると、ボンヤリと光る行灯の下に人影が見える。
黒い着流しに黒い長髪。
白く浮かぶ顔はギリギリと柳眉がつり上がり、 憤怒の表情が刻まれていた。
舞台役者のように整った顔立ち、一見すると女だが背丈からして男のようだ。
「あんた誰だ? なんか用かよ?」
楊枝を吐き出した慎太郎は眉を寄せ、ふてぶてしい態度を見せる。
すると人影は滑るように間合いを狭めた。
「海華の兄だ。貴様がたぶらかした女の……。 妹のこと、忘れたとは言わせないぞ」
ザワリ、と風が吹き抜け、白い花弁と共に朱王の髪を揺らす。
面倒臭そうな溜め息をつき、バリバリ頭を掻いた慎太郎は嘲るような視線を朱王に投げた。
「ああ、海華の兄貴か。で? 何しに来たんだ? あの女、うちの奉公人に毒盛ってぶち殺しやがって……詫びでも言いに来たってのか?」
「貴様……ッッ! よくもそんな!」
ギシッ、と歯軋りの音と同時に朱王の手が太刀に掛かった。
鋭く輝く白刃を目にした途端、慎太郎の表情が固まり、足元がよろめいた。
「薬屋が全部吐いた。貴様に毒を渡したとな……。言え……全て話せば、命だけは助けてやる。……さっさと本当の事を言えッッ!」
刀の切っ先が顔面近くまで突き付けられた。
先程までの威勢はどこへやら、間の抜けた悲鳴を上げて慎太郎はドシャリと尻餅をつく。
濃緑色の着流しが土で汚れた。
「わかった! 俺だ、俺がやった! すまねぇ、悪かった! あんたの妹は……やっちゃいねぇ! だから、助けてくれっ!」
口から泡を飛ばし、見苦しいばかりに命乞いをする慎太郎を、汚いモノでも見るような目付きで朱王は見下ろしていた。
こめかみには、くっきりと青筋が浮かんでいる。
「なぜ、海華なんだ? どうして海華に目を付けたっ!?」
「誰でもよかったんだッッ! 女なら誰でも……! 女なんざ、優しくしてやりゃあすぐ言うことを聞くんだ!」
「誰、でも……よかった……!?」
ガチャ、と刀の鍔が鳴る。
真っ白に変わる頭の中、感じるのは深い場所から噴き出す怒りだけ……。
「あんたの、あんたの妹だって……、俺の嘘を頭っから信じてた……下橋屋の女将に納まりたいって、下心があったんだ! 奉行所でも番屋でも隙に駆け込むがいいぜ! 手前に脅されて無理矢理喋らされたってぇ、逆に訴えてやらぁっ! 尻軽の妹にヤクザな兄貴か、こりゃぁ笑わせる……」
「黙れぇぇ――ッッ!」
慎太郎の言葉が終わらないうち、朱王の怒号が闇夜を震わせた。
振り上げられた白刃、空気を切り裂く鋭い音をたてながら刃は慎太郎の首に襲い掛かった。
ダンッッ! と肉を打ち付ける鈍い響き、同時に上がるグェッ! と蛙の潰れたような悲鳴。
白目を向き、口からは泡を吹き出した慎太郎が地面へと力なく崩れ落ちた。
その様子を、身体を激しく戦慄かせながら朱王は見詰めている。
「……気が済んだか?」
突如、後ろから低い男の声がした。
ゆっくりと振り向けば、腕組みをしながらこちらを見遣る桐野の姿がある。
ギリッと唇を噛み締め、無言で頷く朱王、倒れ伏す慎太郎の姿を見た桐野は小さく唇を歪める。
「峰打ちか……。あれだけ言われて、よく耐えたな」
「――殺しはしないと……お約束致しました……」
顔に汗で貼り付いた髪を掻き上げながら、静かに刀を収める。
噛み締めていたままの 唇がほどけ、小さな溜め息が夜気に消えた。
海華が戻されるとの吉報を留吉が伝えに来たのは、太陽が西の空に沈み掛けた夕方頃だった。
昨夜、桐野らに引き立てられた失神したままの慎太郎。
その後、都筑や高橋が一昼夜かけて厳しい調べを行った結果、お伸に毒を渡したことを白状したのだ。
動機は、やはりお伸が身籠ったことだ。
元々遊びで手を付けた女、一緒になる気など毛頭無い。
しかし、腹の子は日に日に育つ。
一緒になってくれなければ、慎太郎の子が腹にいることを旦那や女将に話す、そう、お伸に半ば脅され、頭にきて毒を渡した。
腹の子に滋養が付く薬だと偽って。
そして、海華に罪を擦り付けるため、隙を見て木箱に毒の残りを隠し入れたのだ。
所詮、海華は女だ。
厳しい調べに耐えきれず、自分かやったと言うだろう。
慎太郎の、その考えが甘かったようだ。
『都筑様がよ、調べの途中で鬼みてぇに怒り出して、なだめるのに大変だったらしいぜ』
完全に日が落ち、闇が世界を支配する時刻。
奉行所の裏手で妹を待つ朱王の脳裏に、夕方聞いた留吉の台詞が甦る。
親身になって海華の無実を証明してくれた桐野達には、本当に何と礼を言っていいのかわからない。
ただただ、有り難う御座いますと頭を下げるしか出来ない。
朱王は、大切そうに胸に抱えた包みをギュッとい抱き締めた。
と、ギシリと木戸を軋ませ、穏やかな笑みを湛えた桐野が姿を現す。
慌てて朱王は頭を下げた。
「おお、来ておったか。長い間待たせてすまなかったな、約束通り、海華殿は返すぞ」
ポン、と何かを叩く軽い音がし、押されるようにひょろりと木戸から出て来た海華は、朱王が最後に見た時に比べ、一回り程痩せていた。
「海華……! 大丈夫だったか?」
「兄様……心配掛けて、……ごめんなさい……」
視線を地に落としたまま、消え入りそうな声が闇に溶ける。
もっと労りや、優しい言葉を掛けてやらなければと思う。
しかし、胸が詰まったように、言葉は出てこなかった。
向き合ったまま無言で立ち尽くす二人に、桐野は僅かに首を傾げる。
が、静かに海華の肩を叩き、振り向いた海華の頭上でニコリと微笑んだ。
「不自由な思いをさせてすまなかったな。今日は帰ってゆっくり休め。後の事はこちらに任せろ」
「はい……桐野様、ありがとうございました……!」
「お世話になりました!」
深く頭を下げ、何度も礼を述べる二人。
うむ、と一言だけ答え、桐野は木戸の向こうへと消えた。
春風に吹かれ、立ち尽くす二人。
視線を落としたままの海華の口から、ポツリと小さな呟きがこぼれた。
「来て……くれないかと、思ってたわ……」
「馬鹿、来ないわけが無いだろう……」
僅かに悲しさを含ませた兄の声色。
そろそろと顔を上げれば、自分を真っ直ぐに見詰める兄と視線がぶつかる。
「あたし、本当馬鹿だったわ……兄様ごめんなさい……っ!」
最後は涙で声が詰まる。
嗚咽を漏らす妹の身体を、朱王は側へと引き寄せた。
「出て行けなんて言って、ごめんな。一緒に帰ろう。疲れてるだろ?」
あやすように頬を撫でると、海華がコクンと頷く。
すると朱王は、抱えていた包みをその目の前に差し出した。
涙と埃で汚れた顔で不思議そうに兄を見遣り、 海華は包みをほどく。
中から出てきたのは真新しい、綺麗な木目の桐下駄だ。
深紅の鼻緒に海華の目が引き付けられる。
「あんな奴に貰った物なんざ履くな……。どうせ安物なんだろ?」
照れ臭そうに鼻の脇を掻きながら、朱王が言った。
泣き笑いの表情を浮かべた海華はギュッと兄からの贈り物をい抱き締め、ありがとう、と嬉しそうに呟いていた。




